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沖縄戦と広島・長崎被爆の原点である「松代大本営」

中部教区長野聖救主教会 司祭 マルコ 箭野  眞理

 アドベントを迎え、クリスマスのメッセージがあちらこちらで伝えられる時を迎えました。一年の信仰の歩みを振り返ると同時に、降臨節とともに始まった新たな歩みの上に、主と共に歩む信仰生活を祈り求めていきたいと願います。

 今年私たち長野の教会にとって感謝すべき出来事がありました。秋の深まる10月に主教会を長野で開催することが決まり、各教区主教様が当地においでくださいました。色づき始めた紅葉の街路樹が歓迎する中、1998年聖堂聖別100年を迎えた「レンガの聖堂」の愛称を持つ当教会で、重要な会議と祈りに専念できるよう、信徒の皆さんが心を配り、ささやかな、でも心のこもったおもてなしをし、主教様たちをお迎えしました。無事会議が終わった後、長野の何を皆さんにお伝えできるか考え、長野市松代町にご案内しました。松代は明治まで続いた真田一族の城下町、幕末の志士佐久間象山(さくまぞうざんと呼びます)の町です。けれど松代にはもう一つ戦跡があります。それが松代大本営です。地元の人も関係者も戦後黙して語らず、世に知られていなかった大本営の存在が、世に知らされるきっかけを作ったのが長野の高校生たちでした。篠ノ井旭高校の生徒が修学旅行で沖縄に行きました。青い空と青い海、でもそこは同じ年齢の沖縄学徒隊の生徒たちがペンの代わりに銃や包帯を持って前線に置かれ、多くの中学・高校生たちが死んで行った戦場でした。

 この出会いの中で、信州の地にも戦争の跡はないかとの思いから大本営の存在に気がつき、調査を始めたのが同校の郷土研究班の働きでした。傷口に触れて欲しくない、もう過去の事と、心をかたくなにする地元の人たちなどの心を開いたのは、高校生たちの平和を願う純粋な思いでした。以来18年にわたって調査・掘り起こしが進んでいます。

 この地下壕の存在が初めて、国体護持のため、大本営造営のために一日でも一時間でも有利にするために、あの沖縄戦が住民を巻き込む殺戮戦となって行ったことを教えてくれました。沖縄戦の、そして広島・長崎の被爆の原点はここにあったということが、この松代で初めて一つになった思いがいたします。沖縄教区の谷主教様も、その時ガイドの奉仕をされた飯野勉兄(同校卒・郷土班、上田の信徒)のお話をしっかり受け留めてくださっていました。

 先日娘の聖婚式で沖縄に行き、その折、平和記念公園の平和の礎(いしじ)を訪れました。24万人に近い戦死者(日・米・英・朝鮮半島・中国・台湾・沖縄の軍人と民間人)の名前が記されています。そこに稲荷山の信徒のお父さんの名前が記されていました。今年戦後58年たって初めてご家族で訪問されたとのことです。しかし戦争の爪跡はまだ終わっていませんでした。また沖縄県の聞き取り調査などから、2003年の今年初めて礎(いしじ)に名前が記された方々がいました。しかし家族から同意を受けることのできない元ハンセン病患者さんで戦死された多くの方の名前は今も記されていません。

 平和の足音よりもイラクへ向かう武力の足音が響いてきそうです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)との賛美の声をクリスマスのメッセージとして携えていきましょう。平和のつどいで是非長野市松代町においでください。そしてレンガの聖堂に。

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