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 プエルト・リコの首都はサン・ファンです。「聖ヨハネー洗礼者ヨハネ」の意味です。カリブ海の海岸にある美しい、また忙しい南国のかつて植民地であった近代都市です。海岸と町の間にハイ・ウェイが通っていて、その向こうに大きな洗礼者ヨハネの銅像が町に向かって建っています。ややうつむき加減に、左手を上にあげてその指は天を指しています。町の人々に向かって「わたしではなく、目を天に向けなさい」と叫んでいるようです。
 イエスの誕生の時と同じような喧しい社会で、洗礼者ヨハネが荒野で叫んだように、あまりにも、目先の利益と快楽に目を向けている世界で、教会は、すべての人に神のいます天を仰ぎ見るように叫ばなければなりません。人々に、そして私たちも、生きる方向を変えるように、洗礼者ヨハネのように「悔い改め」の叫びに聞かなければなりません。
 洗礼者ヨハネが指差す方向に目を向けたものが、そこに見たものは神の救いのしるしです。ベツレヘムの馬小屋に生まれた幼子の姿をとる救い主イエス・キリストです。神の民が待ち望んでいたメシアは、富と権力者を持つ王様の姿でなく、無力な最も小さな幼子の姿をとって現われたのです。そのことを主イエスの降誕と顕現の出来事は伝えています。
 現代の二一世紀を迎える私たちの社会の多くの人々は、この世的な大きなもの、高いもの、力強いものに救いを求めている社会です。年末に銀座の数寄屋橋を通りました。大勢の人が行列を作って並んでいるのを見て驚きました。宝くじを買うために並んでいるのです。ここはくじがよく当たる売場らしいのです。もし何億のお金が手に入れば、人生も変わるかも知れないと思いながら、私もちょっと並んで見たいという衝動に駆られました。

 見通しが暗い、不安な生活を少しでも生き残れるめどを求めている人が多いようです。何の不安もないエデンの園の生活を追放されて、いつまで生き延びられるか見通しがなく、自分の労働と蓄えしか生き延びる手段が無くなった最初の人間、アダムと同じ状況がまだ続いているのです。
 神から隠れようとするアダムに対して、「おまえはどこにいるのか」という神の憐れみの問いかけです。毎年クリスマスに読まれるヘブライ人への手紙の冒頭には

と書かれています。
 「お前はどこにいるのか」という言葉は、旧約の歴史では預言者を通してずっと問いかけられて来たのです。預言者がいなくなった時、洗礼者ヨハネが現われ、神はみ子イエスをこの世に送って、人類救済のみ心を貫徹されたのです。そのみ子の生まれたみ姿は「最も小さいもの」であり、それを最初に「神の救い」と信じて礼拝したのも「最も小さいものたち」だったというイエス降誕の出来事を、もう一度見直さなければなりません。

 一九九〇年以降の東京教区は「小さな者との出会いと奉仕」を宣教方針にしてきました。小さい者に仕えることは小さい者を大きい者にする手助けをすることではありません。私たち自身が小さいものになるように務め、私たちとの関係を変えることです。
 私たち自身もともとは小さいものであります。しかし、わたしたちは小さいものであることをやめて、この世の力と富を貪欲に求めて、それを身につけてしまったのです。そこで「小さい者」を軽蔑し差別するようになりました。小さい者に関心を向けるようになっても、お互いに共に生きる交わりを持つことが難しくなっています。わたしたち自身が小さいものになる必要があるのです。
 旧約の預言者は神から離れた民に対する神の裁きと滅亡を預言しました。しかし、その中で「残りのもの」について語ります。神の残れる民は「小さなものたち」なのです。人間・アダムへの「どこにいるのか」という神の問いかけに、耳を傾け、答えたのが小さな人々です。

 ゼファニヤの預言を読むと都エルサレムの罪が指摘され、神の激しい怒りによって、地上が焼き尽くされるという預言を彼は語ります。そしてその中で、


 「苦しめられ、卑しめられた民」とは、貧しい人たち、小さくされた人々です。そしてこの人たちこそ、神の救いのみ心の実現に重要な役割を果たす人々です。被らは生き延びるための富も力も持てない、ただひたすら苦しみに耐え忍びながら救いを待ち望み、祈ることしか出来なかった人々です。

 わたしたちは小さいものを助けるために近づくのではなく、わたしたち自身の救いのしるしをそこに見い出して、救いの望みに与るための礼拝・奉仕をするのです。礼拝と奉仕の間には何の分裂もありません。二〇〇〇年の教区新年礼拝にあたり、あらためて、私たちの宣教方針にある「小さな者」という言葉の信仰的な意味を黙想することをお勧めいたします。

( 教区新年礼拝=二〇〇〇年一月八日 聖アンデレ主教座聖堂)

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