月報「コイノニア」
2007年1月号 No.281


もう犠牲者はいらない

〜「ぼくの神さま」2000年、アメリカ映画〜

司祭 ミカエル 藤原健久

「世界はメチャクチャだ。2たす2は7とか、100だったりで4ではない。正解は危険だった。…子どもも同じだ…。」

「それは?」「聖なるパンだ。食べるか?心配するな、まだ聖別していない。それに端っこは祝福しないんだ。」「僕らは端っこ?」「人間はみんな切れ端さ。だが祝福されている。」「祝福されていない人もいるよ。」

 ものすごく重い映画です。見終わった後、夫婦でため息をつきました。舞台は1942年のポーランド。ナチス・ドイツに占領中です。自然の美しい村の中に、兵士が軍靴で入り込み、戯れに人々の財産と命を奪っています。主人公は親と離れ、身分を隠しながらこの村に逃げ込んだユダヤ人の少年です。この村にも同じくらいの年齢の子どもたちがいます。彼らと日々交わりながら成長してゆくのですが…。これがふつうの状況なら、美しい青春物語になるのでしょう。しかしこの映画の子どもたちは、暴力を振るい、強盗をし、同じ子どもを殺すのです。どの子も決して異常ではありません。みんな純情な、美しい顔をしています。何が悪いのでしょうか。周りの状況、大人たちが作った世界が悪すぎるのです。兵士の暴力、隣人の陥れ、殺人、貨物列車で運ばれるユダヤ人…これらに囲まれた子どもたちの魂は否が応でも傷つき蝕まれていきます。子どもが悪いことをするときは、詰まるところ、子どもが悪いんじゃない、すべては大人が悪いのです。
 教会の初聖体の前の勉強会で集まった子どもたちの中で、一番小さい子どもが、「僕はイエスになる」と言い出します。人類を救うために我が身を犠牲にする生き方に倣いたいと望みます。五歳くらいの彼は、その澄んだ瞳で数々の醜い出来事を見つめた後、ユダヤ人を乗せた強制収容所に向かう貨物列車にそっと乗り込むのです。
 私はイエス様の十字架の意味は何だろうと考えることがあります。イエス様はご自分を犠牲とするために十字架に掛かられました。犠牲とは、その動物や人が死ぬことによって、何か他の人にとって良いことが起こることを言うのでしょう。イエス様は、ご自分が人類の救いにとって最高で最後の犠牲になるために十字架に掛かられました。だからイエス様の心の中は、「今から後、もうだれも犠牲になってはいけない」というものだったのではないでしょうか。ところが私たちの世界は、いつもどこかで誰かが犠牲になっています。この映画の中で、教会の神父も人知れず鞭で我が身を打ちたたき、人々のために懺悔しています。けれども実際に犠牲になるのは、より無垢な子どもなのです。いつも、犠牲となるのは、罪から最も遠く離れた、力無い、無垢な子どもたちであり、女性や老人、障害者や病人です。これ以上誰も犠牲者を出してはいけません。小さい者、弱い者こそが豊かに暮らせる社会を作り出すことが、人類の義務です。

(この映画のビデオを貸し出します。借用書に必要事項を記入の上、牧師まで。)


新教会委員の抱負とひとこと

 一月一四日(日)聖餐式中に教会委員任命式が行われ、新教会委員一二名が藤原司祭から任命書を受け取りました。
 この日午後から新旧合同委員会が行われ、各担当、連絡係の任務分担が次のように行われました。
委員のみなさん、一年間よろしくお願いいたします。

