一、 神の「言葉」は「出来事」になる

 神ご自身の「言葉」には「出来事」を引き起こす力があります。
 『創世記』で「光あれ」と神が言われる時、光があります。ヘブライ語の「ダーバール」は言葉でもあり、事柄でもあります。「出来事」とは、そこに何かを引き起こすことと言ってみてはどうでしょうか。
 聖書の朗読は、たんなる文字の朗読として終わるのではなく、その場に何事かを引き起こす力を持っているのです。聖書自身の中に、そうした場面を見い出すことが出来ます。
 ナザレの会堂で ナザレの会堂でのイエスご自身の聖書朗読の記事があります(ルカ福音書第四章)。
 イエスは会堂で指名され、当時巻き物だった聖書ーその時はイザヤ書ーを手にとって立ち上がられ、朗読されます。朗読といってもおそらく歌われた筈です。
 聖書も詩編も、イスラエルにおいては地方や家族によって異なった、多様なメロディで歌われるものでした。
 読み終えたイエスは
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
 と話し始められます。人々は驚き色々言い始め、ついにイエスを崖から突き落とそうとする事態に発展していきます。何事かが起こり、始まったのです。
 『ルカ福音書』において、イエスは聖書朗読をもって働きを開始したと言えます。
 エマオ途上で さらに『ルカ福音書』の最後の方にも、印象的な場面が出てきます。
 復活後の弟子たちへの顕現物語の一つ、エマオ途上の物語(ルカ福音書二四章)です。
 復活されたイエスは、失意のうちにエルサレムを離れ、トボトボ歩いていた弟子たちに現れ一緒に歩かれます。そして道々「聖書全体にわたり、御自分について書かれていること」を説明されます。もちろん旧約聖書のことです。
 聖書を通してイエスはご自身のことを説き明かされ、それを聞いた時、弟子たちは心が燃えるようになります。
 この場面は礼拝での聖書朗読ではありませんが、私たちも聖書朗読を通して、心が燃えるような復活の主との出会いの経験へと招かれているのです。
 ヨシヤ王の改革 もう一カ所、『列王記下』第二二章を挙げておきましょう。
 すっかり先祖伝来の神の教えを忘れ、偶像崇拝など堕落していた王や人々が、神殿の修理工事中に発見された「律法の書」を朗読し、「衣を裂いて」悔い改めるという記事です。「申命記」改革と言われる出来事です。
 聖書の朗読を聞いて、驚いて、生き方を変える「回心」が起こります。神の言葉の朗読に触れることは、喜びであると同時に、回心・懺悔につながります。
 私たちは聖餐式の「懺悔」を重んじます。それは大切なことです。しかしあの「懺悔します」という部分だけが懺悔ではなく、朗読を聞くことも、同じような回心の出来事であり得るのです。
 決して「み言葉」ー聖書朗読ーは聖餐式の「前座」ではないということは、ここでも言えます。