月報「コイノニア」
2001年2月号 No.210


四 十 日

司祭ヨハネ

彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
           (列王紀上第19章4―8節)

今年の大斎始日(灰の水曜日)は2月28日、この日から大斎節に入ります。大斎節は6回の主日を除き40日間続きます。この40という数は、象徴的な意味を持つ重要な数として、聖書の中でしばしば用いられています。
 40年は一世代をさす数字でした。モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民は40年間荒れ野をさまよい、神に反抗した世代の人びとが死に絶えるまで約束の地に入ることが出来ませんでした(民14・26―35)。士師たちによる解放の後、イスラエルには40年(またはその倍数)の間平和が訪れます。ダビデは40年間統治しました。ここからさらに、かなり長い期間を表わす数として40が用いられます。ノアの洪水では40日40夜雨が降り続き、モーセのシナイ山滞在も40日40夜とされています。
 預言者エリヤはイゼベルの迫害を逃れて荒れ野をさまよい、神からの食べ物に力づけられながら40日40夜かかって神の山ホレブに着きました(冒頭聖句および図参照)。主イエスは荒れ野で40日間昼も夜も断食して後誘惑を受けられました。荒れ野を舞台とするエリヤの場合も主イエスの場合も、イスラエルの荒れ野での滞在年数40年を象徴的に繰り返しています。それによって、神に反抗したイスラエルとは対照的に、ホレブで神の顕現にあずかったエリヤや、悪魔の誘惑を神のみ言によって敢然と退けたイエスの姿を通して、ひたすら神のみ心に従う新しい人の出現が強く印象づけられます。
40日の大斎節(四旬節)は四世紀初め頃には復活祭の準備として形づくられていました。教皇レオ一世(5世紀)はこれを「40日の錬成期間」とし、信徒は日常生活の汚れを洗い落としキリスト教的生活の完全な規律に戻らねばならないと述べています。それは現在の大斎節第一主日に始まり、聖木曜日に終わる40日間でした。その後に「聖なる3日間」と呼ばれた聖金曜日(受苦日)、聖土曜日、復活の主日が続きます。
 ローマ典礼ではこの四旬節は、回心と断食で罪と闘うこと、および信仰生活・典礼生活を通して善に励むことの二つを内容としており、初期には断食が中心ではありませんでした。やがて断食が強調されるようになり、主日は断食が禁じられていたため、期間の冒頭に4日を付け加えて水曜日を大斎始日とし、聖金曜日と聖土曜日も合わせて断食の40日となりました。断食は夕方の一回だけ食事を摂り、肉もぶどう酒も断つものでしたが、教会がこれを義務として命じたことはなく、慣習として行われたものです。
 むしろ教会は、大斎節を特に共同礼拝の形で霊的生活を鍛錬し高めていくものとして重視してきました。ふだんは主日にだけ定期的に行われていた聖餐式を、大斎節中は毎日行うことです。エリヤの例を思い起こすとき、これは非常に意味の深いすばらしい習慣で、私たちの教会でもぜひ回復したいものです。
(図は13世紀末〜14世紀初、プスコフ付近「預言者エリヤとその生涯のエピソード」)


2001年度 受聖餐者総会開催

去る2月18日、礼拝堂において受聖餐者総会が開催されました。午後1時5分、出席者40名、委任状73通、現在受聖餐者194名の過半数の出席を確認して、議長の下田屋司祭が総会の開催を告げました。開会祈祷の後、司祭からの教勢報告と各部門代表による活動報告につづいて、会計報告、教会の目標と行事計画、予算、納骨堂規定改正について議事が進められ、各議案とも原案通り承認されました。
新しい礼拝堂が完成して一年、新しい皮袋にふさわしい、新しい葡萄酒をいかに醸造させるか。葡萄一粒づつの課題を考える年になりそうです。

教会の教勢と活動報告
 教区人事異動により浦地司祭に替り四月から下田屋司祭を迎え、礼拝の持ち方も変わりました。祝日・小祝日の聖餐式、月曜日から土曜日までの毎日、朝の礼拝と夕の礼拝、毎月第三水曜日の逝去者記念聖餐式が執行されるようになりました。

