京都聖マリア教会 月報「コイノニア」
1997年6月号


信仰生活の「まとめ」の時

司祭  浦 地 洪 一

 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえていった。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。」
 (ルカ福音書2章28節〜30節)

 私の母は、八十歳をすぎてから、「わたしもぼちぼち適齢期やからね」と言って回りの者を笑わせていました。おばあさんが言うのには、死を迎える適齢期だというのです。 年を取ると、ふっと年齢のことを考えたり、しみじみと自分の手足を眺めたりすることがあります。
 年を取ると寝つきが悪くなり、朝は早くから目が覚めるようになったとぼやく声がよく聞かれます。先日、テレビの中で永六輔さんが、言っていました。「年を取って、朝早く目が覚めるのは、老人になって、眠る力が弱くなったからだ」と。寝つきが悪いのもやはり眠る力がなくなったせいかもしれません。確かに成長期にある子供や青年は、少々起こしても起きない、蹴飛ばしても起ません。そういう姿を見ると、眠る力が旺盛なのだなあと思わされます。反対に、年を取ると居眠りが出ると言うのも、起きている力が衰えたせいだということになるのでしょうか。
 有馬式夫という日本基督教団の牧師さんがこのような文章を寄せておられます。「老化というのは一見すると喪失の課程でもある。体力や記憶力を喪い、人間関係を喪い、社会的立場を喪い、奉仕の機会を失う姿が、老化に伴って輩出する。視力や聴力の衰えもまた日常的に喪失の悲哀を感じさせる。しかし、老化にいる喪失は単に悲劇的効果をおよぼすだけではなく、残された能力への祝福という『まとめ効果』をも生み出す。」(「福音と世界」1996年7月号)
 ある時、イエスさまの所に一人の青年がやってきて、「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをしたらいいでしょうか」と尋ねました。イエスさまは、「命を得たければ律法を守りなさい」と答えられました。すると、青年はさらに尋ねました。「どの律法を守ればよいのですか。律法はみんな守っています。まだ何か欠けているでしょうか」と。そこで、イエスさまは言われました。「もし、完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そして、わたしに従いなさい」と。しかし青年は、この言葉を聞き、悲しみながらイエスさまのところから立ち去って行きました。(マタイ19・16―22)
 この人は、青年であり、役人であり、財産家でありました。地位も名誉も財力もそして若さもありました。そのために、かえってすべてを捨ててイエスさまに従うことができませんでした。持っている者は、自分の決心で後生大事にしているものを捨てることはなかなか出来ません。しかし、年老いてくると、否応なく、体力や記憶力を失い、社会的立場を喪いいます。まさに永遠の生命を得るのにふさわしい条件がととのってくるわけです。長年の知識と経験の上に立って、いよいよ神さまとの絆が強められ、深められて行きます。年を重ねることによって悲観したり、悲劇的になったりすることなく、残された時間と能力への祝福、神さまからの恵みとしてこれを受け取り、人生の「まとめ」の時として毎日をを過ごしたいと思います。
 「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」(ヨエル書3ノ1)


インターネット取材報告!
みんなで考えよう 親子室について

報告者 ペテロ 吉村伸

 現在、建築委員会では、新礼拝堂の各パーツ(礼拝堂内部・インテリア・エクステリア・納骨スペース等)に各担当者を割り当てて、その担当者が専門的に資料を集めるという作業を進めています。その中で特に私の担当になった「母子室」について集めた資料をご紹介いたします。「母子室」問題については、コイノニアでも数回にわたって、取り上げた問題ですが、聖公会の他の教会や、他教派の教会の方のご意見もいただき、一歩下がって見直してみたいと思います。
 ご存じの通り、インターネットの普及は目を見張るものがあり、各教会とも素晴らしいホームページを作っておられます。その中で、無作為に選んだ十数件のHP管理者に次のような質問の電子メールを送ったところ、そのほとんどの方から、すぐに丁寧なお返事のメールをいただきました。以下に要旨を紹介いたします。また、月報に転載させていただくことも快諾していただきました。

