バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書A) (3)鳩

 何故ヨハネは荒れ野に現れたのでしょう。民衆がもっと集まっている都市に現れなかったのでしょう。その方が宣教の効率から云って望ましいでしょうに。考えて見ますと、人間は罪に捕らわれています。神様の事を考えずに、自分達の便利さや、華やかさや、お金を儲けることや、地位が高くなることばかり考えている。誘惑にももろいのです。都市や文明と称するものはいかに誘惑に満ちているか。私共人間が神の声に、福音に耳を傾ける為には、荒れ野の中でのように、一切を剥ぎ取られ、裸になった私たちが、素直に、率直に神に聞かねばならぬのです。裸になるとは、自分という人間の真実に向き合うことです。貧しい、卑しい人間だなあと自分を発見し、自分には力がないと悟ることです。そこで始めて魂が揺すぶられ、悔い改めが始まります。或る男性は、鏡に向かって髭を剃っている時に突然鏡の自分に向かって「お前は汚い。卑劣漢め」と自分の真実に目覚め、自分に対して罪の告白をしました。或る人は、有名な牧師の説教を聴いたあとに、不正に頬被りして返済せずにいて、時効になった昔の借金をわざわざ支払い、他人に対し自分の過ちを公表しました。《荒れ野に水は湧く》(イザヤ35:6)のです。荒れ野=大方は砂漠、では水や泉は非常に貴重です。その水で人間は、洗ったり、清めたり、飲んだりします。「清める」とはどういう事でしょうか。有名な山上の説教に「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」(マタイ5:8という言葉があります。清いという事は神様の方を向き、ただ一筋に神様を見ることです。それが神に対して、自分の罪を告白し、悔い改めることです。一般に考えられているように聖人になることが清くなることではない。バプテスマのヨハネの使命は、《罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマを宣ベ伝える》事でした。だけどヨハネの水のバプテスマは、イエス・キリストの聖霊のバプテスマの準備的なものでした。それはヨハネの使命ではありましたが、彼の力だけで遂行できるようなものではありませんでした。神の力が必要なのです。神の力が現れる為には、荒れ野に集って来ようとする民達の自発的な意志がいるのです。現在でも、洗礼によって救われるのは、勿論神様の力、イエス・キリストの十字架、復活による、贖いの力が働くのですが、《イエス・キリストを主と告白する》私たちの信仰が、神様によしとされ、神の力を招くのです。「主と告白する」、とはどういう状態ですか?昔は奴隷という身分がありました。王様は奴隷に対して絶対の権威、権力を持っていました。ローマ皇帝のような、生殺与奪の権力です。パウロは「自分はイエス・キリストの奴隷だ」と表現しました。自分の命を棄ててキリストの宣教をするというのです。(勿論キリストからは、奴隷のように取り扱われるわけではなく、宗教改革で有名なマルチン・ルーテルの言ったように、大きな自由を与えられるのですがーー「キリスト者の自由参照」)。

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