バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書 8 ) (2)鳩

皆で話し合う「マルコによる福音書(8)」

マルコによる福音書3章1〜6節

 

一例を挙げましょう。先日久しぶりに東京教区のごく親しい友人がマルコ教会に来られ、東京教区エルサレム委員会が出版された岡真里姉の、「パレスチナの平和と[私たち]の役割」という講演輯を頂きました。これを読む毎日、慄然としながら、イスラエルとその国の周囲のパレスチナ人との争いの真相と、踏みにじられている平和、人間の心の醜さ、恐ろしさにおののいています。何よりも、イスラエルの人々は未だに「聖絶」という言葉を信じているのではないか、という疑心に駆られています。約20年前に幾度も、「畑野さんに白状するが、私は、旧約の神が《聖絶せよ》という言葉を使われたのが,理解できない」と言われた司祭様がおられましたが、私は今も、現在のイスラエル人たちがその言葉を字義通りに受け取っているのではないか、とこの本を読んで疑いました。勿論イスラエルとパレスチナの問題のみではなく、世界には今も、キリストの平和の光をもってしても、照らす事の出来ない暗黒が満ちています。でもキリストの平和、平安は、その暗黒を打ち破るのです。あたかも、あらゆる人間の理性らしきものが作り上げた見掛けだけの制度、見かけだけの良心の枠を超え、サタンの誘惑に従い、自分たちだけの繁栄とむさぼりと言う虚像・偶像を求めて生きている世界の中で、イエスのように、「善を行うのがよいのか、悪がよいか。命を救う事か、それとも救わない事によって殺す事か」と問い続ける。イエスが怒られ、悲しまれたように、いい加減な、日本を含む諸先進国に対して、聖霊の力と勇気によって抗議の声をあげる事か。私たちの勇気は今何処に向かえばよいのでしょう。直ぐに武器を用いてでも、自分の欲望を広げようとする人間の心の弱さに向かってでしょうか。〔それには宣教によって闘う〕。それとも、戦争はしない、武器は用いない、持たないと決めた、日本の現憲法を死守する事に向かうのでしょうか。(暴力を用いない政治的実践によって戦う事をおろそかにしない)

 

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バルナバ栄一の「聖書談話」

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