月報「コイノニア」
2004年8月号 No.253


わたしがあなたを洗わないなら

司祭ヨハネ

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、わかるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
         ヨハネによる福音書13・1―8

 洗足の物語はヨハネ福音書だけに見られます。それは過越祭の前の夕食のときの出来事として記されており、この食事は共観福音書に描かれている過越の食事ではなかったとされています。しかしジオットは、前号で見たように、最後の晩餐を描くのに共観福音書とヨハネ福音書をとりまぜて用いました。このような手法は、受難曲などにおいてもよく用いられたことです。
さて、洗足の場面です。ヨハネ福音書では、イエスは食事の席から立ち上がって弟子たちの足を洗い、その後再び席に着いて食事を続けたことになっています。ジオットは、前号で見た最後の晩餐と全く同じ空間的枠組みを用いることによって洗足が食事の場で行われたことを表現し、使徒たちに黒っぽい光輪を描くことによって最後の晩餐との連続性を示します。しかし一方、洗足の行為に焦点をしぼるためでしょうか、食卓を描いていません。
イエスの周りに12人が描かれています。イスカリオテのユダはどこにいるのでしょうか。衣服や容貌を晩餐の画面と比較して容易に同定できる人もあり、難しい人もありますが、消去法によって推測すれば、右奥に黒い光輪と左肩部分だけ見えているのがユダのようです。手前の人の黒い光輪に隠れるようにして顔を見せないこの人物は、その役回りにふさわしく描かれた、あるいはむしろ描かれなかったのかもしれません。
しかし、ユダもまたイエスに足を洗っていただいたはずです。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」という言葉はユダにも向けられていたはずです。「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」。御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられたイエスは言われます「わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている」「しかし聖書の言葉は実現しなければならない」。それゆえにイエスはユダの足を洗われました。悪魔がユダを用いてイエスを虚無に服させようとしても、「わたしはある」(13・19)、すなわち全き存在である方は虚無をも飲み込み存在を充満させる。
主が足を洗って下さる時、人の後に隠れ続けることは出来ません。否応なしに一対一で主と向き合わされます。ユダはどんな思いで足を洗っていただいたのでしょうか。


みんなで作る聖餐式!

 9月26日、今年四回目のみんなでつくる聖餐式は青年会の担当でした。今回もいつもと違うところは、聖卓と会衆席の大移動。聖卓を礼拝堂東側の壁に寄せ、その聖卓を会衆席が囲む今までになかった形での聖餐式になりました。聖歌も主に増補版を使い、フルート、オートハープ、ギターが入って賑やかに・・・。陪餐の時には、青年達が歌をうたいました。


敬老の集い開催!

 去る9月12日、今年も皆様のご協力を得て、『敬老感謝の集い』を開くことができました。当教会の75歳以上の方は38名いらっしゃり、その内13名がお元気にご出席くださいました。
 最初に宗像先生に、開会と食前のお祈りをして頂き、前日から婦人会の皆様が、心をこめてご用意くださった「ちらし寿司、冬瓜のお吸い物、デザート」でお祝いいたしました。婦人会会長の古館姉よりお祝いの言葉を頂きました。
 日曜学校の生徒さんたちの可愛いピアノ演奏や昔なつかしい小学唱歌が合唱され、練習の成果に関心しながら楽しいひと時を過ごしました。
 婦人会からのお祝いの品と、マリア寄席実行委員会から、10月17日の寿シート付の招待券が出席者全員に用意され、続木ヤ姉がお祝いの言葉を添えてご披露下さいました。
 その後、『ウサギ追いしかの山・・・』で、ジェスチャー体操をして体をほぐしました。
 最後に、75歳以上を代表して、山本兄と片岡姉から、お礼の言葉を頂き、主の祈り、下田屋司祭様の祝祷を頂いてお祝いの会を無事に終えることができました。
 今年は、他の行事と重なり残念ながら空席があったことと、お祝いされる方も、一生懸命準備に加わっていただいたことが特徴のように思いました。
 マリア教会では、高年の方々の経験と知恵がますます必要であります。これからもお元気でご活躍下さい。