(往信)
 はじめまして、突然メールを差し上げます。
 私は京都にある、日本聖公会京都聖マリア教会の教会委員をしております。
 インターネットで貴教会のHPを見せていただき、ご質問させていただきたくメールを差し上げました。
 実は、当教会は過日の阪神大震災のあおりを受け、老朽化していた総レンガ造りの礼拝堂を失ってしまいました。現在、いかにみなさんの満足を得られる新礼拝堂が建築できるかを、月に何日も会議を重ね、検討しております。
 礼拝堂建築委員の中で、私は特に「母子室」、いわゆる「泣き部屋」について、細かく資料を集める役目となりました。
 そこで、質問なのですが、現在、貴教会には「母子室」もしくは、小さい子供、赤ちゃんのための特別な施設を用意されていますか?もし、おありならそのメリット・デメリット等をお教えいただけないでしょうか?おありでなくても、それについてのご意見、その他何でも結構です。
  突然のメールに、厄介なお願いで恐縮なのですが、共に神の元で暮らすものとして、一言いただければ幸いです。

(返信)
聖公会九州教区菊池黎明教会
太田国男さん(執事)

 菊池黎明教会は、療養所の中に在って、その療養者のための教会ですから、子供は居ません。従って、元よりそうした設備はありませんでした。最近近く町からも信徒さんが幼子を抱いて礼拝に参加されることもあり、時には幼子がぐずってなりふり構わず大声を挙げて泣くこともあります。わたしたち療養所に生活する者にとってはその幼子の泣く声を聞き、うるっさいと思ったことはありません。却って、ちょっと騒々しいけど“家族的”なものを感じて、快いものを覚えて、みんな喜んでいます。“今日は天国が賑やかだったね”と。幼子の如くにならなければ天国には入れませんから、天国へ行く見本が見られて良かったね、などと幼子を祝福する声も聞かれます。しかし、信徒さんが多い教会ではお子さん連れも多いことでしょう。大人がしていることを理解できない幼子・幼児に、静かにしていなさい。と言って叱ることは、幼児にとっては不満が募るのみでしょう。別の部屋でもいいから、両親に連れだって教会来ることを楽しみにしている子供さんも多いと思われますので、両親が礼拝している間は、窮屈な思いをしないで過ごせる部屋があればそれに越したことはないと思います。
 御教会が神の宣教の器として立派に復興しますようお祈りして、返信とします。

聖公会岡山聖オーガスチン教会
    藤原 彰さん(信徒)

 岡山聖オーガスチン教会は礼拝堂のほかに、子供たちが集合できるように20畳ほどのスペースに20畳ほどのサンルーム的なスペースを継ぎ足した部屋があります。ここには子供向けのキリスト教の本が若干あります。日曜学校に使われています。朝の礼拝が終わるとここでいつも食事会がもたれています。その他役員会などは別の部屋で行われています。
 また礼拝堂の入り口に小部屋がります。母親の婦人が授乳するときに使おうとすれば使えると思います。3畳ほどだと思います。
 岡山聖オーガスチン教会では礼拝中にでも幼児が泣いたり走ったりすることは再々です。それもまた微笑ましい情景です。

日本基督教団 室町教会
     樋口進さん(牧師)

 昨年、浦地先生はじめ何人かの方々が当教会を見学に見えました。その時「母子室」もご覧になったと思います。
 私の教会では、「母子室」は好評です。礼拝堂が二階で、「母子室」は3階ですが、ガラス張りで、スピーカーもついていますから、同じように礼拝ができますし、「母子室」の音は礼拝堂に殆ど聞こえません。建って四年経ちますが、今のところ「母子室」に関する苦情は、聞いていません。
 本当は、子供もきちんとしつけをして、礼拝堂で大人と一緒に礼拝をすれば、一番いいのかも知れませんが、現実には、騒がしくしますし、落ち着いて礼拝が出来ない、ということになることも多いと思います。

日本基督教団 北柏めぐみ教会
   坂下道朗さん(牧師)

