日本聖公会
小金井聖公会


☎ 042-381-3256  FAX 042-381-3266   
〒184-0003
小金井市緑町4-13-4
管理牧師 菅原裕治

小金井聖公会へようこそ!

 当教会は80年に達しようとする歴史があります。この地が小金井村と呼ばれていた昭和初期には、婦人伝道師による婦人会が定期的にもたれており、それから10年ほどのあいだに講義所として認可され、月2回の主日礼拝がもたれるようになりました。
 戦後「小金井聖公会」として新たな歩みが始まり、当時まだ小金井町だった1954年に現在地に仮聖堂と牧師館が建てられ、1973年には大斎節に伝道集会を開き、以降恒例になりました。近隣との交わりを目的に、初めてバザーを開いたのもこの年です。そして1987年に、現在の聖堂、会館、牧師館が完成し、今に至ります。
 素朴で暖かい教会です。お気軽にお越し下さい。信徒一同、いつでもお待ちしています。

掲示板の後ろのあじさいです

お知らせ

*6月21日(木)10時半より聖書を学ぶ会があります。
*6月24日礼拝後、クワイヤチャイムの練習があります。チャイムの練習後、教会住所録50冊分のコピーを折りたたみ、ホチキス止め製本を致します。お手すきの方はご協力ください。

*6月17日に練馬聖ガブリエル教会でもたれた西武地区キリスト教会連合研修会の写真を掲載しました。同教会連合は西武線にはさまれた中野・練馬地区の5つのキリスト教会が51年間にわたり教派を超えて活動を続けているグループです。

*6・7月の主日礼拝担当司祭は以下の通りです。
   第1主日  菅原裕治 司祭
   第2主日  み言葉の礼拝
   第3主日  須賀義和 司祭
   第4主日  佐々木庸 司祭
   第5主日(7月)菅原裕治 司祭



 イエス様は、「たとえ」を用いて教えられました。「たとえ」は、何かをわかりやすく説明するために、ほかの事柄に置き換えて語ることです。しかし、置き換えられた事柄が、未知のものであったり、理解が異なったりすると、「たとえ」は、謎となってしまいます。そのため、イエス様は、弟子たちには、さらにわかりやすく説明されたのでしょう。教えることにも、イエス様の愛と優しさが示されていると思います(菅原)



 主なる神様は、エデンの園でアダムを呼ばれます。この呼びかけは、アダムに何もやましいことがなかったときは、喜びに満ちた事柄であったと思います。しかし、アダムにやましい思いができてしまったとき、同じ呼びかけが恐怖に変わってしまいました。神様に変化はありません。愛の呼びかけを恐怖に変えてしまったのは、アダムでした。神様は、今も、イエス様を通して、すべての人(アダム)に愛をもって呼びかけておられます。わたしたちは、神様の呼びかけに喜びをもって、応える存在でありたいと思います。(菅原)



 本日の旧約に、「熱情の神」という表現があります。この部分は、口語訳では、「ねたむ神」、文語訳でも「嫉む神」でした。ほとんどの英語の聖書でも「a jealous God」と訳されています。これは排他的信仰をもとめていると、批判の対象となる場合があります。しかし、もし誰かが、自分は誰からも愛されないと悲しむならば、この言葉は、その人に響くと思います。聖書の神様は、あなたを妬むほど愛しておられると示しているからです。(菅原)




 本日の旧約に、「聖なる土地」という言葉が出てきます。この「聖」という概念は、聖書的に言えば、物質的または場所的現象としての意味ではありません。神様と人との関わり、そこにおける行動の中で明白になる事柄が聖です。本日の個所では、土地自体が聖なのではありません。神様がモーセと出会うから、その場所が聖なのです。それは私たちの小金井聖公会も同じです。(菅原)




 本日は、聖霊降臨日です。いくつかの教会では、野外礼拝を行っていると思います。聖霊降臨日になぜ野外礼拝か。それは風を感じるためです。ギリシア語であれ、ヘブライ語であれ、「霊」は、「風、息」も意味します。聖霊はとらえにくい概念ですが、風を感じることが大切なことは確かです。神の息によって、わたしたち被造物は、みんな生かされている。そう感じるだけで、平和への歩みが始まるように思えるからです。(菅原)



