バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第八部 その1-(2)鳩

 

「ピステイス・クリストウ」

  所でパウロは、引用ではなく自分の言葉で「信仰」を語る時、「ピステイス・クリストウ」と云う言葉をよく使いました。それは「キリストの信仰」又は「イエス・キリストの信仰」と云う表現です。そして「救われる」と云う表現よりも「義とされる」と云う表現を好んで用います。これは、神と人との関わりを義と云う用語で語る旧約聖書の世界に生きていたパウロにとっては自然な事だったのでしょう。それでパウロが福音を語る時には、「キリストの信仰によって義とされる」と云う表現になるのです。

 所がこの「キリストの信仰」と云う表現は、このままの日本語では理解が難しいので、「キリストを信じる信仰」「キリストに対する信仰」(口語訳)とか、「キリストへの信仰」「キリストを信じること」(新共同訳)と訳されています。(ガラテヤ書2;16と20 3;2、ローマ書3;22など)、福音の確信を語る重要な個所に用いられているこれら訳語の原語はすべて「ピステイス・クリストウ」(キリストの信仰)です。勿論口語訳、新共同訳に用いられている訳語が間違っているわけではありません。しかし、これらの訳語は「ピステイス・クリストウ」が意味する一面しか捉えていないと思われるのです。これらの日本語訳では、キリストと云う、自分の外なる対象に向かう人間の態度と受け取られるでしょう。けれどもパウロが《キリストの信仰》と云う時には、それ以上の内容が含まれていると思われます。パウロは、《キリストが持っておられるピステイス》と理解して、この場合、ピステイスは信仰ではなく、真実とか誠実と云う意味になります。たとえば「神の愛」と云う時、「神」を愛する人間の愛だけではなく、「神」が持っておられる、人間一人ひとりに対する愛と云う意味もあるように。

 「ピステイス」を信仰と云う意味だけに解釈しますと、神に対する人間の態度だけに限定されてしまいますが、「ピステイス」は本来もっと広い意味の語で、神が人に示される、「ピステイス」と云う用法もあるのです。たとえば、ローマ書3章3節では「ピステイス」は神の誠実を示し、Tコリント1;9では「神は真実な方《ピステイス》です」と云われています(ともに新共同訳)。バルトもローマ人への手紙3章22節「キリストのピステイス」を「キリストにおいて顕された神の真実」と理解すべきであると云い出して、周囲を驚かせました。確かにキリストは神の真実の顕現なのです(ローマ15;8)。


 

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