バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書B) (3)鳩

(3)天が裂けて、聖霊が降ってくる(イエスに)

  創世記に「初めに神の霊が水の面を覆っていた」と言う言葉があります。イエスが受洗された時、このヨルダン川でも水の上に御霊が降った。「鳩のように降ってきた」のをイエス様が見られた、と書いてあります。鳩はどういう事を意味するのか、私たちにははっきりとは分かりません。ウオーター・ワンゲリンは「それはただのハトではなかった。それは創造の奔流をおおい、またノアの洪水の奔流を覆った聖霊そのものだった」と記載。まあ小説ですからね、どう書いてもよいわけです。しかし渡辺師も「ヨルダン川の水の上を飛び翔ける鳩はノアの大洪水の末期に、オリーヴの木の葉をくわえてくる事(創世記8:11)によって、新しい天と地を告げ知らせたように、今ヨルダン川のほとりで新天新地を知らせるのである」と書いておられ、バークレー師は「バプテスマのヨハネは裁きを予告したのに、神は柔和な姿の聖霊なる鳩をイエスに降らせ給うことによって、イエスは憐れみを・恵みを齎すのだと予告された」と言っています。ワンゲリンは小説の中で、ヨハネもその鳩のような聖霊を目撃したと書いていますが、それはイエスだけがご覧になったものです。

ワンゲリンは、五旬節の聖霊降臨の場面で、≪風のうなりはもはや音ではなかった。それは自分の魂の中を吹く嵐だった。アンデレははちきれんばかりに満たされた。そのため、口を開けてシモンと同じように熱狂的に語り始めたがその言葉は、シモンとは全く違っていた(異言の事を言っているのです、或る時は外国語、或る時は全く不明の言葉と言われています)。・・・すべての弟子の頭の上には舌のような炎が乗っていた。・・・アンデレはトランペットになった。神の息によって体全体が歌を歌った(多分霊歌でしょう)・・・外の階段に立っている人々は云った。「彼らは酔っている。・・・」。「ちがう」ぺテロは云った。「ちがう。私たちは酔っているのではない。神ご自身の霊を注がれて語っている。ヨエルの云ったことだ・・・」(使徒言行録2:1〜42)。聖霊降臨は信じる者すべてに起こることです。イエスのみ名によるバプテスマを信じる者において新しく実ることなのです。御霊は、この時イエスに降ったばかりではなく、その後もイエスの中にとどまり、イエスを通して働き、力ある業をされる、その一つが聖霊によって洗礼を施されることです。神の霊がとどまっている神の子としての働きの現れです。(イザヤ11:1〜5,42:1,61:1など)。地上の一人の人イエスに神の霊が下り、留まり、満ち溢れて、そのみ業をされる新しいときが来たのです。天は裂け、神の御心はイエス・キリストを通して私たちに通じる、新しい時代が始まったのです。「天が裂けて」とは、断絶していた神様と私たちの間に、新しい道が通じたことです。イエス・キリストをさきがけとして、神の声が人間に直接聞えるのです。「あなたはわたしの子、わたしの心に適うもの」と。神の声が聞こえるとは、耳に聞える事ではなく、聖霊によって御心が通じることです。神様の憐れみが、平和が、和解が、愛が私たちの願望となる事です。

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