 本日の福音書に「世に属していない」という表現があります。「~から、の中から」という意味の前置詞が用いられており、直訳すれば、「世から(の出身)ではない」となります。イエス様もわたしたちも、肉によればこの世界の出身です。しかし、信仰によって、この世界にあっても、永遠の命を生きる信仰の世界に属するものとなります。そこにまことの喜びと希望があります。イエス様は、わたしたちがその命を生きるために、今も祈ってくださっています。(菅原)


 本日の福音書15章16節に「あなたがたが出かけて行って実を結び」とあります。この「結ぶ」という動詞は、第一の意味は「運ぶ」です。日本語でも樹木が何かの実を付けることを、「恵みを運んでくる」などと表現することと同じ感性かもしれません。わたしたちは、教会に何を運び、教会から何を運ぶのか。教会に運ぶものはさまざまかもしれませんが、わたしたちが教会で神様の愛にとどまっているならば、教会から運ぶものは、愛に他ならないと思います。(菅原)


 イエス様は、弟子に「弁護者」を与えるようにと、神様に祈ります。この「弁護者」という言葉は、「聖霊」を意味するヨハネによる福音書独特の表現です。この言葉は、「そばで」と「呼ぶ人」という要素から構成される言葉です。誰かの「そばで呼ぶ人」です。そのため、その動作の意味する内容は様々です。口語訳では「助け主」と訳されていました。悲しんでいるときは、「慰める人、励ます人」です。イエス様は、いつも聖霊を通して、わたしたちを励まし、慰め、助け、また弁護してくださる方なのです。(菅原)

 「イエス様とは誰か」、その素朴な問いは、昔も今もあります。ヨハネによる福音書は、その問いにイエス様ご自身が答えて下さっています。今日の聖書個所では「わたしは良い羊飼いである」とありますが、それが答えです。ヨハネによる福音書には、そのほかにも答えがあります。いくつも答えがあるのは、おかしいと思う方もいるかもしれませんが、それはすべての人を受け入れようとなさっているイエス様の愛の表れです。(菅原)

◆先週の水曜日は東京教区の教区会がありました。午前中から午後3時までは駆け足教区会でした。午後3時からは主教選出の教区会でしたが、7回投票して終了。選出には至りませんでした。3ヶ月以内の教区会で再度選出する機会がありますが、そこで出来なければ日本聖公会総会での選出となります。良き主教が与えられますように祈りましょう。◆さて、今週の聖書の言葉を覚えましょう。聖週(受難週)の前の福音書はマルコ福音書が朗読されます。今週は朗読劇のスタイルです。イエスの受難の出来事は各福音書にありますが、それぞれ記述の仕方は違っています。それではマルコ福音書の受難の記事を読んで見ましょう。本田哲郎神父訳の順序で中見出しを追うと、「イエス、沈黙をもってピラトの司法権を否定する」「イエス、死刑の宣告を受ける」「イエス、ローマ軍の兵士たちのなぶりものにされる」「イエス、十字架につけられて、なお、あざけりを受ける」「イエス、十字架の上で息をひきとる」。これらの聖書を読むと、すべてのことが終わりに向い、弟子たちにとって大きな敗北の中にあるその時に、今日の福音書は「この人はほんとうに神の子だった」という百人隊長の言葉で終わります。人間的な思いでここを見るとイエスが神の子であるというしるしは何一つ出ていません。権力に押しつぶされ、殺されていった人の姿でしかありません。このイエスの十字架の道行からは神の香りを感じとることは出来ないでしょう。徹底的に打ちのめされて顔をそむけることしかできないイエスの姿です。なぜ百人隊長は「この人はほんとうに神の子だった」と告白が出来たのでしょうか。百人隊長はイエスの活動を知っていたでしょう。どのような教えで、誰を大切に生きたのか。ご自分に降りかかってくる苦難を、弟子たちが逃げ去ろうともご自分の生を全うされようと歩む十字架の道行のイエスの姿に、百人隊長は「神の子」を見たのではないでしょうか。◆今週は聖週でイエスの十字架の道行の只中を祈る時となります。祈りと黙想の日々を通してご復活日を迎えましょう。◆この一年間ありがとうございました。(前田)

