バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 7 ) (2)鳩

 

 

 断食についての問答(マタイ9:14〜17  ルカ5:33〜39)


 18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 いったい断食は何の為に行なうのでしょうか。現在のように美容の為とか、せいぜい長生きの為とか言うことではありませんでした。懺悔、痛恨の表現として断食はどの宗教でも行なわれていたのですが、ユダヤでも一年に一度行なわれていました(大贖罪日の断食・・レビ記16:29〜34)が、断食が国民的懺悔の日として制定されるのは、捕囚後のことです(ゼカリヤ8:19)。それが週2回となり(モーセが律法を受ける為にシナイ山に登った、週の第5日と下山したと言われる週の第2日)、ルカ18章でファリサイ派の人が神殿で、隣の徴税人と自分を比較し「自分は週に2回断食をし・・」と威張って祈っている。そのようにファリサイ派の人はおのれを誇るやや偽善的な断食をしているが、バプテスマのヨハネの一派の人々は終末に備えて悔い改めの為、もっともっと真剣に断食律法を守っていた。そのような背景の中で、イエスの弟子達だけが断食しなかったのは極めて特異であり、断食しないことは、断食律法を神聖なものと人々が考えている、その律法への裏切りを思わせたのです。だから、律法学者から、「ヨハネの弟子達とパリサイ人の弟子達は断食しているのに、あなたの弟子は断食しないのは何故か」と言う詰問がイエスに寄せられるのです。お前達は異端じゃあないか、と。
それに対してイエスは「律法では、婚礼の客は、花婿が一緒に居る所で、断食する事は出来ないような規定になっているではないか」と答えられる。ユダヤの婚礼は1週間も続き、その間客は週2回の断食を守る律法の義務から解放されていたのです。イエスは「今や預言者が予言した、来るべき者メシアが来たのだ。終わりの時が来たのだ。これは神が人と共にいてくださる喜びの日である。地上の婚礼でも人は断食の律法から解放される。まして永遠の花婿であるわたし、イエスと一緒に生きる所で、どうして断食をする事が出来ようか」と答えられたのです。次いでイエスは「花婿が一緒にいる限り彼らは断食できない。しかし花婿が取り去られる時が来る。その日には彼らも断食する」と言われたのですが、それはどういうことか。花婿が取り去られる時というのは確かにイエスの十字架の死を意味し、その時以後はどうなるのかという問題については、[古い着物と新しい布。新しい葡萄酒と古い革袋のたとえ、の後でじっくりと考えましょう。

新しい布は縮む力が強いので古い着物の破れた所に縫い付けると、その縫い目で破れることになる。新しい葡萄酒はまだ発酵を続けているのでその膨張力で、弾力を失った革袋を破裂させる事になる、と生活の中から生まれた智恵を述べられたのですが、これは何を表しているか。この2つの譬えは、イエスご自身の中に来ている御霊で生きるという事態が、もはやイスラエルの律法という古い枠に収め切れないものである事を示されたのです。
 

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