月報「コイノニア」
2009年3月号 No.307


《聖書を飛び出したイエス様・その四》
     命は不思議

映画「おくりびと」から

司祭 ミカエル 藤原健久

 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架に付けられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人達は墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコ16・6ー8)

 アカデミー賞受賞と聞いて、「出遅れた!これはイカン!」と大急ぎで観に行きました。さすがにお客さんも多く、男女世代を問わず観に来ておられました。映画は大変素晴らしく、「死」という人間にとって普遍のテーマを、厳粛にけれどもユーモラスに、静かにけれども温かく、丁寧に描いていました。花粉の飛び散る季節もあってか、劇場中、終始鼻をすする音が響いていました。私は目と鼻から「垂れ流し」でした。
 私はそれまで「納棺士」というお仕事が有ることを知りませんでした。私のつたない経験では、多くの場合、病院でお着替えまでしてくださいました。主人公は実際の納棺士の方の元で、必死になって作法を習ったのだそうです。それだけに納棺の作業は美しく、厳粛で、ここまで丁寧に扱っていただけると、さぞやご家族も、そしてきっとご本人も喜ばれるだろうなぁと感じました。
 亡くなった方を懇ろにお世話するのは貴いことなのですが、なかなか現実は難しいようです。主人公は、友人から「ちゃんとした仕事に就け」と言われ、妻からは「汚らわしい」と言われます。私は葬儀に関わる人をそのような目で見たことがないので驚きました。もしこれが現実なら、正に言われなき差別です。そのような差別は解消されなければなりません。
 この映画は、死と命の不思議さを描いているのだと思います。納棺の現場では笑いも出ます。温かい交わりも出ます。「死は悲しいもの」「死は忌み嫌うもの」という印象は、実は表面的なもので、死は私たちが思うよりもずっと奥深いものなのです。そして死は、命へとつながってゆきます。主人公は仕事を続けてゆく中で、死別した母や、蒸発した父との絆を取り戻してゆきます。また主人公の妻のお腹には新しい命が授かります。それらの命のつながりは、決して死と切り離されたものではないのです。
 命も死と同様、奥深く不思議なものです。赤ちゃんが生まれるのは、一個の人間が増えるということ以上の、大きな喜びがあります。愛する人への慈しみは、合理的に説明の付くものではありません。
 死の不思議さと命の不思議さ、その間をつなぐものとして、「食」が有るように思います。映画の中では、食事の場面が印象的に描かれていました。人間は、嬉しいときも悲しいときも、食べざるを得ない存在です。食べるという行為は、生きていることそのものなのかも知れません。食べることにもきっと、「栄養の摂取」以上の、奥深く、不思議な面があるのでしょう。
 私たちの信仰は、イエス様の十字架と復活によって始まりました。それらは共に奥深く、不思議なものでした。十字架の苦しみの時に、周りの人を気遣う思いやりがあり、真の信仰を言い表す告白がありました。復活の知らせを聞いた者の中には、震え上がるほどの恐怖を覚えた者がいました。十字架と復活は、正に死と命です。これらは、私たちがこれからも絶えず祈りながら取り組まなければならない課題です。そして私たちは、いつの日か、自らの肉体の死を通して、その意味を十分に知ることになるのでしょう。また教会には、十字架の死と復活の命をつなぐ「食」があります。それが聖餐式です。わずかなパンとぶどう酒による食事です。この食事の持つ不思議な力は、十字架と復活の間を歩み続ける私たちの歩みを支えてくれているのでしょう。


これからの教会を考える
話し合いを開催!

3月8日(日)昼食後、教会会館ホールにて、第1回「これからの教会を考える『話し合い』」が行われました。一昨年、「『針の穴』計画についての話し合いの会」が数回行われました。全体で集まって、自由に話を進めるのが、良かったとの感想が、教会委員会に多数寄せられました。それを受け、今年、新たな話し合いの時間を持つことにしました。今回参加できなかった方も、次回以降、是非ご参加下さい。次回は5月17日(日)昼食後の予定です。

