小金井聖公会へようこそ!
当教会は80年に達しようとする歴史があります。この地が小金井村と呼ばれていた昭和初期には、婦人伝道師による婦人会が定期的にもたれており、それから10年ほどのあいだに講義所として認可され、月2回の主日礼拝がもたれるようになりました。
戦後「小金井聖公会」として新たな歩みが始まり、当時まだ小金井町だった1954年に現在地に仮聖堂と牧師館が建てられ、1973年には大斎節に伝道集会を開き、以降恒例になりました。近隣との交わりを目的に、初めてバザーを開いたのもこの年です。そして1987年に、現在の聖堂、会館、牧師館が完成し、今に至ります。
素朴で暖かい教会です。お気軽にお越し下さい。信徒一同、いつでもお待ちしています。
2019年 大斎節プログラム |
3月10日 |
講話(証し)「漂いながらも」 |
倉敷 信 兄 |
3月17日 |
講話「アヴェ・ヴェルム・コルプス~万人の祈り~」 |
萬 由美 姉 |
3月24日 |
講話「チーム・ミニストリーの実践と必要性~英国実習の体験から~」 |
中村 真希 聖職候補生 |
3月31日 |
講話「召命について」 |
菅原 裕治 司祭 |
4月7日 |
講話「主のいのり」 |
倉澤 一太郎 司祭 |
★2019年の大斎節のプログラムを「ようこそ」に追加しました。(2019/2/17)
★新年鍋パーティーの動画を「写真集」に追加しました。(2019/1/27)
お知らせ
*マルコ野田昭次司祭の葬送・告別式は2月14日聖マーガレット教会で行われました。
*2月15日(金)倉澤一太郎司祭が牧師館に入居されました。
*棕櫚の十字架の回収箱を会館に用意します。3月3日までにお持ちください。
*2月21日(木)10時半から聖書を学ぶ会があります。
*東京教区第133(定期)教区会 決議録(2018年11月17日開催教区会)が届いています。2019年の教区の活動計画が示されております。
*日本聖公会 正義と平和委員会から「戦争証言集」(冊子)が届いています。数冊あります。回し読みしてください。
本日の使徒書は、コリントの教会の人々に対する、キリストの復活についての教えの後半です。説明の中でパウロは、アダムとキリストを対比させています。そして、死と滅びにいたる生き方と、キリストを復活の初穂とすることによって、復活によって死を克服した生き方を対比させ、コリントの人々に後者を選択するようにと勧めているのです。復活を信じることとは、荒唐無稽の何かをただ信じることでも、自己の究極的願望の成就を望むことでもなく、よりよい生を歩むことに他ならないのです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花(2月17日)
本日の福音書に「あなたは人間をとる漁師になる」というペトロに対するイエス様の言葉があります。「人間をとる漁師」を直訳すると、「人間を生け捕る者」となります。この「生け捕る」という動詞は、新約全体でここのほかは2テモテ2:26の「生け捕りにされて」にしか用いられていません。マルコ1:17の「人間をとる漁師(直訳:人間の漁師)」とも異なります。ルカの著者は、マルコにある「人間の漁師」という少し衝撃が強すぎる部分を、使徒として宣教活動に従事するという意味が伝わるように、表現を変えたのだと思います。とはいうものの、それでも初めて聞いた人は驚く表現です。一番驚いたのは、ペトロ本人かもしれません。(菅原)
長崎聖三一教会:み言葉の礼拝での高校生による勧話(2月10日)
本日の使徒書でパウロは、「霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」と語ります。聖書日課としては冒頭にありますが、手紙全体のつながりでは、14章1節~12節のまとめの部分です。パウロは、各個人に神様が与えられる霊的賜物の重要性を認めながら、教会を造り上げるために、それを用いることを勧めています。その勧めの重要性は、現代の教会でも同じです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花(2月3日)
本日の福音書に「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた」とあります。この中の「巻物」は、ビブリオンという言葉です。「聖書」を意味するバイブルの語源であるビブロスと同じ語根の言葉です。このビブロスは、レバノンにある港町のことで、そこから良質なパピルス素材が輸出されたから、物自体がこの名前となったと言われています。今もグーグルマップでレバノンの北北東約20キロにその地名があります。(菅原)