◆「もういくつ寝るとお正月」という歌がありますが、あと2週間で「定年」ということになっています。家探しや部屋の整理が緊急の課題なのですが、この数年に集めた資料をどのようにしようかと悩む日々。興味のない人から見ればただの「ゴミ」なのですが、さて、どうしようと思い悩んでいます。◆今週は2回連続の教区会です。主教を選出しなければなりません。困難を乗り越えるために共に歩むことの出来る人は誰なのか。黙想と祈りを持って投票に臨みたいものです。 ◆今週の福音書をいくつかの聖書で読み比べてみますと、なかなか興味深い言葉が出てきます。今日の福音書はイエスが弟子に語った「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」という有名な言葉が出てきます。生物学的には「死ぬ」のではなく、形を変え、新しい命に変容しているのです。これは生物学的な教えというよりは、麦を用いているのは、麦は地の中に落ちて、自分の存在を隠すこと、すなわち一度自分を否定することを意味しているようです。麦でありつづけることを否定するのです。自分の生を断ち切りことなのでしょう。人は自分の生に執着します。ありもしない「不死薬」を追い求めるのです。自分がまず幸せになることを優先します。「○○ファースト」という表現が流行っていますが、まず自分と自分たちという恥ずかしい表現だと思えます。「自分の命」の命はプシュケーという言葉で人間の本能的な命をさしています。それに対して「永遠の命」の「いのち」は生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続け、働き続ける命を指しています。ヨハネ福音書の特徴的な言葉ですので覚えておいてください。イエスもまた生きていたいという心からの思いを断ち切らなければならない状況を前に苦悩する姿が出てきています。しかし、イエスはこの状況を踏まえて一歩前に進んでいくことを読み取っていきたいものです。もうすぐ受難の週です。(前田)

◆今日はクロフツ司祭も前田司祭も小金井、阿佐谷で最後の主日礼拝となります。クロフツ司祭は4月から阿佐谷の牧師です。応援しましょう。 ◆今日、大斎節第4主日はカトリックの日課はニコデモのお話なのですが、聖公会は山上でパンを増やす奇跡の話です。カトリックと聖公会の3年周期日課はかなり共通しているのですが、今週は違っています。◆さて今週の福音書がパンの奇跡です。奇跡の出来事を皆さんはどのように受け止められるでしょうか。奇跡を理解するのはとても難しいのは確かです。自分自身の持っている知識をもっても判断しきれないことがたくさんあるでしょうが、否定も出来ないという微妙なことになっているのではないでしょうか。今日の奇跡は他の福音書でも取り扱われていますが、その内容は微妙に違っています。共観福音書は「人々のあわれな姿」が前面に出てきます。イエスから見て「あわれな」状況にある人たちが描写されています。あわれむという言葉は「人の痛みに共感する」という意味ですからこれはよくわかります。ヨハネ福音書ではイエスは別なねらいがあるようです。イエスはパンが永遠の命を表すものであることを示そうとしますが、人々はイエスの奇跡を見てローマ帝国に代わる国のために王にしようとします。人々は自分たちの思いだけが目の前にあってイエスの思いを受け取ることが出来なかったことを今日の福音書は示しているのでしょう。(前田)

◆思わぬプレゼントで「十字架の道行」の絵が礼拝堂に飾られました。絵のタイトルも付けられて、式文も20部買いました。先週の金曜日から始まりました。どうぞ参加してみてください。大斎中に相応しい礼拝となることでしょう。◆今日の福音書のイエスの行動は驚くべき姿をとります。神殿では両替や様々なな捧げものが売られています。古今東西宗教の門前は似たような姿を取っています。金銭と宗教が結びつくとそこに腐敗の芽が生まれてきます。イエスはそれに対してどのような姿を現したのでしょう。それは神殿に腐敗の芽を育ててはならないということでありました。イエスは徹底的に神に向かうとはどういうことかを弟子たちにも示したということが出来るでしょう。◆十字架への道はイエスの姿勢が現れているのです。教会がイエスの道を歩むことは容易ではありません。高齢化の波の只中にあって、しかも新しいメンバーが増えることも難しい状況でしょう。しかしわたしたちの信仰の中にイエスの思いを胸に刻み一所懸命考えて何が出来るのかを模索することが必要なのではないでしょうか。

◆先々週、野村さんがピエタにパテンの修理に行かれた。その際「十字架の道行」の絵を求める方法を聞いたそうです。そうしたらお願いされている「十字架の道行」の絵を預かってきました。先週の日曜日に教会の皆さんと見て「いいね」ということでピエタを通してお願いした。その残り13の絵が22日に届いた。 今年の大斎で十字架の道行が出来るようになりますが、どうしましょうか。◆今日の福音書でイエスは受難の予告をされます。そうするとペトロはイエスをいさめたのです。それに対してイエスはペトロに「サタン」と言います。そして「自分を捨て、自分の十字架を背負え」と言われます。本田神父訳「自分のことはかえりみず、自分の十字架を背負って」とあります。ペトロのイエス理解はこの地上の勝利者として受け止めていたのです。それに対してイエスは人の子が十字架の 道を歩むことを示しています。意訳すれば自分のことをかえりみないで十字架=神の思いを背負って生きることを示しているのです。