 第1回は、日頃感じていること、考えていることを、自由にお話合いをしていただきました。昼食を済ませ約30名の参加で、三つのグループに分かれ、進行係、書記係をお願い、まとめ時間含め、約一時間の短い話し合いでした。
 初めに司祭様がこれからの教会を良くするアイデア、また助言を頂き、活発なご意見を頂きたいとのお話から進んでいきました。まず教会内での感じた事の中で、礼拝の進行は、聖公会の聖餐式が決まって、わかりやすい聖餐式、形にこだわらない礼拝を月に一回行っては。聖歌集のないゴスペル、民謡、ポピュラー音楽など歌いやすい曲を取り入れては。礼拝中幼児、子供達と一緒に礼拝に参加しては。泣き声があってもいいのでは。礼拝に子供達も聖歌隊、アッシャー等礼拝進行に参加できないでしょうか。
 司祭の伝道活動のアイデアを考えては。今幼稚園に集う園児様のお母様と、お話合いを進めておられ、信徒様の家庭訪問を進めておられます。今日の話し合いで出席されておられる山本進さんの自宅訪問、大変喜んでおられました。婦人会では、最近礼拝にとおざかって居られる方、病人の方々の訪問を考えては。
 月一回の黙想と祈りの会、マリア教会員だけでなく、教団等他の教会の方々のアピールをしていけば。それには今の教会員も積極に参加をしていかなくては盛りあがらないでしょう。
 復活祭、クリスマス祝会では、手間のかからない持ち寄りの食べ物ですが、以前は前日、みんな集まり、準備をしたものですが、余裕がないのでしょうか、準備をする人が、いつもの人になってしまう恐れがあるようで、またお菓子作りなどもしたい、地域の人、幼稚園に集う、お父様、お母様にも参加していただき、賑やかにやりたい。
 礼拝堂にある電子オルガンの代わりにパイプオルガンを、おとのねを聞くと、違うようです。今、円貨が高くユーロドルが安いので、上手な買い物ができるのでは、今お金
はありませんが、いい方法があれば、、、、。
 昔はよく家庭集会を持ちましたが、やりたいのですが今プライバシー等問題があるようで、行うなら教会の集会室で集まってやれたら。教会、幼稚園には、御本が沢山あり地域の子供たちにも集まっていただき、子供文庫を行い教会を開放しては。
 青年会を卒業されると次のグループがない、また結婚されていない女性の居場所がないようで考えていただきたい。
 今日の話し合いを元に、教会委員会で次に行われる話し合いのテーマを、二つから三つに絞り、次回五月の話し合いの会で、深く話し合いが、できると思っています。よろしくお願いいたします。


マニフィカト(マリアの賛歌)
        〜喜び・祈り・感謝〜

神学生
ジョージ 林 正樹

 ウイリアムス神学館でのこの一年間の神学生生活の中で、私にとって特に大きな位置をしめていたのが京都聖マリア教会での教会実習でした。早朝五時に起床し、夜明け前の闇の中、神学館を出発しバスで教会へ向かいます。朝の礼拝の頃は、まだ外も薄暗く、ようやく早朝聖餐式を迎える七時頃には朝の光が礼拝堂に差し込みます。そして、主日主要聖餐式での聖餐の恵みに預かる正午頃には、太陽がステンド・グラスを通して、虹色のプリズムを白い大理石のオルターに映します。まさに、光り輝く私たちの主イエス様がそこに臨在されている思いがしました。
 一年間、厳しくまた適切な指導をしていただいた藤原健久司祭様をはじめ多くの教会員の皆様にご指導いただいたことに深く感謝いたします。この一年間を振り返り、特に印象強く心に残っていることをご紹介いたします。  
 第一には、主日の英語聖餐式の後、朝食をいただきながら、外国人の方々を交えて懇談する朝のひとときは至福の時でした。海外での生活経験の豊かな上野さんの高齢にも関わらず流暢に聖書朗読されることには、いつも感銘させられました。また、焼き立てのパンを毎回持参され、共にいただく食卓には文化談義に華が咲くことも多々ありました。二つ目は、秋の日曜学校の遠足での出来事、春の計画が雨で順延され九人のこどもたちと五人の大人で、大文字山へ登りました。秋のすがすがしい一日、汗を流し、中腹で一望する京都の町並みは素晴らしく美しいものでした。お昼ごはんのとき、お弁当を忘れてこられた方と一つのお弁当を分け合って食べていますと、こどもたちが自然に集まってきて、自分のおにぎりやお菓子を少しずつ分かち合い共に食しました。日頃、分かち合い礼拝で体験していることが、このようにこどもたちも理解しているのだと嬉しくなしました。すがすがしい秋風が心を吹き抜けた一日でした。最後に冬のバプテスト病院へのクリスマス・キャロリング、五つの病棟を藤原先生末松さんの伴奏で聖歌を歌いながら、入院患者の方とひとときを過ごせたこと、また教会への帰路途中に寒風の中、高齢の信徒の方のご自宅玄関で皆さんで歌った「きよしこの夜」には心が温まりました。
 また、音楽愛好家の私にとっていくつかの素晴らしい演奏会の時空をご一緒に体験できたことは望外の恵みでした。春の末松玲子さん・マイヤーさんによる「詩人の恋」にはじまり、秋のバッハ・カンタータの夕べ(本山秀毅)、新實康男さんの出演された晩秋の京都フィグラコールのバッハロ短調ミサ、同志社栄光館での「いのちの電話チャリティ」(古きよき時代のイギリスの歌)には、やすらぎのひとときを与えていただきました。
サーバーの所作にも不慣れで、ご迷惑をおかけしましたが、なんとか最後まで無事に実習を終えることができました。みなさんの温かいご支援、ご指導に深く感謝いたします。


