一、 聖書を読み、「パンをさく」ことから教会は始まった

 「わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」
(『テモテへの手紙一』第四章一三節)
 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いた時、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受けいれたからです。事実、それは神の言葉であり、また信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」
(『テサロニケの信徒への手紙一』第二章一三節)
 
「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます」
(『テサロニケの信徒への手紙一』第五章二七節)
 「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。またラオディキアから回ってくる手紙を、あなたがたも読んでください」
(『コロサイの信徒への手紙』第四章一六節)
 はじめに四つの新約聖書の箇所を挙げました。これだけ見ても、初代教会の人々の生活の中で使徒の手紙、および聖書が読まれていく様子を見ることができます。この時代に「聖書」という場合には、イエスご自身も読んでおられた聖書ー旧約聖書ーを第一に指します。同時に人々は自分たちの信仰の指導者、使徒たちの手紙を公の場で読みました。パウロはそれを「強く命じて」います。さらにそれは「人の言葉としてではなく、神の言葉として」受け入れられるようになっていきました。それは一部の学者が決定するものではなく、教会の集まりの中で朗読されてふさわしく、共同体の信仰が強められていく、そうした書簡なり書物が、「神の言葉として」受け入れられていったのです。ふさわしくないと見なされたもの、真正ではないと見なされたものは読まれなくなっていったでしょう。そうした人々の信仰を養う使徒の文書は、一つの地方の共同体だけでなく、他の地域でも読まれるようになっていきます。『コロサイの信徒への手紙』はその辺りのことを伝えてくれます。
もともとキリスト教礼拝の背景にあるイスラエルの人々の宗教生活において、聖書朗読は大変重要なものでした。とくに新約聖書にもよくあらわれる「会堂」(シナゴーグ)では、「律法の書」(『創世記』以下のいわゆるモーセ五書)と「預言の書」、その他の書が継続して朗読され、現在の私たちの祈祷書の聖書日課のような、三年周期の朗読配分も行われていました。初代のキリスト者たちは、当初はユダヤ教の会堂礼拝にも参加していたと言われます。しかしやがてそこを出て(追放されて)自分たちの仲間の家に集まり、次第にキリスト者の礼拝が形を現していきます。その核となったものは、集まって「聖書」(旧約聖書)と使徒たちの手紙や記録(後に福音書と言われるものを含めて)を読むことと、キリスト・イエスご自身がなされたように、食卓を囲んで「パンをさく」ことでした。聖書の中では聖餐式の原型は「パンさき」と呼ばれています。もちろん詩編を歌うことや、共に祈り合うことが行われました。はじめに教会という組織や制度があり、それから「聖書でも読もうか」というのではなく、聖書を読み、祈り、パンをさくために人々は集まったのだと、そこから教会そのものが出発 していったのだと言うことが出来ます。