大斎節前主日

◆本日は大斎節前主日。14日大斎始日から復活日に向けて40日の大斎節となります。本日の福音書はイエス様の変容が示されます。ペテロは本日の福音書の前にイエスさまから「あなたたちはわたしを何者だと思うのか」と問われます。ペトロは「あなたはキリストです」と答えました。イエスさまはご自分の受難の予告をされます。するとペトロはイエスさまをいさめます。そのときペトロは「イエスさまから「サタン、引き下がれ。あなたは神のことをおもわず、人間のことを思っている」。本田神父は「サタン(悪霊)、わたしの前から立ち去れ。おまえは、神の思いではなく、人の思いで判断している」です。◆ペトロはイエスが苦しみを受け殺されるなどと考えることが出来なかったのでしょう。ペトロはイエスの最初の弟子です。人々からは権威ある真実を解き明かす人であり、悩み苦しみのある人々を癒す力ある人なのです。「あなたはキリストです」との告白は、いかにペトロがイエスに期待したことでしょうか。しかしイエスから「サタン」と呼ばれてしまいます。それは人間の思いだと言われてしまうのです。◆十字架の道を通して人間を救うことは人間の思いを超えたものでしょう。それを知らせるのが本日のイエスの変容の出来事だったのです。神の輝きに変容する姿は誰も近づくことが出来ない神秘でした。しかしこのイエスは神と等しいことを固辞せず、むしろ奴隷の姿で、苦しむしもべの姿で十字架に死に至るのです。「これにきけ」と天からの声がするのです。わたしたちもまたイエスに聞く者になりたいものです。

顕現後第五主日

◆今日はハンセン氏病啓蒙の日というポスターが掲示されています。マルコ福音書の後半に重い皮膚病の癒しの出来事が記されています。本日の福音書の続きなのです。来週は大斎説前主日なので、本日の持ってきたのでしょう。私は神学院に入学する前に大郷博先生に誘われて沖縄でボランティアに参加しました。まだ沖縄は復帰しておりませんでした。那覇から名護までバスに乗り更に乗り換えて愛楽園まで行きます。とうじは3-4時間かかったように思います。ボランティア活動が始まり、病気についてお医者さん、看護婦さんの講義を聴き、活動が始まりました。「自分には偏見と差別の意識はない」と思っていましたが、やがて地金が出てきました。差し出されたご飯を一緒に食べることが出来なかったのです。しかしそのような私を愛楽園の患者さんたちはずーと見守ってくださいました。「前田さん乗り越えることが出来るから、私たちは待っているから」と支えてくれました。今思うとこの人たちの祈りによって活動することが出来て、支えられてきたのだと思います。かつてはライ病と呼ばれ正しい知識のない私たちによって偏見と差別の中に生きることを強いられたのです。◆イエスさまは病気で苦しんでいる人を憐れみました。人の痛みに共感するということ)そしてどのような病気であれ、手を触れて祈り癒されました。病気から解放されて立ち上がるような力を与えてくださったのです。聖書を読む会で「病気を受け入れて病気と共に生きる力を与えてくださった」との思いが語られました。そうなのかも知れません。私たちは誰しもが弱くなることがあります。私たちはそのようなときに辛い自己対話を繰り返すのですが、そのようなときに神との出会いが待っているのでしょう。

降誕後第4主日、

◆今週の福音書はイエスの教えが「権威ある者としてお教えになった」と書かれています。本田神父は「権威ある者として真実をときあかしたからである」としています。権威とは何でしょうか。英語ではオーソリティー、ラテン語の権威という語ではアウクトリタスで、アウジェーレという動詞から来ているそうです。これは「ふやす、ます、育てていく」という意味だそうです。ギリシャ語はエクスーシアーですが意味は神から来る力は超自然的な知識を伴う。そこで、力と知識の両方がエクスーシアーで表される。だからイエスの教えを聞いた聴衆は、イエスはエクスーシアー〈権威〉を持っているに違いないと結論するのです。語源を辿っていくとその人が生きて、つみかさね、育てて人生の知恵、生命を他の未熟で未完成の魂の中に伝え、与えていくためのものだということが分かります。◆今の時代では自らを「権威者」として語る人が多いかもしれません。自らを権威づけるのはとても危ないような気がします。権威を振りかざすのはいかがなものでしょうか。イエスが宣教の場に立ち始めて誰にも知られず、イエスという人さえ知られていないのに、その教えを聞いた者たちはそこに今までには感じたことのない「権威」を感じとったのでしょう。「真実をときあかす」ことが人々の魂を揺すったに違いありません。私たちもまたみ言葉に触れて魂を揺する体験をしてみたいと思います。