当教会員のうち満75歳以上で
お祝いされた方は次の通りです。(敬称略)

中堀孝志、山本千代子、塩見英子、野嶋喜代子、木村忠一、山本進、中堀妙子、白神芳子、中島三重子、上野久子、望月満子、古和菊子、鎌田梅子、山口ヨシエ、浅井みよ、松本時子、尾崎泰子、山岡和子、椹木信子、木元民、速水佳子、片岡霊恵、東清士、佐々木功、東セツ、有田信子、宗像康男、石田阿以子、大岡みゆき、西岡正之、青木節子、稲生泰夫、古館典子、市井隆子、上阪京子、林悦子、宗像和子、安田文子


第3回将来計画懇談会報告と感想

 9月19日、第3回目の将来計画懇談会が開かれました。二ヶ月ぶりの開催ということもあって、20名足らずと少ない人数となってしまいました。もう少し積極的に参加いただける工夫ができないものか、議長団の新たな課題です。
 さて今回は、一、二回目に話し合ったそれぞれのテーマについて、内容を確認することがメインテーマとなりました。これまでの議事録を読んでいただき、どんな意見が出たのかを皆で思い出すことから始めました。第一回目は「京都聖マリア教会ってどんな教会」というテーマで、教会の特徴、長所や短所など、皆さんが教会に抱いている印象・思いを出していただいたものです。また第2回目は、将来の夢や希望、あるいは現在の教会の改善要望等々を「あんなこといいな! できたらいいな!」という自由な発想で語っていただきました。なお、その内容は教会掲示板にも貼り出す予定です。
 その中で、今回いくつか気になった質問や意見交換をご紹介しておきます。
◆外からみると教会に入りにくい?
・教会メンバー同士の仲が良い一方、外からみると入りにくい雰囲気になってるのでは
・昔からそう言われていた、自分にとってはそうは感じなかった
・決して閉鎖的ではないが、中に溶け込んでしまうと、「外からの視点」が見えなくなってしまうのかもしれない
・新しくこられた方の受入れについて、今は個々の自主性に任せているが、もっと教会としてシステム的に対応する方法もある(他教会の例)
・入ってきたときの居場所があるかどうか(例えば聖歌隊、青年会等)も大事な要素
◆教会の活動について
・ほぼ信徒同士顔見知りの小さい教会ではあるが、活動内容はコンサートや寄席など、大教会並みに華々しいものがある。一方では、地域へのボランティア的活動(ハンディを持っている人への活動等)などあまりなされておらず、もっとすべきと思う。
・他教会との交流ももっとあった方がいい
・多くの方が参加できる曜日、時間帯で聖研をやれないか
 他に出された質問や意見ついては掲示のペーパーの方に譲らせていただきます。
 最後に三回の懇談会を終えて、議長である私がこれまでの意見交換から漠然と感じていることを述べさせていただきます。私たちはこれまで、教会の信徒を増やすために、暗黙のうちに「いかに境界線の外から内側に入ってもらうか」ということを中心課題に据えてしまっていないでしょうか。確かに教会の魅力度を高めたり、様々なイベントで教会に足を運んでいただく機会を作ることは大事なことですが、聖書の教え(多分に浅はかな知識ですが)はその逆、つまり「いかに境界線を超えて我々が出ていくか」ひいては「境界線そのものをいかになくすか」にあるような気がしてなりません。信徒暦数年、未熟者の私が大先輩方を前に申し上げるようなことではないかもしれませんが、議長という大役を仰せつかった以上、今後もこうした問題意識を根底に持ちながら、残り三回の懇談会を進めていきたいと思います。次回は10月10日です。次回こそはホールが満杯になるほどお集まりください。(議長 キリル森田朋宏)


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