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日本聖公会各教区報のなかから
☆毎月、広報主事宛に送っていただく各教区報等のなかからご紹介しております。




京都教区
北海道教区
横浜教区
沖縄教区























聖職按手式@2001.12.8
道を伝えて己を伝えず
(3題)
京都教区報『つのぶえ』
(第514号)
 
「男女協働への第一歩」

司祭 セオドラ 池本 則子

神様のお導きと皆様方のお祈り・励ましによって司祭に按手されましたことを心より感謝申し上げます。式文の中の「同意します」と「支持します」という会衆の力強い応答に、多くの方々から支えられていることを深く感じました。また多くの先輩聖職の方々から頭に手を置かれた時のあの何ともいえない重みは、感激とともに、今まで以上の責任の重さをずっしりと感じさせるものでした。

翌9日の主日聖餐式での初めての司式は心地よい緊張感があり、感慨深いものがありました。これまで管理牧師であった原田司祭が補式をしてくださったことも感謝です。この日の夕方、夕の礼拝とともに武藤主教より牧師任命式をしていただき、牧師としての第一歩を踏み出しました。何の力もない私ですが司祭・牧師として用いてくださる神様に感謝いたします。「京都教区初の女性の司祭」ではありますが、ここまでの道を備えてくださったのは、神様であり、京都教区の皆様方です。感謝!

今、いろいろな分野で男女が協働する時代、教会も同じです。聖職の働きも信徒の働きも男女の協働が必要です。神様はふさわしい助け手として男女を創造されました。信徒も聖職も神様から与えられた男性としての、女性としての賜物を生かし合いながら、より良い働きをめざして協働することが、より神様の働きを十全に行うことだと確信しています。聖職の男女協働はまだまだ出発したばかりですが、その時期に私が召され、用いられていることは喜びであり、大切にしたいと思います。

一方、男女ということとは別に、一人の人間としても皆それぞれ神様から違った賜物を与えられています。女性ということを越えて一人の司祭として、どのように己を伝えず道を伝えていったらいいのかしっかり考えながら、でも無理をせずありのままの自分を生かしていけたらと思っています。

これから司祭・牧師として神様の助けを祈りながら、ますます神様の宣教の業に励んでいきたいと思います。今までにも増してどうぞよろしくお願いいたします。神様の恵みが皆さんとともにありますように。             

(大津聖マリア教会牧師)

「執事に叙任されて」


執事 サムエル 奥 晋一郎

 12月8日に執事に叙任され、同日付で伊勢聖マルコ教会牧師補に任命されました。神様のお導きと皆様の祈りと支えによってこの日を迎えることができたことを感謝します。

按手式が終わり、伊勢に戻ってからの日々は、一見これまでと変化のない日々を過ごしています。

しかし、按手式の前にリトリートを行ったことにより、改めて自らを振り返り、これから執事、聖職者として歩んでいく上で非常に大切なことに気付かされたことは大きなお恵みでした。この気付かされたことを日々思い起こして過ごしていくことが大切であると思います。

その中でも、食事中に朗読された本から特に気付きが与えられました。朗読された本は『キリストと出会う』というクリスチャンの著名人20人の洗礼を受けるまでと受けてからの歩みが書かれた書物が読まれました。この本は是非購入したいと以前から思っていたので、食事をしながら熱心に聞かせていただきました。この本の朗読を聞くことによって、洗礼は信仰生活の完成ではなく、第一歩を歩み出すことであるということに改めて気付かされました。

そして、この気付きから執事になる、聖職になるということはあくまでも聖職の入口、第一歩であるということを執事に叙任された現在、強く認識させられています。

また、出席された司祭方によって召命についてのお話を伺うことができました。召命とは自分自身でこうだと決めつけるものではなく絶えず更新されるものであるということでした。この話を聞き、改めて神様によって遣わされることに気付かされ、自分の思いにばかりとらわれずに主の僕として謙虚に仕えていくことを学ぶことができました。

執事職は教会・この世において、人々に仕えていく職務であると言われています。この執事職に叙任された現在、これまで以上に主の僕として謙虚に仕えていきたいと思います。

(伊勢聖マルコ教会牧師補)