降誕後第3主日

◆本日の福音書「時はみち、神の国はすぐそこに来ている。低みに立って見なおし、福音を信じてあゆみを起こせ」(本田哲郎訳)。福音とはどのように捉えたらよいのか、という問題提起でもあるでしょう。「福音」とはいかなる宗教の枠も超えた、改宗をも条件にしない、救いと解放の知らせです。この福音を受け入れるためには「低みに立って見直す」(メタノイア)ことが求められています。イエスが身をもって示した「低み」に立つ人、その道をあゆもうとするすべてに告げられる救いと解放の知らせなのです。メタノイアとは痛みに視点を向けるように視点を変えることです。人は人の痛み、苦しみを理解することは難しいことです。恐らく相当意識的に共感する姿勢を整えない限りは難しいのではないでしょうか。イエスの生き方を見つめ続け、何を大事にされたかを繰り返し読み取ってそれを実践することでイエスが語られた福音を体験することではないでしょうか。イエスの生き方はこの世を上手に渡って生きる知恵ではありません。むしろ逆の生き方かも知れません。しかしこの福音によって私たちは生きる力が与えられるのです。様々な困難を抱えてもなお立ち上がる力が与えられるのです。(本田哲郎神父の解説書の要約です)

顕現後第1主日

◆今日の福音書は主イエス洗礼の出来事が記されています。本田哲郎神父は「イエス、低みから見直す沈めの式(洗礼)を受けて、荒れ野に立つ」と見出しをつけています。Baptismaは低みから低みへと流れる水の水面下に全身を沈めて「低みから見直させる」民間儀式であり、汚れを洗い流すというようないわゆる浄-不浄とは関係のないことでした。ユダヤでは律法で定められた「供物」を祭司にささげることを通してなされていたのです。本当に貧しい人々は清めの儀式を受けることが出来なかったため「けがれを引きずる者」=「罪人」と見なされたのです。イエスもその一人でした。イエスがヨハネからBaptismaをしてもらうときに「抑圧からの解放にかかわることをみな実行するのは、だいじなことです」と言ったのも、「正義」ということが底辺に視座をおき、人の痛みを共感共有するところから判断し、行動する解放にかかわることであることから、地上でいちばん低いところを流れるヨルダン川に「身を沈める」ことにその象徴を読み取っていたからだと言えそうです。

降誕後第1主日

◆今日は文字通り大晦日が主日のため、誰もがマルタ的忙しさに身を置くようあ状況でしょう。クリスマス礼拝が終わるとちょっときにしながら「よいお年を!」と言って帰る方々がいらっしゃる。それもまた現実でしょう。◆さて、今日はみことばの礼拝ですが、読まれる聖書は日課B年の通りですから福音書はヨハネ福音書の冒頭部分が朗読されます。ヨハネ福音書は、イエス・キリストがことばであったと語ります。わたしたちのまわり・出来事はほとんどのことがことばで成り立っています。心を痛める出来事もことばが中心です。いじめもハラスメントもです。ことばをどのように用いるのかで人は生きることも死に陥ることさえあることを示しています。私たちもまたことばによって生きることを実感しているのではないでしょうか。ことばにわたしたちの中に入り、命を輝かすことになります。◆明日は「主イエス命名の日」の聖餐式をささsげます。どうぞおでかけください。◆よいお年をお迎えください。

年間行事予定(工事中)



ようこそ

お知らせ


牧師のひとこと
 6月17日
 6月10日
 6月3日
 5月27日
 5月20日
 5月13日
 5月6日
 4月29日
 4月22日


牧師のコーナー
 3月25日
 3月18日
 3月11日
 3月4日
 2月25日
 2月11日
 2月4日
 1月28日
 1月21日
 1月7日
 12月31日

年間行事予定














小金井聖公会(Koganei Anglican-Episcopal Church)はキリスト教の教会です。

▲ ページの先頭へ