各部門報告
 総会資料に沿って各部門の代表者から活動報告が行われました。特記すべきは、礼拝堂音楽委員会が設立されたことです。委員会は長年聖歌隊のまとめ役を務められた新実康男兄の退任を契機に、続木創兄を委員長として創設されたものです。活動は聖歌隊の運営のみならず、コンサートが3回開催されました。また、下田屋司祭の指導のもとクリスマス・イブ・キャンドルライトサービスの式文が改定されました。プレインソングによる感動的なキャンドルライトサービスは記憶に新しいところです。さらに、オルガニストマニュアルを作成し、HPに掲載したところ、思った以上の反響で、海外からも照会があったそうです。
 今年の聖歌隊は年8回を目標に礼拝奉仕を計画されています。また、ハンドベル・クワイヤの発足や文語唱詠聖餐式の実施やチャントの見直しも計画されています。

会計報告
 経常会計の収入では、信施金、感謝献金が予算を上回っています。
 支出では水道高熱費が礼拝堂空調試運転及び漏水のため、予算額を約8円超過しましたが、今年度は150万円の予算内で収まる予定です。また、対外協力費を115万円支出していますが、できれば予算の1割を目標にしたいとの報告がありました。
 収支については、赤字決算も心配されましたが、約64万円を剰余金として計上することができました。
 特別会計報告としては、婦人会から、台所修繕とチャンセル用椅子購入費として100万円の指定献金をいただきました。また、礼拝堂に新しい納骨箱ができたのを契機に、従来感謝献金として処理していた納骨堂維持費を、特別会計として処理することにしました。
新年度予算
 2000年度予算を基調に編成しました。感謝献金は2000年度決算が6割増だったのを反映して、35万円増額、特別献金は幼稚園の経営状況を勘案して、地代相当分の30万円を減額しました。また、青年会を支援するため日曜学校等諸費を6万円増額しています。

納骨堂管理規定
 信徒の皆さんから寄せられていた声を反映すべく教会委員会で検討を重ね、
@納骨予約中の維持献金は不要とする、
A納骨堂の永代使用を明確にする趣旨の規定改正が行われました。
                        (書記・南寛・菅原さと子)