 わたしが牧師をしている日本基督教団北柏めぐみ教会は礼拝堂にイスが50個並んでいる小さな教会です。礼拝出席者の平均人数は32、3名くらいです。ですから会堂の余裕もなく母子室を設けておりません。ただわたしはそういった物理的な制約から母子室を設置できないというのが、かえって教会のためにはプラスだと考えています。そして役員(そちらでいう教会委員のような方々)の大半の人たちは、あえて母子室を設けなくてもよい、とお考えのようです。
 つまり、教会は赤ちゃんからお年寄りまで、あらゆる年齢の人が集まって礼拝をすべき場所であって、それを隔離することは、子供を招かれた主の御心ではないと思います。ですからわたしたちの教会の礼拝には、子供連れのお母さん、お父さんが子供と一緒に礼拝堂に座っています。今よく礼拝に来るお子さんは、2人、4人くらいが出席しています。もちろん礼拝中、説教中に子供の声が響くときがありますが、あえてそれをよしとしているのです。最初の内は抵抗感があったようですし、ひょっとしたら今でも抵抗を持っておられる方があるかもしれませんが、おおむねその状態に慣れてくださっているようです。
 ただ現実問題として、子供自身が我慢できずに泣きわめくような状態になることがありますので、礼拝堂のすぐそばの部屋を一時的な待避所(?)のように使っています。あるいは授乳するような場合にもその場所を使います。けれども、子供の状態が落ち着けば、また親子共々礼拝堂に帰ってくるというのが基本です。
 つまり最初から隔離することを目的とした場所ではなく、基本は親子一緒に礼拝をし、どうしてもおとなしくできない時には、その場所に避難(?)するという考え方です。なおその部屋にもスピーカーがついていて、説教など講壇の音声は聞こえますし、聖餐、献金などが始まればすぐに部屋を出て礼拝堂に移ることができます。
 人数の大きな教会、しかも教団というどちらかというと説教中心の礼拝をする教会と、聖公会(ハイとローの差はあるでしょうが)のような教会ではだいぶ様子が違うでしょうから、あまり参考にはならないかもしれませんが、子供を最初から隔離しないという理念は、大切だと思っています。
 よい会堂が与えられますように祈っております。
(後日別信)
 これは聖公会のみならず、教団の教会(北柏めぐみ教会でも)そうですが、礼拝の主役は誰なのかということが忘れ去られていると思うのです。つまり大人が主であって、母親が礼拝を守るために子供を連れてくることができるという意識があるように思います。わたしは、人間を招かれる主が主役なのであって、そこに大人も子供も「神の家族」として集められているという意識を持たないと、信仰を次の世代に受け継いでいくということも、(特にこの日本では)難しいのではないかと考えています。わたしが役員やその他の大人を説得するのはいつもこの点からです。

日本聖公会東京教区 M教会
       Oさん(信徒)

 当教会では幼児は親と一緒に聖餐式に出席します。時々泣き声の大きくなった幼児を連れて、礼拝中に外に出ていく母親を見かけます。預かってくれる部屋や、施設はありません。子供達の礼拝が十時から行われます。大人の礼拝が10時30分から始まりますので、子供達は30分の礼拝後、別室でエスエスの先生と一緒にお絵描きをしたり、歌を歌ったりして過ごしています。エスエスの先生は信者の女性がやっていますが、時々は子供の母親も一緒に子供達の面倒をみているようです。大人の礼拝の陪餐の時には、子供達も祝福を受けるために、のこのこやってきます。そして司祭の祝福を受けた後、やはり別室に戻り、大人達の礼拝の終わるのを待ちます。
 さて、ここからは全くの私見です。身内の恥を晒すようですが、当教会にもいろんな建て前と本音があります。
障害者の為に障害者用のトイレを作ってあります。いつ体の不自由な方や、車椅子の方がこられてもいいように、大分前に作ったものです。ところが今そのトイレは誰も使わないためでしょうか、物置になってしまっており、使用出来ません。何の為のトイレだったんでしょうか。多分、思ったほど障害者の方が来られていないのが原因でしょうか?それにしても、かなりの費用とスペースが今は無駄になっています。
 お年寄りの耳が不自由な方の為に必要だと、礼拝堂の前の方の席にイヤホーンを設置しました。当教会はそんなに大きな礼拝堂ではありませんが、マイクとスピーカーが設置されており、その音をイヤホーンで増幅して聞けるように工事したのです。合計12席にイヤホーンを設置しましたが、誰も使っていません。お年寄りはご自分の補聴器を使っていますし、イヤホーンの使い方が煩わしいようです。
 目の見えない方の為に道路から礼拝堂まで、点字ブロックを設置しました。なるほど、そこをたどっていけば、目が見えなくても礼拝堂に着くことができます。....ところが費用をちょっとけちったせいでしょうか、雨の日になると、そこがよく滑るのです。この前も郵便屋さんが転びました。
 以上のお話しは、本当に恥ずかしいお話しですが、よくあることだと思います。特に障害を持った人、ご本人からの要望ではなく、こうだろう、ああだろうと教会委員会が考えてやってきたことは、今生かされていません。善意だけがからまわりしているようです。
「弱者にやさしい教会」という言葉は、「弱者にやさしいつもりの教会」になってしまい、形だけは整えたが、本当のところ、使い物にならない無駄な投資が増えてしまいがちです。
 私は「弱者にやさしい教会」とは、形より、言葉や行動のほうが大切なような気がします。ハードよりもむしろソフトが重要なような気がします。
自分の家族なんですから、赤ちゃんが泣こうと、子供が騒ごうと、気がついた人がケアできればいんじゃないかとさえ思います。母子室があるから、泣き部屋があるから安心する母親はいないんじゃないかと。 多分、母親達の要求はケアできるスペースのことではないかと想像します。

