月報「コイノニア」
2006年7月号 No.275
慰められるより、慰めることを
〜「生きる」一九五二年、日本映画〜
司祭 ミカエル 藤原健久
「君はどうして、そんなに活気があるのか。それを知りたい。そして私もそのように生きて、死にたい。そうでないと、死にきれないんだ。」
「そんなの分からないわ。ただ働いて、食べて、…工場ではこのおもちゃを作っているだけよ。こんなのでも作ると楽しいわ。おもちゃを作っていると世界中の子どもとつながっているような気がするの。課長さんも何か作ってみれば?」
「もう遅い……、いや、遅くない。あそこでも、何かできる。ただ、やる気になれば!」
今回、ご紹介する予定の一連の映画の中で、唯一の邦画です。冒頭、職場で書類に目を通し、判を押す初老の主人公の姿が映し出されます。しかし、単調で、退屈そうです。ナレーションが入ります。「彼は時間をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり、彼は生きているとは言えないのだ。…本当にそれで良いのか!」刺激的な言葉です。本当の意味で「生きる」とは何かと言う課題に、真正面から取り組んだ作品です。
主人公は末期の胃ガンにかかっていることが分かります。余命約一年。三〇年間無遅刻無欠勤の記録も、もはや、何の意味も持ちません。「自分は今まで何をしてきたのだろうか」と、布団の中でむせび泣きます。自らいのちを断とうと思ってもできず、今まで足を踏み入れたことのない夜の世界で快楽を得ようとしても、空しいだけです。このあたり、「全ては空しい」と嘆く「コヘレトの言葉」のようです。あまりの寂しさ、苦しみに、最愛の一人息子に慰めてもらおうと思っても、息子は自分のことを親身になって思ってはくれません。医者、職場の同僚、家族、全てがよそよそしく冷たい中で、ただ一人、職場の元部下である魅力的な若い女性がしばらく食事や散策につきあってくれますが、それも長くはありません。彼女との最後の会話が、巻頭の台詞です。彼は次の日、長期欠勤していた職場に戻り、やり残していた仕事を見つけ、それに異常なほどの情熱を注ぎ込み、満足のいく仕事を成し遂げるのです。それは、地域住民が困っている不潔な汚水溜まりを、子ども達の為の公園にするというものでした。
私たちは、困難な状況になった時、誰かのために奉仕したい、と思うものなのかも知れません。それは、売名行為のようなものではなく、たとえ感謝されなくても、たとえ自分のことが忘れ去られても、湧き出てくる奉仕への欲求。私たちにとって、本当の慰めは、他者から求めているときには得られず、他者に奉仕するときに初めて得られるものなのかも知れません。
彼は死を前にして、肉体の死を越えたいのちに気づいたのでしょう。彼が公園建設に尽力しているとき、それを妨害しようと暴力団が脅しにやってきました。彼らは主人公の胸ぐらをつかみ、こう言います。「てめぇ、命が惜しくねぇのか!」その時主人公は、一瞬考え込み、そして何かに気づいたように、にやりと笑います。ヤクザの親分は、本当の命を得た喜びに輝く主人公の顔を真正面から見て、恐れをなして逃げ帰ってしまいます。
彼は、まもなく訪れる死という残酷な現実に出会ったとき、初めていのちが輝き出しました。彼は職場で様々な妨害に遭っても、「私には、人を憎んでいる暇がない」と自分のやるべきことを進めます。また、ある時、夕日を見つめながらつぶやきます。「あぁ、美しい。本当に美しい。私は三〇年間、夕日など見たことがなかった。」ここには、十字架に掛けられながら人々の罪をゆるすキリストの姿、また、空の鳥、野の花を見つめ、人々に顧みられない小さい存在に限りない美しさを見いだしたキリストの姿に通じるものがないでしょうか。
彼は最期、雪の降る夜、公園でブランコに乗り、「命短し恋せよ乙女」の歌を口ずさみながら、死んでゆきます。その姿はとてもうれしそうだったそうです。社会の片隅での小さな死ですが、人間の命の美しさを示す大きな出来事でした。
(上映会は、八月一三日、午後一時半から、幼稚園ホールにて。入場無料。)
北小松で野外礼拝!