寄稿
「Annie Elsie Nancy Sowter先生のこと」

ヨシュア 立石昭三

 京都聖マリア教会の若王子墓地は同志社大学の開祖、新島襄先生の墓近くにあります。マリア教会関係者としては岩城家、中山家、速水家の墓があるが、それと並んでウイリアムス神学院のウイリアムス主教の記念碑、Edith Sowter(1921年11月23日没)、Elisabeth Sowter(1913年3月14日没)姉妹の墓があります。お二人とも当教会の信徒だったと思われます。実はこの姉妹にはもう一人の妹さんがあり、その方が1909―1938年、つまり彼女の31歳から60歳まで京都市立第一商業学校で教鞭をとっておられました。それが表題のA.E.N.Sowter先生です。
 1992年のある日、西宮の「名塩」在住の甲斐篤二郎と云う方が小谷春夫司祭を訪ねて来られました。今やもうかなりの高齢者になってしまったかつての教え子たちが集まって、恐らくこれが最後になるであろうが、Sowter三姉妹の供養の式を縁のマリア教会でしたい、と云われるのです。小谷先生は当時、私が海外によく行っていたので、おそらく軽い気持ちでその件を私に託されました。
 甲斐氏によりますとサウター先生は1879年(明治12年)、ロンドンはブラックヒースでスコットランド系の英国人として生まれ、ケンブリッジ・サウス・ケンシントンを卒業されたとのこと。貴族だった夫君を若くしてなくし、明治40年ごろ姉を頼ってか、日本にふらりとやって来ました。明治35年に成立した日英同盟による両国の蜜月時代がこの三姉妹に日本を選ばせたのでしょうか?1926年(昭和元年)、京都市の委嘱によって京都第一商業で英会話を担当することになりました。月給は300円だったとのこと。同じころ海軍機関学校のドイツ語教官だった夏目漱石門下の内田百閘の月給が83円だったことを考えると、かなりの高給だったといえます。昭和12年(1937年)7月に起こった日支事変、12月の南京陥落に伴う英艦レディ・バード号への日本軍の砲撃、中国軍の背後には英米ありとする(事実そうでしたが)日本軍部の圧力はサウター先生の身にまでも及び、1938―1940年にかけての激烈な排英運動は吹けば飛ぶような一外人教師の仕事や生活など微塵に打ち砕くだけの力があったのです。1938年4月末、サウター先生はとうとう英国に帰国されたそうです。甲斐氏は西宮から私の空いた時間にわざわざ京都まで来られ、サウター先生の逸話や当時の新聞記事、サウター先生の書かれた英国からの手紙などを私に託して熱心にいろいろ語ってくれました。
 当時、NGOとして第三世界にいろいろな物を届けていた私には強い味方がありました。それはマリア教会にも時折、顔を見せていた米人のノエル・クロケットさんです。彼には私の友人の家をタダで年余に亘って貸していましたし、我が家の食客のような人でしたので何でも頼めました。彼は太平洋戦争のときは偵察機キング・フィッシャーのパイロットでしたし、戦後はノース・ウエスト航空で働いていましたので、定年後もノース・ウエストを利用するなら世界中どこへでもタダで飛んで行けるのです。ネパールの医大へ医学教科書を、そしてその帰りにはネパールにいるチベット難民の編んだカーペットを日本に、チベットへもう日本ではワープロの普及で要らなくなった手動のタイプライターを何台か、パキスタンへ手術用の医療器具や抗生剤を、アラブから日本へコーヒーや干し葡萄を運んでもらったこともありました。彼にサウター先生のことを話しますとその調査を二つ返事で引き受けてくれました。甲斐氏から渡されたサウター先生からの手紙などから先生がまず落ち着いたロンドンの死亡証明書の記録(そのころロンドンはドイツのロケットV1の爆撃にさらされていました)、その後やはり京都第二商業に勤められたA.E.Smith先生のいる米国のカリフォルニアに渡られたとも仄聞しましたので、1938年から1955年ころまでのサクラメントのDeath certificateを年余に渉ってチェックしてもらいましたがA.E.N.Sowterの名は見つかりませんでした。
 なんだ、そんなことか、とお思いかもしれませんが私はこのサウター先生の追跡で旧京都第一、第二商業出身の方のみならず、色々な人と知り合いました。先生は授業中、英語しか話さなかったのに、ある日、一生徒をひどくしかってその生徒が泣き出したとき、思わず当時、ポリドールの東海林太郎が歌っていた、赤城の子守唄「泣くなよしよし ねんねしな、山の鴉が 鳴いたとて、泣いちゃいけない ねんねしな 泣けば鴉が また騒ぐ」を歌ったとか、サウター先生の送別では京都駅で生徒一同がこんな時代に、涙ながらに「Auld lang syne (蛍の光)」を英語で合唱したことなどを聞かされました。
 サウター先生が帰国して三年後には日本は英米両国と太平洋戦争を始めました。京都出身の15師団(通称、祭)と53師団(通称、安)がビルマ戦線に投入されインパールで英軍と死闘を演じ屍山血河、白骨累々の修羅場にさらされ、サウター先生の教え子の多くもここで帰らぬ人となったことも知りました。これもマリア教会に属したればこそ知り得たこと、と感謝し、また戦争は二度としてはいけないと思っております。


婦人会より

2001年度婦人会会長
       山岡怜子

 昨年度は礼拝堂の完成による様々な行事や、司祭の交替もあり、大変忙しい年であったと存じます。ご苦労様でございました。お陰様で今年は落ち着いた年になりそうです。そこで今年私たちにはどんな働きが出来るかを考えました結果、それは「伝道」であろうと思い至りました。けれども私たちにできる事には限度があり、力もたりません。とりあえず無理のないところでできる事として、教会に初めて来た方に、「また来よう」と思ってもらいたい、そしてまた、あまり来られない方にも、もっと来てもらいたい、そういう係を新設したい、という思いで下田屋先生にお伺いしたところ、サブアッシャーというとてもいい名前をいただきました。それは聖書の箇所をお教えしたり、立つ所、座る所を説明したり、なじめない方への心配りをお世話をする役目です。
 1月の礼拝で9名の方に申し出ていただき、さっそく活動していただいております。しかしこの働きは婦人会のみならず教会の皆様にご協力を頂かないととても無理です。どうかよろしくお願いいたします。
 近ごろ教会の婦人会がなくなってきているという話をきく中で、当教会も婦人会の枠にとらわれずに活動していきたいと思います。
 3月の例会(第4週)では講演会を計画しています。演題は皆様の関心事である老後のケア問題です。講師は最近できた錦林車庫隣の特養老人ホームの理事長さんにお願いしました。いいお話を聞かせていただけると思います。どうぞ、教会全体でご協力をお願いいたします。