「涙のチャリス」
執事 エレミヤ 上松 興

 聖職按手式前に行われた静修の時のことです。一日の日程が終わって自室に戻り、黙想していました。今まで経て来た色々なことが思い出されます。ことに神学校を卒業して派遣された田辺聖公会、そして現在の金沢聖ョハネ教会での生活が脳裏に甦ってきました。

やがて心の奥のところから「このような傲慢な、貧しい私が聖職按手されていいのだろうか」という気持ちが沸き起こって来るのでした。聖堂で信徒の皆さんにお話しさせて頂いているみ言葉が自分の生活に根付いているのだろうか。信徒さんの心の痛みを自分の痛みとしてとらえているのだろうか。その疑問を抱えたまま静修の時は過ぎて行き、聖職按手式の当日になりました。

主教座聖堂には多くの人々が参列し、熱気に包まれています。もう逃れられない、ただ神様にこの身をおまかせしようと覚悟を決めました。按手されようとしている緊張と最後の式文の派遣のディーコンパートが私の役目でしたからしくじってはいけないという二重の緊張から頭がぼーっとしていました。

陪餐が始まりました。執事職に任じられての始めてのチャリスの分餐です。そのなかにかつて教会に赴任した信徒さんもおられました。その何人かの方が陪餐されるとき涙を流されていました。このときなにかが私の心の中に緊張と安らぎを与えてくれました。私が聖職に任じられることは、自分だけの喜びではない、信徒さん、教会そして教区の喜びであることが体全体で感じられました。その時から体が軽くなり、ディーコンパートである派遣の独唱も気持ち良くできました。

今、信徒さんが涙で私のチャリスを受けられた時の光景を思い出すたびに、もう私の身は自分のものであると同時に信徒さんのものであり、教会に繋がれた身であることを覚えます。今でも「忙しい、忙しい」という言葉をたまには使いますが、以前より遠慮して言うようになりました。あの涙の前では何も言えません。そして今度は私から信徒さんのために、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く者でありたいとそう願っております。

(金沢聖ヨハネ教会牧師補)

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聖職按手式A 2002.2.20


(2題)

北海道教区報『北海之光』
(第512号)

「平和の道具としてください」

執事 グレゴリー 松井 新世
 
 
皆様方の祈りのおかげで、執事叙任式を喜びと感謝をもって迎えられましたこと に、紙面を借りて心から感謝申し上げます。当日から「カラー」を付け街を歩くようになりました。まさしく「犬の首輪」のようで、キリストのご臨在を意識させられると同時に何か特別なものを見るような視線を感じ、何か自分が偉くなったのかなと言う錯覚を起こし、按手前日母から言われた一言を思い起こしました。「あなたが聖別されるのは、 信者の皆さんが祝福されるためなんだから、何も緊張することはないんだよ」思えば、今までの歩みの中で、どれほど多くの信者さんのお祈りに支えられ、慰められたことでしょうか。執事職を頂いた、いま、この事を忘れずに、キリストの貧しさの内に留まり、弱さや痛みに共感できる者となりたいと願います。今後もお祈りください。
(網走聖ペテロ教会)


「外にキリストを証ししたい」

執事 フランシスコ 飯野 正行

 「主の僕フランシスコに聖霊を注いでください」。この瞬間、柔らかく温かなものに全身が覆われているように思えました。それは母性にも似たものでした。弱く小さな私でも神が受け入れてくださっている、こんな自分にも何か為すべき事がある、そんな思いを私は持ち、自らの献身を見つめ直したのです。

数え切れないほどの多くの方々の祈りと愛の労苦の故に今の自分があります。この大きな愛にどのように応える事が出来るのか。今の私に言える事は「イエス様、私は全くあなたのものです」という事です。今、遣わされている場で神と人とに忠実にお仕えする事だと思います。祈りと学びに力を入れると共に、外に出て行ってキリストを証ししたいと思っています。皆様の愛、殊に、甲斐管理司祭のご指導を感謝しています。皆様の祈りとご指導をこれからもよろしくお願い致します。「主の僕フランシスコに聖霊を注いでください」      

(深川聖三一教会)

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聖職按手式B 2002.2.20
『横浜教区報』
(第443号)

