バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第六部 その1-(3)鳩


 

命のパン
 ―― 御霊のキリストとの合一 
 ―― (ヨ ハネ福音書第6章)
ヨハネ福音書の性格


 「永遠のいのち」を論ずる時、ヨハネ幅音書を抜きにはできません。大ざっぱに言うと、聖書の宣教には二つ の大きな流れがあります。一つは、使徒パウロの宣教に代表されるように、イエス・キリストの十字架と復活に 集中して、そのイエスの事実の意味と、それを信受する者の救いの体験に重点を置く傾向です。ここではキリス トは何時でも、復活される霊なるキリストです。このタイプの福音宣教では、地上のイエスの伝承は殆ど引用さ れません。もう一つの流れは、キリストを復活者として宣べ伝えることは同じですが、その福音の内容をあくま でも、地上のイエスが語られた言葉と、為されたわざによって語ろうとする傾向です。それは共観福音書と云わ れるマルコ、マタイ、ルカの三福音書がしていることです。イエスの地上での言葉や働きの目撃者(ペテロを代 表とする弟子たち)が伝え、信じる者たちの群れが語り伝えてきた伝承を忠実に描いた福音書です。ヨハネ福音 書はこの二つの流れを統一するような性格のものとして成立したと見ることが出来ます。
 ヨハネ福音書は共観福音書と異なり、イエスの言葉を伝えるのを、伝承を忠実に用いることと限定していませ ん。むしろ、ヨハネとその群れが、自分たちの現在の信仰によって聞いている霊なるキリストの言葉を、地上の イエスの言葉として書いています。どこまでが伝承による言葉か、どこからがヨハネが信仰によって、霊なるキ リストから聞いている言葉か、分からないことが多いのです。でもこの福音書の目的に従って読むのであれば、 すべて復活されたキリストが、今私たちに語りかけておられる言葉として受け取ればよいのです。この福音書で は、地上のイエスの言葉の伝承と、「主なるキリストの告白」が一つに溶け合っているのです。この面がこの福 音書に独特の性格を与えているのです。
 イエスが5つのパンと2匹の魚で、男だけでも5千人と云う大勢の群集を養われたという奇跡が聖書に記載さ れています。この奇跡物語はすべての共観福音書に記載されていますが、ヨハネではこのわざについてユダヤ人 との会話を通して、イエスは永遠のいのちに関する重大な真理を啓示されたのだと云っています。
 「よくよくあなた方に云っておく。 あなた方がわたしを訪ねてきているのは、しるしを見る為ではなく、パンを食べて満腹したからである。朽 ちる食物の為ではなく、永遠のいのちに至る朽ちない食べ物の為に働くがよい。それは人の子があなたがた に与えるものである。父なる神は、人の子にそれを委ねられたのである」(ヨハネ福音書 6;26〜27)。

いつの時代にも人が神に求めるものは自分の願望が満たされることです。パンを食べて満腹することです。神や 信仰はそのための手段と考えていることが多い。イエスがなされた事を「しるし」と見て、それが何を意味し、 神が自分たちに何を求めておられるのか知ろうとはしないのです。神が今イエスを通して与えようとされている のは、最後は朽ちるほかない地上の命の糧ではなく、「永遠のいのちに至る朽ちない食物」なのです。神は、そ れをどこで、誰を通して与えられるかを語られたのです。民衆は「神のわざを行うために、私たちは何をすれば よいのですか」と尋ねます。

 「神が遣わされた者を信じること が、神のわざである」(ヨハネ福音書6;29) 

 彼らは為すべき多くのわざについて尋ねます。それに対してイエスは、ただ一つのわざで答えられます。これ は極めて大胆で重要な宣言です。自分の人生が失敗だらけであっても、人からどんなに批判をされようと、ただ 十字架、復活を信じぬくことが大切なのです。

 「わたしが命のパンである。わたし に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ 福音書6;35) 

これはユダヤ人には驚くべき言葉、理解できない言葉です。イエスが「私は天から下ってきたパンである」と云 われたので、彼らは躓きました。彼らは「これはヨセフの子ではないか。どうして天から下って来たたと云うの か」と云って、イエスを拒みました。ユダヤ人でない私たちでも。自分の目の前でこう言われたとすれば、一笑 に付するでしょう。

 

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