バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第八部 その1-(3)鳩

 

 私が(市川喜一師ご自身)信仰に入った若い頃、信仰をキリストに対する自分の態度と理解して、信仰を維持し深める為に努力し苦しみました。しかし自分の愚かさや弱さに直面して、聖書(特に旧約)を通して神と自分の関係は、私の信仰によって成り立っているのではなく、神の誠実の上に成り立っていることに気づかされたのです。今「真」と云う語を「自分の言葉と自分の現実の姿が違わないこと」と云う本来の意味にとりますと、神と私の関わりは「わたしの信仰」の上に成り立っているのではなく、『神の信』によって成り立っていることを知らされたのです。このことによって私はコペルニクス的転回をせざるを得ませんでした。私は自分の信に絶望して、岩のような神の永遠の信に自分の全存在を委ねることが出来たのです。ですから、それによって自分が義とされ赦される信仰を、「キリストに対する信仰」と云うような、キリストを対象とする自分の態度に限定する理解には満足することはできなくなったのです。

 では「キリストのピステイス」を「キリストの誠実」とか「キリストの真実」とか訳すことはできるでしょうか。これもこの句の意味を狭く限定することになり、問題があります。パウロはしばしば、「キリスト」をつけないで、ただ「ピステイス」と云う語を用いて、「ピステイス」によって義とされるとか、救われるとか、神の子とされるとか云っています。その際の「ピステイス」は一般的な誠実とか真理ではなく、キリストを告白し、キリストと結ばれて生きる人間の、在り方全体を指している訳ですから、同じ語で表現しようとすればやはり、その様な内容を込めることの出来る「信仰」とすべきでしょう。
 パウロが《ピステイス》と云う語で、このようにキリストを告白し、キリストと結ばれて生きる人間の在り方全体を指していることは、たとえば、ガラテヤ3章23〜25での「ピステイス」の用法からも明らかです。

「ピステイスが現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、このピステイスが啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストの下に導く養育係となったのです。私たちがピステイスによって義とされるためです。
しかし、ピステイスが現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、ピステイスにより、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。

 (ここに記されている「ピステイス」は、新共同訳ではすべて 信仰と訳されています)。
 
 ここで《ピステイス》は、一般的な誠実とか信実ではなく、最終的に啓示された神の言葉であり、神の恩恵であるキリストに合わせられて生きる人間の在り方全体が意味されていることは明らかです。特に最後の文「あなた方は皆、神の子なのです」がそれを明確に表現しています。そこでは、「ピステイスにより」と「キリストに結ばれて」或いは「キリストにあって」(エン・クリストウ)が同じ事態を表現する同格の句として用いられています。このようにパウロが、「信仰によって」受ける義とか、いのちとか、救いと云う現実を(キリストにあって)《エン・クリストウ》と云う表現で語る例はほかにも沢山あります。「ピステイス・クリストウ」(信仰)」は「エン・クリストウ」と同じ現実を指しているのです。

(その2に続く



 

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