バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書@) (7)鳩

 今日私の言いたかった事は、大いなる希望です。「イエス・キリストの福音の初め」が既に始まっているのです。2千年前に。神が世界を創造された初めは、何千年前か何万年前か、また聖書に書いてある通り創られたのかどうかは知りませんが、神様の愛と平和が満ち亙る世界がうまく来ませんでした。でも今度は、「イエス・キリストの福音(喜ばしい便り、おとづれ)の初め」なのです。そのイエス様はこの世に既に来られたのです。そして「わたしは既に世に勝つた」と言われたのです。勿論私たちの目には、現在の世界はまるで絶望のように見えます。けれども私たち信じる者は、キリストの福音を信じている。キリストにあって生かされている。キリストと共に居られる「私を信じて下さる神」は、[神に対しアーメンと言っている私]を肯定し、私に[そうだ、よろしい]と言って下さっているのです。今生きて働いていて下さるキリストが、私たちと共にある限り、神の約束によって、私たちの前途は光の中にあると信じています。「イエス・キリストの福音の初め」は希望に満ち溢れている歴史の初めです。

 私・栄一の信仰はキリストの十字架、つまり神の愛がこの世に必要欠くべからざるもの、と気づいた事が始まりでした。次に必死で人を愛しようと、戒めを守る事を考えました。駄目でした。再び十字架を指し示され、『自分を捨て、自分の十字架を負って私に従いなさい』と言うイエスの言葉に取り組んだ時、自由が来ました。そしてキリストの復活こそ、私の希望と確信させられました。分からなかった聖霊様が何時も私と共にいて下さる。何時もと言うのは、私が必要とする時にはいつも、と言うことです。

 聖霊に頼る生き方は、生長する為肥沃な土地を必要とする一粒の種のようなものです。この肥沃な土地とは、私たちの心の姿勢だけではなく、それを支える外的な環境を含みます。私たちが霊的生活をすることに真剣に取り組もうとするならば、その霊的生活が生長し、成熟して行く環境作りに対して、努力が必要です。具体的に云えば、教会に礼拝に行くこと、聖書を読むこと、よき友人を選びお互いに刺激しあうこと、成るべく沢山の人と、特に困っている人と交わり、話し合うこと(文通を含む)、信仰的な読書をすること、信仰と関係なくてもこの世における智恵の本を読むこと、など。

天のお父様、
今日私たちは『イエス・キリストの福音の初め』と言う事を学びました。あなたの愛が、イエス・キリスト様という希望を、私たちの胸に刻み込でくださる事を、です。主イエスよ、あなたは私をそばに置き、私を捉え、私のために戦い、守り、支え、私を慰め、私を父なる神に捧げたいと思っておられます。それはまさに、私を失わないようにと言う聖なるみ業です。しかもそれでも、私は自由なのです。主よ、どうか私が自由に、あなたの愛を選び取れますように導いてください。あなたを見失う事がありませんように、あなたが指し示してください。イエスのみ名によって祈ります。アーメン!

もう一言。マルコ福音書の15章に、イエスの死を見た百人隊長が「真にこの方は神の子であった」と証言しています。マルコはこの福音書の初めと終りを《イエスは神の子であった》と壮大に締めくくったのです。

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