7/23 2年ぶりに
7月23日(日)朝9時半に聖マリア教会の前に二台の貸し切りバスが集合しました。一台は7月23日(日)・24日(月)に行われる、恒例の教会学校北小松キャンプのため。そしてもう一台は久しぶりに行われる野外礼拝のためでした。行き先はどちらも同じ復活学園北小松学舎。約100名の信徒、子ども達が集まり、ともに礼拝を献げることができました。
これまで野外礼拝は芦生キャンプ場、京都大学上賀茂試験地等でやってきましたが、この北小松では初めてのこと。その昔北小松でキャンプをしたことのあるお年寄りも懐かしいここで聖餐式ができると大喜びで参加されていました。
教会学校(日曜学校・ジュニアチャーチ)キャンプは、参加者子どもスタッフ併せて約60余名。礼拝後も一泊二日のプログラムが盛りだくさんあったのですが、そのプログラムにあわせて、野外礼拝組も一緒にお弁当を食べ、子ども達が琵琶湖で泳ぐ姿を見(一部の方は一緒に泳いでいただき)、キャンプ記念のうちわの製作も一緒に楽しく行いました。
野外礼拝組が帰るバスをキャンプ組全員で見送って、交流プログラムが終了しました。
(野外礼拝に参加したK・Kさん<78歳>の話)
野外礼拝ときいてちょっと億劫だったのですが、場所が北小松ときいて思い切って主人と参加しました。私はマリア幼稚園出身で幼稚園時代にこの北小松でキャンプをしたことがあります。す。その頃はもっと松もたくさんあり、車の量も違う時期ですが、その雰囲気は変わらず残っていました。息子・娘・孫もみんなマリア幼稚園出身で、北小松が大好きです。素敵な企画をしていただいたみなさんに感謝しています。年代を超えたこのような交流をもっとたくさんつくってマリア教会ファミリーの絆をより一層強くしていって欲しいと思います。
(教会学校キャンプの報告は次号夏休み行事特集で)
信徒の集いに参加しましょう!
9月17日(日)・18日(月・祝)に第47回信徒の集いin KYOTOが行われます。実行委員会が発足され、その実行委員長は我らが野島久暉兄。また、基調講演(主題「教会って何だ?!」)の講師は我らが藤原健久司祭とあっては、駆けつけないわけにはいきません。
プログラムは、初日(17日)午後3時受付、16時半オリエンテーション、17時15分講演、18時45分記念写真撮影、19時夕食、21時ふれあいタイム、23時就寝。翌日(18日)は6時半起床、7時朝食、9時半聖アグネス教会にて聖餐式、11時半PRタイム、12時解散です。
会場・宿泊はルビノ京都堀川(上京区東堀川通下長者町)。京都市内での開催なので、宿泊せずに部分参加を・・・とお思いの方も多いかと思いますが、そこを何とか宿泊での参加をお願いしたく思っています。遠方から来られた方をもてなす意味でも、夜になってガタッと人数が少なくなって淋しくなることを避けたいのです。いわばホストにあたる地元の私たちこそ、寝食をともにし、なかなかお会いできない信徒同士の交流を深めたいと思っています。
申込みは8月13日締め切り。参加費は一泊二食付で14000円(子ども11000円・お子さまランチの子ども8700円)です。なにとぞよろしくお願いします。
寄稿
京都聖マリア教会史 (その8)
木村氏ノート、個人編(その3)
ヨシュア 立石昭三
この事件から、第IVトンネルは、ソ連側から埋められていると言う日本側の推測は誤りで通行可能に繋がっていることが判り、関東軍は満鉄に感謝状を贈ったということで始末書と感謝状が入り混じり、何とも変なことになったそうです。
