立教学院創立125周年によせて

遺された手紙

ー立教創立者ウィリアムズの手紙を読むー

山室いちげ(立教学院嘱託)

(雑誌『立教』172号(Spring、2000)より許可を得て転載)

表書き 本文
ウィリアムズが、岸和田で宣教活動中の菅寅吉に宛てた手紙の表書き 同、本文。

 立教のチャペルの横にたたずむ白い髭の老人。着古し色あせて羊羹色になった服のポケットに金平糖を忍ばせ、出会った子供らにふるまうのを楽しみにしている。この老人の名はチャニング・ムーア・ウィリアムズ。立教の創立者であり、また日本聖公会の初代主教でもある。

 いまだ禁教下にあった日本に、アメリカ聖公会の宣教師として派遣された彼は、1859年、長崎にその一歩を印した。その後は大阪、東京、京都と居を移し、1908年に帰米、1910年に故郷リッチモンドで81年の生涯を閉じた。日本でのおよそ50年にも及ぶ歳月において、彼は主教として、また主教の座を降りた後は一介の宣教師として、伝道活動に心血を注いだ。

 「道を伝えて己を伝えず」。ウィリアムズの生き方は、しばしばこの短いフレーズで形容される。たしかに彼は、己がどのような人物であったか知られることを嫌い、自分が書いた日誌などの書類は帰米するときに燃やしてしまった。とはいえ、ウィリアムズ自身の手になる記録類が全く遺されていないというわけでは、決してない。ウィリアムズといえども、他人に宛てた自分の手紙までは消し去ることはできなかったのである。それらの手紙を通して、私たちは、ウィリアムズという人物に触れ、その足跡を辿ることができる。

 ウィリアムズの手紙が最も多く残されているのは、テキサス州オースチンにあるアメリカ聖公会の文書館(Archives of Episcopal Church)である。ここには中国に派遣されてから日本に渡り、帰国するまでのおよそ半世紀もの間にウィリアムズが本国に書き送った膨大な手紙類が保管されている。

 一方、国内では京都に、日本語や仏教について研究していた際のノートや、ウィリアムズ宛の手紙、蔵書、本人が使ったとされている黒い皮かばんなど、ゆかりの品々が処分をまぬがれて遺されている。この他、日本人宣教師たちへ送った手紙が、関係者の遺族などの手許で今日まで大切に保管されている。

 立教大学にもウィリアムズの手紙が遺されている。1905年から離日直前の1908年4月までの間に、菅寅吉氏宛てに書かれた11通の手紙がそれである。これらの手紙は、寅吉氏の長男である故菅円吉教授によって本学に寄贈された。ここで少し、この手紙をひもといてみよう。

 当時京都にいたウィリアムズは、大阪の岸和田で伝道活動をしていた寅吉氏と、これらの手紙を通して連絡を取り合っていた。ウィリアムズは、たびたび手紙で岸和田訪問の予定を寅吉氏へ知らせている。また岸和田へ行く際には鉄道を使い、「tomo」が用意した「bento」持参したことも手紙から分かる。菅円吉教授によると、この弁当は「老監督(ウィリアムズ)のクック」の「友さん」が作ったサンドイッチで、残りを分けてもらったこともあったがおいしかったという。

 一時、寅吉一家と京都で生活を共にしたこともあったウィリアムズは、その後も一家と親しく交流した。寅吉一家と岸和田で楽しい時間を過ごしたことや、自分の名前を洗礼名にした寅吉氏の3人の子供たちー長男から順にウィリアムズ、チャニング、ムーアーーをかわいがっていた様子も、この手紙からうかがい知ることができる。

 寅吉氏へこれらの手紙を送った頃のウィリアムズは、すでに70代も後半にさしかかり、視力の記憶も足腰も弱っていた。その衰えようは、円吉少年が、こんな老人がどうして岸和田のような遠いところまで来るのだろう、と不思議に思うほどであった。寅吉氏宛の手紙も、時として字や行が乱れている。当時、聖公会内部では、ウィリアムズの年齢を考慮して、岸和田行きはやめた方がよいとの意見が出るようになっていた。ウィリアムズは1907年末、今後は岸和田へは行かないほうがいい、と聖公会幹部から助言されるだろうけれども、そうなったら残念だ、との懸念を寅吉氏へ書き送っている。そして翌年3月、ウィリアムズは岸和田へ行く途中、駅で倒れ、しかも自分で行き先を思い出せないという事態に直面してしまう。自分の老いを痛感させられた出来事であっただろう。事実彼は、自分は老いてしまった、楽しいホームであった岸和田へはもう二度とこられないだろう、と寅吉氏に語っていたのである。翌四月末、ウィリアムズは帰国する。

 京都を去る前、ウィリアムズは手紙で寅吉氏にこう言い置いていた。自分が去っても、その穴は寅吉氏やその子供たちが埋めるだろう。子供たちが道を踏み外さないよう、見守っているように、と。「至急之件」、と封筒に書かれた日本語の手紙が添えられたこの手紙を書いてほどなくして、ウィリアムズは日本を去った。そして、二度と日本の地を踏むことはなかった。

 ところで、ウィリアムズの手紙が内外に残されているとの情報は、三〇年前にはすでに知られていたことである。かつて立教学院は、創立百周年を記念してウィリアムズ主教書簡集の出版を企画したが、出版されないままに関係者が次々と世を去り、とうとう創立百二十五周年を迎えることになった。ジーン・S・レーマン元立教大学教授と、最近ウィリアムズに関する著書を出版された、ビヴァリー・D・タッカー氏とが共同で校訂に取り組み、ウィリアムズ研究の第一人者である大江満氏が解説を加えた『ウィリアムズ主教書簡集』が刊行された暁には、道を伝えて己を伝えなかったウィリアムズの生の声に触れることができるだろう。

太字は転載者)

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