聖書朗読の実際
 この章では、礼拝、とくに聖餐式における聖書朗読の実際について述べてみます。
 先にローマ・カトリック教会で礼拝に関するさまざまの改革があったと述べましたが、それに基づいて種々の文書が出されています。その中の『ミサの聖書朗読指針』(典礼省)の一節では、このように言われています。
この章では、礼拝、とくに聖餐式における聖書朗読の実際について述べてみます。
 先にローマ・カトリック教会で礼拝に関するさまざまの改革があったと述べましたが、それに基づいて種々の文書が出されています。その中の『ミサの聖書朗読指針』(典礼省)の一節では、このように言われています。
「聞きとれる声で、はっきりと、味わえるように読む朗読者の読み方が、何より、朗読によって神のことばを集会に正しく伝えることになる」
「聞きとれる声で、はっきりと、味わえるように」
 まことに簡明な表現で、これ以上のことを言う必要はないと思えるほどです。どんなに理屈をこねても、また精神修行をして朗読に臨んだとしても、聞きとれず、はっきりとせず、味わいにくかったら仕方ありません。
 どうすることが味わいやすいのでしょうか。
 ロボットの言葉のように無表情に機械的に読むのが味わいやすいか、逆に抑揚たっぷりに自分の感情を注ぎこんで読むのが、聞き手にとって(語り手にとってではなく!)味わいやすいのか。
 おそらくどちらでもないでしょう。
 結論としては「聞きとれる声で、はっきりと、味わえるように」という言葉で十分なのだと思いつつ、もう少し道草をしてみたいと思います。