バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第七部 その1-(3)鳩
 

「愛 は滅びない」

  「愛は決して滅びない。預言はすたれ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も 一部分だから、完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だった時、わたしは幼子のよう に話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことは捨てた。わたしたちは、 今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔を合わせて見ることになる。わたし は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているように、はっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中でも最も大いなるものは愛である。」 (T コリント13;8〜13)

   神の愛(アガぺー)は聖霊の賜物(カリスマ)の一つです。しかしアガペーと云うカリスマは、預言や異言や 知識(グノーシス)や力ある業など、他の賜物とは違います。「部分的なもの」、「一時的なもの」とは違い、 「アガペー」は「完全なもの」「永続するもの」である点が決定的な違いです。
 預言や異言や知識が部分的と云われるのは、その賜物がすべての人にではなく、特定の働きを担う一部の人に だけ与えられる賜物であると云う意味もありますが、ここでは、その内容が真理の全体ではなく一部にしか参与 していないと云う意味で、「部分的」と云われます。それに対して「愛」は、御 霊によって生きるすべての神の子に与えられる賜物であるだけではなく、それは真理の全体にあずからせる と云う意味で「完全なもの」と云われています。愛(アガペー)は神のいのちそのものであるからです。そ して「完全なもの」(愛)が来たときには、部分的なものは廃れることは、幼児と成人の譬えが用いられます。 部分的な賜物で満足している者は幼児にたとえられ、愛と云う完全なものに生きる者が、人生そのものを理解し ている成人にたとえられます。大人となった今は、幼児の生き方は卒業したのです。つまり、成熟したのです。

 次に鏡の譬えが来ます。当時の鏡は金属の表面を磨いたもので、今の鏡のようにはっきりと写すことはできま せんでした。鏡の譬えでは「今は」と「その時」が対照されています。「朧に」(原意は「謎において」)見て いる今と違って、その時にはもはや『顔と顔と合わせて』見るように鮮明になると云うのです。パウロはその事 を自分の確信として宣べています。はっきりと知ると云う動詞の名詞形が「エピグノーシス」です。地上の《グ ノーシス》(知恵)は部分的で不完全です。しかし完全なものが来る(その時には)」《エピグノーシス》(完 全な霊知)が実現するのです。この譬では、完全なものが来るのは終末のこととされ、現在体験されている預言 や異言や知恵などのカリスマは、部分的であり、一時的(過ぎ去って行くもの)に過ぎないことが強調されてい ます。そして「愛」の賜物は、「その時にも」存続する永久的な賜物であることが指示されているのです。

 預言や異言や知恵と云ったカリスマ(御霊による能力)が、「エクレーシア」形成の為に、必要に応じて、一 部の人に一時的に与えられる性質のものであるのに対して、同じ聖霊が生み出して下さるものでも、「信仰と希望と愛、この三つ」は主に属する者 たちにそのすべてを与えられ、完全なものの来る「その時にも」廃れるものではなく、「いつまでも残るも の」、終末の時にも存続するものです。その中でもアガペー(愛)は、直接神のいのちの質をあらわすもの として、「最も大いなるもの」と呼ばれます。

 ついでに、20世紀の代表的な神学者二人が、「コリント人への手紙T」で推奨している個所をご紹介します と、その一人カール・バルトは自著『死人の復活』において、十五章の「死人の復活」こそ、この手紙のクライ マクスであると云っているのに対し、もう一人の神学者ブルトマンが批判の論文を発表し(一九二六年)、この 手紙全体のクライマックスは、一二〜一四章、特に十三章であると反論しているとのことです。いずれにせよ十 三章と十五章が、この手紙の二つの高峰をなしていることは間違いないと、市川喜一師は書いておられます。熟 読玩味されんことを!


 

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