日本同盟基督教団 多磨教会
     広瀬薫さん(牧師)

 多磨教会には、母子室はあります。でも、礼拝から子どもを切り離すのではなくて、礼拝前半は子ども向けのプログラムも少しあって、子どもも共に過ごすようにしています。
 共にと別にのバランスは難しいところで、どこの教会でも悩む所でしょう。

日本聖公会北関東教区
      下館聖公教会
パウロ 鈴木伸明さん(司祭)

 お尋ねの「母子室」、いわゆる「泣き部屋」についてですが、下館の教会は残念なことに今乳幼児がおらず、そういう問題を話し合う時が来るのを逆に待ち望んでいるといったところです。ということで申し訳ないことに現在の当教会の状況をお話しすることが出来ません。
 しかしながら、私がこれまで勤務してきた教会では、このことがよく話題になっていましたのでそのことを書かせていただきたいと思います。
 A教会は主日の会衆が150人程度という、横浜教区では大きな教会です。当然乳幼児を連れて礼拝に来る信徒の方もおられました。聖餐式中、飽きたり我慢できなくなった乳幼児が泣くのは毎週のことのようでした。
 ある教会委員会の時、母子室を用意すべきであると、ある教会委員の方が提案しました。日曜日、一週間の様々な思いを持って礼拝に来て、子供がうるさくては精神統一ができないし、次の一週間の霊的な糧を十分受けることが出来ない。子供も大事なのは確かだが、だからといって大人の信仰生活が犠牲になるのは決してよいことではない…、という趣旨でした。まあその乳幼児の親が「子供が泣くのは当たり前だ…」と礼拝中に自分の子供が泣いても放任していたこともあるのですが、この意見に対して強い反対意見がありました。子供は泣き声をもって神様を賛美しているというわけです。いやそれは理想論であって現実に即していない、と議論は続きましたが、結局次の建築計画が具体化するまで継続審議ということになったのでした…。
 次に赴任したB教会は、牧師が定住している教会としては横浜教区で最も小さい教会です。子供のいる家族が私を含めいくつかあり、また近所の子供がよく来ましたので、礼拝堂はしばしば礼拝をしているのか運動会をしているのかわからない様子でした。子供がうるさいと司式をしている私もつい声が大きくなります。しかし子供の声には勝てず、説教の時にはよく声が嗄れてしまいました。
 信徒の皆様は、若い人が教会になかなか来ない現状では、子供が礼拝堂を走り回るのは好ましいことだ…と私たち親にとってはまことにありがたい判断でしたが、それでは礼拝が神様の無限の恵みを伝える聖餐式にふさわしい雰囲気であったか…、といえば何とも言えません。礼拝に出席している方々が、「礼拝中は静かにしなくてはならないのだ!」、と、言葉ではなく子供が自然に感じる雰囲気を、礼拝が備えていなくてはならないのではないか…、というのがこの教会の結論でした。実際にそれが達成されたのかどうかは別ですが・・・・。
 北関東教区に出向し、最初に赴任したC教会でも、この問題に関しては基本的に皆さんA教会と同じ考えでした。
 以上のようなことから、「母子室」、いわゆる「泣き部屋」について私見を述べさせていただきますと…。
●礼拝に出席している乳幼児がどのような存在か、その教会でよく確認し、意見交換してその教会なりの考えをまとめる必要がある。
●礼拝中子供が騒いだら、常識として親はちょっと外へ連れ出すなどの配慮が必要である。また外へ連れ出しているうちに陪餐が終了してしまわないように、子供を親に代わって一時預かる等、会衆の協力が望ましい。
●「母子室」・「泣き部屋」がどのような存在なのか、教会の中でコンセンサスを得ておく必要がある。「母子室」・「泣き部屋」があれば子供の問題がすべて解決するわけではない。


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