教会委員任務分担 (◎は長、*は委員以外に委嘱する方)
書記=◎辻法子、野本武。
会計=◎南寛、辻法子、小林格子。
礼拝(宣教)=◎佐々木亨、前田潤、野本武、末松玲子、*新實康男、*續木創。
営繕・墓地・納骨堂=◎服部卓爾、野嶋久暉、前田潤、*立石昭三、*久保田栄三、*田中泰之、*邨田志津子。
広報=◎吉村伸、菅原さと子、*浦地愛。
シニア担当=◎福原正和、野嶋久暉、*立石昭三。
幼稚園委員会=◎野本武、*新實康男。
芦生キャンプ場=◎佐々木亨、南寛、*久保田栄三。
渉外(信伝協)=◎野嶋久暉、福原正和、*浦地愛。
会計監査=小林格子、*三井順子。
〈各グループ連絡担当〉
婦人会=小林格子、
青年会=前田潤、
ジュニアチャーチ=吉村伸、
日曜学校=菅原さと子、
幼稚園=菅原さと子、
ボーイスカウト=南寛、
教区日曜学校賛助会=*續木泰子、
教区神学生後援会=*立石昭三。
(GFS=佐々木亨)


会計担当
婦人会連絡担当

マルタ 小林格子

 何もわからないまま委員会に連なり、足をひっぱらないかと不安ですが、用いていただけることに感謝しております。皆さまのお力添えで、会計のお手伝いと、婦人会と委員会とのパイプ役をさせていただけたらと思っています。くたびれた新人ですがどうぞよろしくお願いいたします。


礼拝(宣教)担当
芦生キャンプ場担当
(GFS連絡担当)

ダビデ 佐々木亨

 佐々木亨です。今年は礼拝(宣教)、芦生キャンプ場、(GFS)担当となりました。毎主日の聖餐式を、より心から主をたたえて出席することができるように、と思っています。また、好天に恵まれた中(?)、芦生キャンプ場で野外礼拝が行えればなぁ、とも思っています。皆さん、是非お知恵をお貸しください。
 よろしくお願いします。


礼拝(宣教)担当

セシリア 末松玲子

 クリスチャンとして13年。日曜学校からやっとジュニアチャーチに上がったところ、という年です。そんな年のクリスマスに「教会委員」と言う大役が回って来ました。
 子供の時から「委員」という言葉に妙な緊張を覚え、苦手意識が強く、なるべく楽な委員をするべくさっさと「美化委員」とか「保健委員」に立候補していました。
 人生50年、も軽く超えてしまった今、思い切って「御心のままに」と頑張ってみようと思います。
 「ありがとう」と、「ごめんなさい」が一番素直に言える存在の神様に、感謝の気持ちで楽しく明るく、一年間教会委員会の末席を暖めさせていただきたい、と思っています。
 どうぞよろしくお願い致します。


広報担当
日曜学校・幼稚園連絡担当

ルデア 菅原さと子

 一年のブランクの後の教会委員。新たな1年を迎え、広報とグループ連絡担当として幼稚園と日曜学校からの予告・報告をさせていただきます。
 広報は愛ちゃんの手も借りての働きになるでしょう。何分にも公私ともに忙しいですが、出来るだけご奉仕させて頂けるように努力したいと思います。そして、イエス様が大切にされる一番小さな子ども達の為に、その小さい者の心身を守って行きたいと考えています。
 一番近く在るものとして何が出来るのかな? 皆様のお知恵を拝借したいと思います。


書記・会計担当

デボラ 辻 法子

旧年中は色々お世話になりました。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。 
 昨年は出席できた主日の礼拝後は殆ど事務室で会計処理に励んでおりました。今年もそうなりそうです。おかげで数字上の教会の状況(経済的なことです)がとてもよく分かりました。お一人お一人の捧げられる献金(額ではなくてその重さです)で教会の様々が維持されているということ、それはとりも直さず、神様の宣教の業に私たちが如何に関わっているのか、信仰の証であると思っています。私の在り方は超現実的な傾向を持っているのでどうしても動きとか形あるものに気が行ってしまいがちなのでお許し頂きたいのですが、教会という一つの信仰共同体でどんな形で自分の信仰を証するのか、自分なりの表し方、協働・協同の仕方をそれぞれが考えつつ、神様のみ業に参加できればと思っています。私なりの係わり方、委員として課せられたものを果たしたいと思っております。どうか叱咤激励をお願いいたします。


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