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2002年2月25日 162号 《速報版》
日本聖公会管区事務所
〒162‐0805 東京都新宿区矢来町65
電話03(5228)3171
FAX 03(5228)3175
発行者 総主事 司祭 輿石 勇

 
癒しを求める時代に
管区事務所総主事 司祭 サムエル 輿石 勇
 調べものをしておりまして、本来の課題と直接関係はないのに非常に興味深い発見をすることがよくあります。先日も、英国教会のある制度について問い合わせを受けまして調べておりますうちに、私にとって非常に興味深い次のような記述を発見いたしました。

 「人々の魂の癒し(a cure of souls)を旨とする、パリッシュ教会の司祭が負う教会法上の職務は、教会の礼拝を行うこと、教会の教理を示すこと、候補者にサクラメントを受ける準備を施し、またサクラメントを主宰することである。司祭はパリッシュに属する人々、ことに病人の訪問に勤勉でなければならず、(パリッシュに属する)人々の霊的な相談や助言に与らなければならない」。

 ここに用いられているキュアーという言葉が、牧会的職務(牧師)の総称であるキュレイト(北米では副牧師的な意味で使われていると思います)と同じ語源から生じているということも面白い発見でした。
「癒す」と訳されるキュアーの語源は、ケアー(注意を向ける)と同義であると、辞書には出てきます。損なわれた、あるいは、傷められた魂の癒しは、誰かが注意と関心を向けることによって癒されるということが暗示されているのでしょうか。いずれにしても、牧師の仕事、つまり教会の仕事が、キュアーすなわちケアーと切り離しがたいということではないかと思います。

 「ヒーリング(healing)」という言葉を、よく耳にするようになってかなりの時間がたつように思います。「アロマ・セラピー」をはじめ「マッサージ・ルーム」、あるいは書店でもミュージック・ショップでも、いわゆる「ヒーリング・コーナー」をしばしば見かけますが、私たちの生きている時代は何と切実に癒しを必要としているのでしょうか。

 近代という時代を「こころと体の分断」として捉える考え方があると聞きました。自然と共存的な農業を中心とする時代から自然を開発の対象とする時代にうつろいゆく中で、世界中の多くの人々が根を失った流浪の民になりました。ことに情報機器の洗練によって加速化される状況変化に対応することに急な余り、私のもといたところ、私のルーツ、私そのものが誰なのかを確認することさえおろそかにせざるをえない環境に私たちは生きています。ヒーリング(「全体」を意味するwholeから派生)を求めるのは当然のことなのでしょう。

 それでは、本来「癒し」を旨としていた私たちの教会はどうなのでしょうか。教会も、時代遅れのそしりを受けないように、うつろいゆく時代に適応しようと努めるあまり、ともすれば教会を教会たらしめていた根から切り離され、自ら癒しを求めるような事態に追いこまれてはいないでしょうか。それは、先に触れましたように、牧師の、したがって教会の職務がキュアー/ケアーであり、そしてその教会の姿勢がセラピー(語源は「待望する、仕える」)であるはずなのに、これほど癒しを求めているこの時代の人々が、必ずしも教会に目を向けているとは思えないからです。

 「癒し」や「悪霊の追放」は、教会の主人であるイエス様の代表的な働きであり、その働きは「悔い改め」と結びついておりました。また、イエス様はそのご自分の働きのために弟子たちを派遣なさいました(マルコ6:6他)。もしそうであるのならば、キリストのからだである教会に入れられた私たちは、再度イエス様に癒して頂き、教会が主の癒しの職務を再び担うことができるように、お祈りすることが求められているとは言えないでしょうか。
 
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