連載
京都聖マリア教会の印象(4)

司祭 ヨセフ 小谷春夫

 京都聖マリア教会は地域の人々に対しいろいろな働きをしているが、そのなかでも幼児教育と青少年教育には特に力を入れている。前者は学校法人京都聖マリア学園聖マリア幼稚園が、後者は日本ボーイスカウト京都第24団がその責任を果たしている。私はこの二つに随分考えさせられた。ここに反省をこめてそれぞれの意味を歴史を通して振り返ってみようと思う。
 幼児教育の歴史は古い。しかし国家の目的にかなう教育でもなく、たんに、大人の雛形と見るのでもなく、子供には子供特有のものの見方、考え方、感じ方があるとし、大人の価値観を子供に押しつけない、という考えが18世紀頃から現れてくる。そういった流れの中で1839年、初めて幼稚園を創設したのはフリードリッヒ・フレーベルというドイツの人である。彼の考案した恩物は遊びを通して自発性を発揮させる玩具として今も用いられている。英国にフレーベルの考えを取り入れられ幼稚園が開設されたのは1851年である。日本で最初に幼稚園を設立されたのは1876年で東京女子師範学校付属幼稚園であるといわれるが、教育熱心な京都人はそれより一年前に柳池小学校に幼稚遊嬉場という名で同じ教育をはじめている。京都人の先見の明の伝統はここにも見られる。聖マリア幼稚園は創立者カスバート師とミス・ベーコン先生によって1911年に現在地ではじめられた。第一回卒業生の一人の知恩院長老の白崎厳成師は幼稚園80年史に「砂場のブランコ、可愛らしい鉄棒、遊円木もあって一日中遊びに熱中」と書いておられる。竹中先生、宮西先生母子の努力で明治、大正、昭和の激動の中で立派に幼児教育を続けてこられたことを忘れられてはならない。親子三代にわたってその子を幼稚園に送られた幾人かの家庭を知るだけによき教育が理解されていたことを知らされる思いであった。同時に幼稚園の鉄筋コンクリートの二階建ての園舎はカスバート師の後をついだ高松師のアメリカでの熱心な募金運動によることも付け加えるべきだろう。国内国外にも幼稚園の働きが理解されていたと思う。今は学校法人となって社会的責任と義務を果たしている。
 ボーイスカウトは1907年7月英国退役陸軍中将ベーデン・パウエルの発案で人里離れた英国南部のブラウンシー島に中産階級の子弟11名と労働階級の子9名を集めキャンプ生活を彼ら自身の創意で自然を観察し、山中での行動法を実践させた。インドにアフリカに戦闘経験をした将軍が人間同士の戦い以上に自然の厳しい環境を乗り越える人間の養成を感じ取ったと思う。その経験から自然の中の青少年の自発的行動の育成の必要を痛感し実際行動に表したのが島での子供だけの共同生活となった。パウエルという人は話も芸も人を惹きつける魅力のある人であったといわれるが、その指導の下このキャンプは大成功を収める。その成果が本に纏められ出版されるとたちまち英国中に知られ組織されることになる。キヤンプをするといってもその生活の中でスカウトは名誉をかけて誓いとと掟を守ることを大切にしているが、その発想はキリスト教の十戒からでている。
 日本で初めてボーイスカウトをつくったのは、横浜でグリフィン師、神戸のウォーカー師で両人とも英国宣教師である。その神戸のスカウトの隊員に古田誠一郎という方がおられた。古田さんは昭和の初め大阪の養護施設聖ヨハネ学院の院長となられるがそこでボーイスカウトをつくられている。村島文二さんはそのスカウトにおられたが、山田襄司祭もそのスカウトにおられ、戦後京都聖マリア教会の牧師になられると二人で京都第24団の創立をはじめられた。幾多の苦労があったと思われるがそれを乗り越え現代の姿を整えられた。また集まれる隊員のなかからおおくの教会員を生み出してこられたことは素晴らしい。現在は京都の北部の芦生にキャンプ地を持ち毎年立派なボーイスカウトの趣旨に生きたキヤンプがおこなわれている。現代の青少年問題を考えるときその重要性はおおきいとおもわれる。
 これらの地域活動に教会がどれだけ参与するかはいつも考えねばならないことと思われる。


2月号次ページへ