投稿
オランダで安楽死が法制化された理由
(オランダ旅行を終えて)

ヨシュア 立石昭三

 私だけは止むを得ない事情で一日、日本に残り、家内と五女「るか」は一足先にオランダに発ち、私は一旦彼らを見送って帰宅し、翌日、私はスキポール空港から電車、バスを乗り継いで家族の待つ宿へ行きました。道が判らず、困って道行く人に尋ねますと実に白人も黒人も(これが差別ですね)親切に教えてくれました。運転手その他どの職場にも黒人が多い。何処でも英語やドイツ語が通じるのは驚きました。バスの中では一人に道を尋ねますと、周りの人が口々に、携帯のGPSなども示して教えてくれました。親切の押し売りはしないけれど訊ねれば誰でも教えてくれるのは何度か経験しました。まるで親切にする機会を待っているようでした。つまり普段は頼まれない限り何もしないが、困った人、苦しんでいる個人を大切にするということ。この国で安楽死が是とされた背景を見たような気がしました。
 そもそも寿命というのは進化の成果なのです。高木由臣氏(奈良女子大理学部名誉教授)のNHK出版、「寿命論」にそれを易しく解説をしております。原核生物は二分裂で何時までも生存し、高木氏は「寿命とは有性生殖とトレード・オッフの形で得られた進化の産物」とも書いております。宗教上も寿命のない人は "Flying Dutchman"のように罰を受けた人だけです。言いたいことは寿命は神様の恵みということなのです。
 日本のご老人が「もう死にたい」という人の多いこと、それを助けてくれない医師に絶望して自死を遂げる人の多さはご存知でしょう。今年は自死者の数が三万五千人を越えそうです。
 医師と患者が話し合い、「もうこれ以上、生きたくない」と結論が出れば個人主義の徹底しているこの国では、医師はそれを助けるのは当然となり、2001年オランダ、次いで2002年ベルギー、それにルクセンブルグもそれに倣いました。この国では長年スペインの統治下にありましたが、フェリペ二世の厳しいカトリックの宗教を越えて新教を確立したのと同時に生じた個人主義の産物です。個人の意思や自己責任を重視する国民性もあり、安楽死法が成立する時点で安楽死は全死亡の2.5%から3%を占めていたそうです。それ以前もペットの安楽死は認められていたという経緯もあるでしょう。安楽死法が出来たからといって安楽死が劇的に増えたと言うことはないようです。それをするには厳しい六条件(それが不治の病であることや本人の確実な同意など)が必要と言うことでした。
 日本では患者さんがどう思おうと、親類、縁者が延命を望むのと反対です。日本でも呼吸不全にレスピレーターを使うことはもうあまりしませんが、以前にはよくありました。これは「生」の延長ではなく「苦痛の延長」に過ぎません。今でも食べ物が入らない人に PEG などでの延命をする病院,医師は未だあります。径管栄養を始めて何年も経つと家族の皆さんは困って、「何時死ぬのですか?」と言います。医師は径管のチューブを引き抜くわけには行きません。「ご家族で抜いてください」と言いましても困るだけです。ヨーロッパの老人施設では径口的に食物が入らなければ、水分以外はそのままにします。点滴も径管栄養もしません。患者が生きている限り、年金が入るので生かせて欲しい、と言うのは患者さんの事を考えない、もってのほかの自己中心的な家族の理由です。日本は死生観がはっきりしない情緒的な国柄です。
 その他、オランダの個人という歴史的概念、医療紛争に関する法学の起源などいろいろと得ることの多い旅でした。五女るかの運転は慎重で、プリウスで高速A4を行ったりきたりしました。アムステルダム、(ライデン)、ハーグで2泊ずつしました。最後の夜のコンセルト・ヘボーも素的でした。  (09.3.5)

シーボルト通りの
シーボルト記念館では隣家の壁に
芭蕉の句が落書きのように
書いてありました。


3月号その2へ