月報「コイノニア」
2002年9月号 No.229


イスラームをめぐって(12)

司祭ヨハネ

 信ずる人々よ、神の言いつけをよく守れ。また、この使徒、ならびにおまえたちの中で特に権威ある地位にある人々の言いつけをよく守れ。おまえたちがなにかのことで相争う場合、もしおまえたちが神と終末の日とを信じているのであれば、神とこの使徒のもとにもちこめ。これが、もっともよいことであり、もっともよい決着である。
(4「女人の章」59)

ハディースをめぐって前回登場したスンナ派とシーア派は、ムハンマドの死後、その後継者をめぐる争いの過程で生まれました。イスラームの歴史を通じ各時代にさまざまな分派が現れて消長をくり返しましたが、それらは大別するとこの二派に帰着します。現在、数の上ではスンナ派が圧倒的多数で九割を占めているといわれます。
 シーアは「党派」を意味し、シーア派はシーア・アリー(アリーの党派)の略称です。スンナ派は「スンナと共同体の民」の略称ですが、シーア派のような分派が発生した後に自らの正統性をこのように表現しました。
預言者ムハンマドは同時に教団指導者でした。「最後の預言者」に後継者はあり得ませんが、指導者の後継は必要で、彼の死後、コーランの教える「権威ある地位にある人々」(冒頭句)とは誰かが問題でした。ムハンマドはメディナにイスラーム共同体(ウンマ)を建設し、長年メッカと抗争を続けてついに630年メッカを征服し、破竹の勢いでアラビア全土の諸部族を服従させました。さらに外へ向うシリア遠征を目前にして六三二年に没しました。宗教と政治が融合したウンマは急激な膨張過程にあり、その後継者は強大な政治的・軍事的指導力を求められました。
 ムハンマドには男児がなく、部族の伝統(スンナ)に従って選挙が行われた結果、アブー・バクルが後継者(カリフ)となりました。彼はムハンマドの最後の妻アーイシャの父であり、最初期からムハンマドと苦難を共にした人で人望もありましたが二年で没し、彼が後継者として指名していたウマルが第二代カリフとなります。ウマルも初期メッカ以来の信者で、彼の時代にアラブ軍はペルシア帝国を滅ぼし、ローマ帝国からシリアとエジプトを奪いました。
ウマルが十年後に没し、後継者としてウマイヤ家のウスマーンが第三代カリフに就任してから混乱が始まります。ウマイヤ家はムハンマドのハシーム家と対立するメッカの商人層の代表でした。ウスマーンはウマル時代までの統一政策を捨ててウマイヤ家に権力を集中し、これに対する反乱が瀕発しました。なかでもメディナに生まれた新派が、カリフはムハンマドの一族でなければならないと主張し、ムハンマドの従兄弟で女婿であったアリーこそ神意にかなうカリフであるとしました。六五五年ウスマーンが暗殺され、アリーが第四代カリフになります。
これに対抗してウマイヤ家はシリアの総督ムァイアをカリフに立て、両派の間に権力闘争が繰り広げられます。アリーは暗殺され、ムァイアが唯一のカリフとなりました。ムァイアはカリフを世襲制に改め、ウマイヤ朝が成立します。ムハンマド以来の宗教共同体は専制君主的カリフ制度に変質し、ウマイヤ朝に対する反乱が続発しました。
アリーまでの四代を「正統カリフ」(神により正しく導かれたカリフたち)と後世の学者は呼びます。しかしムハンマドの一族のみを後継者と認めるシーア派はアリー以外のカリフを簒奪者とみなし、アリーとその子孫のみを正統の指導者(イマーム)とします。アリーの子フサインはウマイヤ朝の大軍に包囲されて戦死し、殉教の英雄となりました。シーア派は、アリーの子孫の誰をイマームと認めるか、またイマームとは何かをめぐって分裂を重ね、たくさんの分派が生まれました。主要な宗派は十二イマーム派で、サファビー朝以来現代までイランで支配的です。

