バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 7 ) (1)鳩

皆で話し合う「マルコによる福音書(7)」


マルコによる福音書2章13節〜28節

 

レビを弟子にする(マタイ9:9〜13  ルカ5:27〜32)

 13イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まってきたので、イエスは教えられた。14そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。15イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪びともイエスや弟子達と同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。16ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪びとや徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪びとと食事をするのか」と言った。17イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」。


マタイによる福音書9章には、マタイと言う徴税人がイエスに従った記事が載っています。
レビという名がマタイに変わっただけ、とも思われる記事です。そこで、マタイとレビとは同一人だという説と違う人だという説(12弟子のひとりマタイは第一福音書の著者とされていますので、レビをマタイとしたのでしょう)とがあります。どちらも尤もらしい。でもそれはどちらでも良いのです。大切な事は、彼らが(そしてエリコで救われるザアカイも)、取税人であったということです。罪びとと共に取税人は、人々から、特にファリサイ人と律法学者から、人間扱いをされていなかったのです。取税人とその下請けたちは、請け負った税額をローマ総督や、ヘロデ王家に収めればよいのですから実際の徴税は、民衆の無知に付け込んで、出来るだけ多く徴収して私服を肥やしていたのです。だからユダヤ社会では取税人は、盗賊や詐欺師と同列に置かれ不誠実な不道徳職業とされ村八分のような取り扱いを受けていたのです。それらは「地の民」(アム・ハ・レツ)として、汚れた民、救いには縁のない民として見捨てられていた(ヨハネ・7:49)。遊女や他の犯罪人たちと同列にされている、その取税人がイエスの弟子に召されたと言う事実が大切なのです。世間から人間扱いされていなかったレビは、「イエスの話を聞いた所で所詮俺には何になる?」と動かなかったのでしょう。(ザアカイと違う所ですね)。そこへ、イエスの声がかかったのです。思いがけない人間扱いがあったのです。そしてイエスはレビの所で大勢の取税人や罪びとたちと共に食事を致します。それを見た律法学者たちは、「何たることか!彼はあんな奴らと共に食事をしている」と非難するのです。そこでイエスは言われる。「健康な者に医者は要らない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためでなく、罪びとを招くためである」。ここで気をつけなくてはいけないのは、イエスは、罪びとを招いて病気を直す為だとは言っておられないということです。ホセヤ書6章6節の言葉、「わたしが喜ぶのは愛であって、いけにえではなく、神を知ることであって,焼けつくす献げ物ではない」をひいて示唆していることですが、当時のユダヤ教の原理は、神と人との関係は、人間が神に捧げるよきものによって成立するという原理でありました。そして、神から与えられる律法を守る行為こそ神に捧げるよきものであるから、律法を守ることこそ、なすべき務めである。それに対してイエスは、イエスが生きておられる世界は「憐れみの原理」に立つ世界であって、人間がどれだけよきものを神に捧げる事が出来るか、ではなくて何も捧げる事が出来ない人間(いわば、貧しい民)にも神が、ご自分の憐れみをもって無条件に交わりの手を差し伸べて下さるのです。イスラエルの神は本来、預言者も指摘しているように、「あわれみ、いつくしみの神」でありました。それが、傲慢という人間の本姓的な罪の為に、人間を主人とする「いけにえの原理」の宗教に転落してしまっていたのです。イエスは来られた。そしてこの転落を元の状態、神様の憐れみのみ、という状態に戻そうとされるのです。だからイエスは、レビやマタイ、罪びとたち(貧しい人)を招かれる。彼らを召す為に来られたのです。私たちは、その招かれ、召された所で、神様の義に気づかされました。同時に自分の罪が実に深いことに気づかされました。その自覚が生まれたと言ってもそれで私がどうにかなると言うものではないのです。つまり、他人と比較して自分があのような罪びとでない事を感謝している限り、ファリサイ人、律法学者と変わらないのです。私たちは主日に、聖餐に与かります。その時イエスの十字架と向き合っているのです。その時、イエスは十字架上で苦しみ、死んで行かれます。私たちもその時、自分を無価値、無資格と思いながら、イエスと一緒に死んで一体になるという祝福に与るのです。義とされる、洗礼を受ける、召される、「自分の十字架を担って、イエスについて行く」、と言うのはそのような死を乗り越え、聖霊を頂いてイエスのいのちを生きることです。「自分自身が貧しい者である事を気づかされる」と言うことが悔い改め、メタノイア、そして新しいいのちの基本なのですね。

 

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