二、 「読み手」もまた「聴き手」である  − 主ご自身が語られる −

 冒頭に挙げた聖句の中から、礼拝における聖書朗読の起源に、使徒の手紙の朗読があることがわかります。
 しかもそれは人間の言葉であるけれども、神の言葉として共同体によって受け入れられ、そのようなものとして聞かれるようになってきました。そこから次のことが朗読の指針として浮かんできます。
 まず朗読者自身は神の言葉を伝えているとしても、神ではないということです。
 当たり前のことですが、聖書の中で神様の言葉を、あるいはイエスご自身の言葉を読む時に、一体朗読者自身は何者なのかということになります。
 一言で言えば、朗読者は福音を宣べ伝える者であると同時に、それを聴く者です。朗読者が朗読する時、そこには主ご自身が臨在される、そこで真に語られているのは主ご自身であると言えます。
 一方、朗読者は決して主自身ではないわけです。しかし私たちのこの人格、肉体、声という器を用いて、主ご自身が語られる、ここに礼拝における聖書朗読の困難と喜びがあると言えるでしょう。
 しかしこのことは、それほど神秘的に考えなくとも、他人の手紙を公の場で紹介、朗読する時に自然にやっていることでもあります。
 例えば、ある教会員の方が海外に出張されていて、教会に手紙が来たとします。親しい人がそれを礼拝の後で会衆の前で読みます。大切な仲間からの手紙であった時、会衆は、手紙の朗読者の話を聞いているとは誰も思わず、本当の送り手がそこにいるかのように感じるでしょう。
 また読んでいる人も、自分は手紙の主ではないと知りつつ、しかし共感をもって読み、紹介するでしょう。
 先程申し上げたことが自然に、身近な形で行われています。
 そこからやはり朗読の指針についても同じことが言えます。朗読者が真の送り手になりきって感情移入しきって読んでもおかしいし、逆にまったく冷たく機械的に読んでも変です。節度と共感をもった丁寧な朗読が、真の送り手の言葉を伝えるのでしょう。
「朗読者自身が、聴き手でもある」
神の裁きの言葉を、あるいは励ましの言葉を、自分も会衆の一人として聴かされつつ、またそれを仲間である会衆に、的確に伝える大切な使命を、朗読者は持つのです。