「召命の道」

司祭 ルカ 片山 謙

 2月20日に聖職按手式が行われ、公会の司祭職に叙任していただきました。

式当日は私の予想を遥かに超える多くの方々に参列していただき、皆さんの神の教会への思いを垣間見させていただいたように思います。また式の前後、多くの教会の方々にご奉仕していただいたこと、心より感謝申し上げます。

私の今までを振り返ってみますと、神戸教区の福山諸聖徒教会で育ち、大阪教区の尼崎聖ステパノ教会で聖職候補生の推薦をしていただいて、何も知らない横浜教区の教役者に加えていただきました。また学生の時には、カトリック教会の聖職者、修道者、信徒の方々から、同じ公会の働き人のタマゴとして育てていただきました。さらに、教会に属していない方々のことを思うと数えきれない人々のお世話になったことを痛感します。

私が教会で働きたいと初めに決心したのは高校2年の時です。当時は、司祭職とか他の奉仕職というよりも、「何でもいいから、教会で神様に自分を使ってもらいたい。」という思いでした。自発的に聖書を読んだこともなく、さらに素直に教会へ毎週通っていた訳でもなかったので、私の突然の方向転換に周囲の方々は驚かれたのではないかと思います。キャンプなどで同じ年頃の信者が集まれば、「おまえ、ホンマに信じとるんかぁ〜!?」と、からかっていた者が、「神様はホンマにおるんで!」と言い出した訳です。両親ですら初めは半信半疑であったのではないでしょうか。

手のひらを返したように、召命の道を歩み出したきっかけは色々ありますが、今考えるとその時期に色々な出来ごとや出会いによって自分自身と正面を向かざるを得なかったように思います。当時、自分が教会を通して働きたいと思い、自分の中で願っていたことは「神様はみんなのことを大切に思っている。ということを一人でも多くの人に伝えたい」というようなことであったと思います。それから13年が経ち、司祭職に叙任された今、考えてみますとその願いを持ち続けて今に至っているように思います。

私をこの道に召してくださった神に心から感謝いたします。キリストが歩まれた道、方々を宣教され、私たちのために十字架を甘んじて受けられ、ご復活された主の歩まれた道、その道をキリストとの一致のうちに歩ませていただきたいと願っています。

(横浜聖クリストファー教会牧師)
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聖職按手式C 2002.2.23

13年ぶりの司祭按手

『沖縄教区時報』
(第443号)

「司祭按手を受けて」

司祭 ペテロ 高良 孝太郎
 
 先日来、夜な夜な妙な夢を見続けていました。20年間、食品を扱う会社の営業を担当していた当時が出てくるのです。それだけなら何にも問題はないのですが、毎日のように顔出ししていたお得意先に、すぐ近くまで来ていながらどういうわけか、行けないで目が覚めてしまいます。こんな夢がしばらく続いて、気になっていたのです。

大斎節前主日を迎え、また特に司祭按手も迫っていたこともあって私の中で変化があったのでしょう。とにかく毎日のお祈りに専念することを心がけました。するとどうでしょう。あの妙な夢は全く見なくなりました。

司祭按手式での植松誠主教の暴露(?)話を聞きながら、あの夢が何を告げるものであったか次第に分かったような気がしました。「日々のやるべきことを手抜かりなく」、ということです。教区では13年ぶりの司祭按手ということもあってか、臨席された皆様は心強く、谷主教に、司祭としての同意をしてくださいました。

振り返ってみますと、私は他人に模範となる信仰的な生き方はしてこなかった。いつも、神様を試すことばかりしてきました。それでも、私を召してくださったのです。植松主教が「奇跡だっ」と、おっしゃったのは、実は私の気持ちを代弁していただいたと思っています。私たちの造り主は、計り知れない寛大さと忍耐で導かれる方です。決して他人の模範とはならない生き方でも、今日まで私を支えてくれた家族を与え、大勢の方々の励ましと支援を用意されていました。

言葉では言い尽くせないほど皆様からいただいたお祝い、お祈りと励ましに感謝しつつ、「仕える者」として日々精進し、聖霊の導きを切に願い求めていくつもりです。どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。

(小禄聖マタイ教会牧師)

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