図は反乱軍と戦うアリー


第5日曜日は・・・

マリアミサ

 9月29日(日)、マリアミサ曲による文語唱詠聖餐式が行われました。6月30日(日)に続く第2回目です。2000年末で使用停止となった文語祈祷書の聖餐式文ですが、その美しく荘厳な音楽を継承するため、当教会で特別に教区主教のお許しを得て実施しているものです。
 礼拝音楽委員会や聖歌隊の先導で美しい旋律にも少々馴染んできたところです。
 この礼拝に出席するために遠方より来られた方もあるくらいで、京都聖マリア教会の名物となりつつあります。内外にもPR しつつ、守っていきたいと思っています。


第七回SDGコンサート大盛会

 SDGコンサート第七回はお馴染み、本山秀毅先生の「JSバッハ・教会カンタータの夕べ」。9月29日(日)午後4時30分開演で150部用意したプログラムが開演前になくなってしまうほどの満席でした。このシリーズも三回目を迎え、本山先生の熱狂的人気に加え、聖マリア教会礼拝堂の響きや、アットホームさのせいか、大人気なものになってしまいました。回を重ねるごとに若い出演者の質も向上し、胸を張れるコンサートになりました。
 当日のアンケートの一部を紹介します。
「バッハの音楽における言葉と音との関わりの見事な豊かさを教えて頂けました貴重な演奏会をありがとうございました。演奏なさった学生さんの、このような指導者のもとで学ばれる幸せを思います。」「見事な演奏で神様の栄光をあらわしていただきましてありがとうございました。本山先生の演奏付き解説もとてもよかったです。次回も是非聞かせていただきたいと思います。」
「こういう解説があるとより楽しいものになる。夕暮れと共にホールの雰囲気が違ってくるが、ロウソクの明かりの中で聞いてみたいものである。」
 次回SDGはいよいよあのクラウス・オッカー先生の水車小屋(11月17日)です。お楽しみに!


投稿

「戦前のボーイスカウトの思い出」

 マリア教会を活動本拠とするボーイスカウト京都第二四団は、今年五〇周年を迎えます。10月27日(日)に記念式典を予定し、またこの九月15日(日)・16日(月)にも南山城にて50周年記念キャンプが催されました。教会、幼稚園、ボーイスカウトの連携も密になり、いい関係を保っています。戦前の様子について当教会の年長者である木村さん(関東在住)から戦前発足当時の様子を投稿いただきました。

ヨハネ 木村忠一

 戦前、教会や日曜学校とボーイスカウトとの関係は、現在ほど緊密ではありませんでした。
 昭和10年(1935)頃の京都聖マリア教会の日曜学校は毎日曜日の出席者は6・70人以上で、組み分けは生徒のほとんどが男女別学の錦林校の生徒でしたから、日曜学校も小学生12組、男・女中学生の組、そして校長先生を加えると20人近い先生の数でした。
 現在も同じでしょうが、毎年夏休みの数日間、日曜学校の先生の講習会が開かれ、マリア教会からも毎回数人が参加されました。
 ある年の会場は大津の大きな旅館で、私も参加しました。
その会には、ボーイスカウトの役員をしておられる古田先生という方が東京から来ておられ、お話をされました。その中で今も覚えています二つのお話を紹介します。
 「ボーイスカウトの名は、まだよく知られていないので、ある会合に出席された有名人が講話をされる時に『カウボーイ諸君』と呼びかけられ、皆は笑いをこらえるのに苦労した。」もう一つは「アメリカで各国の代表が集まった時のこと。各代表のエール交換があり、日本の順番になった。日本のエールは『弥栄(いやさか)』の三唱で、全員元気よく唱えたところ、アメリカ代表が不思議そうな顔つきで『どこに車があるのか?』と尋ねるので、『どうしてか?』と訊いたところ『君たちはHere the carと言ったではないか』といいました。私達は『弥栄』の説明に苦労しましたよ。」と笑いながら話されたのでした。


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