二、歴史の中で  − その後の発展と聖公会 −

 二世紀の中頃、後に殉教したユスティノスが『第一護教論』という書物を書いて、キリスト教の礼拝の様子についての記録を残しています。
 「太陽の日と言われる日に、町や村に住むわたしたちの仲間は、皆一つの所に集まり、時間が許す限り、使徒の記録、あるいは預言者の書物を読む。」
 「朗読者が読み終わると、司会者が、これらの美しい教えを学ぶように勧め、励ます話をする」
 「それから、皆一緒に立って祈る。祈りが終わると、先に述べたようにパンとぶどう酒と水が運ばれる。司会者は祈りと感謝とを、自分に与えられた力によってささげ、皆はアーメンと答える」
 ここには「使徒の記録」と「預言者の書物」、つまり今日の旧・新約聖書の朗読と、それに続く説教、祈り(わたしたちの祈祷書では「代祷」に相当)、パンとぶどう酒と水の準備と奉献、そして感謝聖別の祈りへと繋がる聖餐式の形が見事に表わされています。
 その後、教会の礼拝はどんどん形式を整えていきます。今日の『新約聖書』二七書も早い時期から形を整えていきますが、いくつかの書をめぐる議論は残り、西方教会において教会の正典(規範)として確立するのは、四世紀末から五世紀初頭と言われます。
 礼拝における聖書朗読の実践も多様でした。四世紀のアンティオキアを中心とするシリヤの教会では、会堂での律法の書と預言書の朗読が残され、それに続いて使徒書と福音書の朗読が行われたり、アルメニア、古代ビザンティン、古代ガリア(フランス地方)、モザラブ(スペイン地方)、古代ミラノ、そしてエジプトの礼拝では一般に旧約聖書が読み続けられました。
 一方コプト教会やエチオピア教会では、新約聖書のみの四朗読(パウロの手紙、牧会書簡、使徒言行録、福音書)もあったそうです。
 七世紀以降はビザンティンでもローマでも、聖餐式の聖書朗読は使徒書と福音書だけになっていきます。
 聖公会の祈祷書が一六世紀に時のカンタベリー大主教トーマス・クランマーを中心に作られた時、この点に関してはローマの伝統が踏襲されました。
 二〇世紀の世界的な、教派を越えた礼拝と祈祷書改訂の動きに至るまで、ローマ・カトリックや聖公会の聖餐式の中では使徒書、福音書の二朗読となってきたわけです。
 しかも聖書を含め礼拝全体は、西方教会では中世を通して原則的にはラテン語で行われていました。
 ラテン語が聖なる言葉、教会の言葉と考えられたのです。聖書を自分たちの言葉に翻訳する動きももちろんありましたが、それは命がけのことでした。
 一六世紀の宗教改革でなされた大事業の一つは、聖書の自国語化でした。
 ルターによる聖書のドイツ語訳が、後のドイツ語の基礎をつくったと言われる程に歴史的意味を持つわけです。
 英国においても、クランマーが、聖書のみならず、自国語による、つまり国民みんなにわかる言葉による礼拝と、そのための英語の祈祷書の作成を通して改革を成し遂げ、聖公会が成立していきます。クランマーの手になる聖公会の歴史的な最初の祈祷書、『第一祈祷書』(一五四九年)に、このような「序文」があります。
 「聖パウロは教会内では人々が理解し、聞くことによって益となる言葉で語るべきであると述べているが、このイングランド教会における礼拝は、過去何百年の間、人々の理解しえないラテン語で行われ、耳では聞くものの、心が教化されることはなかった」
 ラテン語であるだけでなく、その時代の朗読配分や礼拝儀式そのものが、余りに多くなった聖人の祝日やそのための特別の祈りや音楽によって繁雑を極め、何がキリスト教礼拝の中心なのか分からなくなってしまっていたのを、クランマーは教会の礼拝の古典的な伝統を受けつぎつつ、簡潔に改めようとします。
 自国語による、会衆が理解出来て参加しやすい礼拝を通して、会衆の信仰が養われること。それが聖公会の大事な出発点だったと言えます。当然、分かる言葉での分かりやすい聖書朗読は、その中で重要なものです。
 英国教会の祈祷書の英語、またその美しい朗読が、今日の英語の基礎となったとさえ、言われるのを聞いたことがあります。
 二〇世紀、一九六〇年代になってから、ローマ・カトリック教会をはじめ世界の教会の中で、大きな教会刷新、自己変革の動きがあり、礼拝も刷新の中心の事柄となります。
 ローマ・カトリック教会でも礼拝全体をそれぞれの自国語で行うようになります。それと共に聖書自体や、礼拝における聖書朗読についても大変多くの研究がなされ、旧約聖書朗読の回復も含めた、現在私たちも用いている聖書日課配分の理論や、聖書朗読に関する理解が深められてきました。
 初代教会の人々がそうであっただろうように、「新しい神の民」として共に集い、聖書の朗読を聞き、祈り、パンを分かち合う、そうした教会の原点への注目は、今日教派を越えて大切にされようとしています。