以上、いろいろの事項を紹介しましたがこれらの項目がなぜ大塚兄の項の中で紹介されるのか不審に思われます方も居られるのでは、と推察しています。実は上述の各項は大塚兄が満鉄病院のレントゲン装置メンテナンスのわずか2ヶ月の間に体験し見聞きされた事項であります。このように種々複雑な中でも兄は終始熱心に作業を奨められ、どんなに多忙でも毎日の作業日報は欠かされませんでした。そして全てが完了後、満鉄本社の関係部門に報告、島津奉天出張所に完了報告後、"自分は来た時には船で来たので帰りは陸路にしたい"と希望され朝鮮半島縦断で帰国されました。当時の満州は戦時中のため、東京と同時刻となっていました。その上、今回の作業地は高緯度の地が多く、時期が真夏のため、昼が長く夜が短く、不慣れな人は体調を崩されることが多かったのですが、流石"大きな男のオンチャン"の歌詞通りタフで弱音は全然聞かれませんでした。又満鉄電気段からの人たちともよく和合され、満鉄側の人たちも京大出身と知り一目置いておられました。余談ですが満鉄病院ではその院長,各科の医長クラスには京大出が圧倒的に多く,次は九大でした。
大塚重遠兄の項はこれで終わりと致します。
2―5. 辻三男(ツジ ミツオ)兄
辻兄は昭和10年(1935)春であったと記憶していますが東京からマリア幼稚園主任保母の竹中千代先生を訪ねて上洛してこられた、とこれも多少怪しい記憶ですが、お二人は東京で知り合われたのではないかと思います。竹中先生は令弟一家が東京に住んでおられ、夏休みには毎年数週間を令弟のお宅で過ごしておられましたから、多分、その時にでも知り合われたのではないかと思っています。辻兄は教会の信徒であったかどうか、上洛の目的など今も振り返って見ますと、他の方々はどうか分かりませんが、私、木村は次に紹介しますこと以外何も知らないままに、昭和12年(1935)頃、これもよく知らないままで現役入営か、応召かも知らされずにお別れしました。その後半年以上経ってからだと記憶していますがたしが竹中先生宅に辻兄より、中支那(現在は華中)、九江(カ3)に居られます由の連絡がありました。同じ九のつきます地名でもホンコン島の北対岸の"九龍"をご存知の方は多いと思いますが"九江"をご存知の方は多くないと思いまして、辻兄に代わり説明します。(辻兄が除隊などで帰国されていろいろお話がありましたならば
"辻さん、余計のことをしてごめんなさい。"――(となりますが)――。
〔九江;華中江西省にあって、長江〔揚子江〕南岸の水陸交通の要地として、又物資の集散地として発展しました。例えば、現在は知名の陶磁器の生産地"景徳鎮"の製品も九江から積み出されましたことから、九江瓷〔九江陶磁器〕の呼び名があり現在の辞書にもあります。又蒋介石の別荘のありました芦山への入口にもなっていました。私、木村は陸軍中支那派遣軍軍医部の仕事で数回、長江を上下しましたが船から眺めるだけの九江になってしまいました。前述で「次に紹介します」と記しました件は、次のとおりです。辻兄は東京で本格的な西洋料理を習われた由で、当時の会館(現幼稚園)二階東北角の炊事場や竹中先生のお宅でビーフステーキをご馳走になりました。当時は統制もなく辻兄はご自身で牛肉の買出しから始められました。私、木村はシェリー酒と言う料理用酒のあることを生まれて初めて知ったのでした。辻三男兄の紹介は、ご無事でのご帰国を祈りつつ終わります。
2―6 米田茂男(ヨネダ シゲオ)兄
米田茂男兄はご承知のかたが多いと思いますが京都聖マリア教会委員・博士・大学教授であられました。故米田庄太郎先生のご次男です。ご長男の故米田幸雄兄には聖マリア日曜学校でお世話になり、クリスマスの劇のご指導を受けましたことなどいろいろ忘れられないことがありますがここではこれ打ち切りまして、茂男兄の紹介をします。
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