(1月27日)
本日の使徒書に「イエスは神から見捨てられよ」という文言があります。肯定的な意味では「奉納物、神への供え物」(ルカ21:5)、否定的な意味では、「呪い、神から見捨てられている」を示す言葉が用いられています(ロマ9:3、ガラ1:18)。新しい訳では、「イエスは呪われよ」となっています。このような表現は、誰かが語っていたというよりも、背景に回心する前のパウロの記憶が、あるのかもしれません。(菅原)
(1月20日)
本日の使徒書に、「油を注ぐ」という動詞が出てきます。これは、ヘブライ語の「油を塗る、メシアにする」という言葉を、ギリシア語に訳した言葉で、キリストと同じ語幹の言葉です。この言葉は、また「手」という言葉と語幹が同じとも考えられます。その意味では、「注ぐ」のではなく、「手で塗る」という意味になります。手で油を塗られた人が救い主とは、文化的な相違性と類似性を同時に感じる不思議さがあります。(菅原)
(1月13日)
本日の福音書に「占星術の学者たち」という言葉があります。新しい訳では「東方の博士たち」、口語訳では「東からきた博士たち」、文語訳では「東の博士たち」です。訳が異なるのは、もともとの言葉が「学者、博士、魔術師」などいろいろな意味を持ち、「東から」と出発点が書かれているからです。「占星術の学者たち」は、意訳し過ぎであったかもしれませんが、彼らが当初、星を導き手としていたことは確かです。(菅原)
(1月6日)
本日の使徒書に「養育係」という言葉があります。新しい「聖書協会共同訳」でも「養育係」です。口語訳では「養育掛」、文語訳では「守役」でした。原語は、パイダゴーゴスという言葉ですが、この言葉は教育学を学んだ方でしたら、一度は耳にしたことのある言葉と思います。一般的には「教僕」とも訳されます。古代ギリシアのポリス、アテナイなどで、子どもの教育にあたる奴隷のことです。(菅原)
(12月30日)
本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」10章9節に、「第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです」とあり、キリストが律法の廃止を語ったとしています。これは、マタイ福音書にある、イエス様の言葉、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5:17)と矛盾すると言えます。大切なのはどちらが真理か、ということではなく、これらの個所から何を見出すかということです。(菅原)
アドベントキャンドル(12月23日)
本日の使徒書、フィリピの信徒へ手紙4章4節に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」とあります。この中の「喜ぶ」という言葉は、4章しかない短い手紙の中で、9回も用いられています。この手紙が「喜びの手紙」と言われる所以です。この言葉はまた、聖書時代のギリシア語では、あいさつの言葉に用いられます。今の時期にかかわる個所は、天使ガブリエルがマリアに告げる「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」の「おめでとう」です。(菅原)
アドベントキャンドル(12月16日)
本日の旧約はバルク書ですが、その3章38節に次のような言葉があります。「その後、知恵は地上に現れ、人々の間に住んだ」。イエス様を連想してしまう言葉ですが、もちろんバルク書では異なります。それは、地上の誰かではなく、律法に他なりません。つまり、律法を熱心に学び、実行し、主なる神様の慈しみと義、すなわち愛に応える、それがイスラエルの歴史に足りなかった。そう語っているのです。わたしたちが主なる神様に応える方法は、イエス様を通した信仰です。(菅原)
アドベントキャンドル(12月9日)
本日の使徒書は、「テサロニケの信徒への手紙一」です。この手紙は、パウロの手紙の中でもっとも古い文書です。新約聖書全二七文書の中で、ひとつの文書としては、もっとも古いものといえるかもしれません。パウロは、49年の第二回伝道旅行の際に、シルワノとテモテと共に、ピリピからテサロニケにきて、教会を建てました。再度訪れることを願いつつ、それが実現しないために、教会の人々へ思いを寄せて書いたのがこの手紙です。新約聖書の最初の文書も、相手を大切に思う愛に満ちた文書なのです。(菅原)
長崎聖三一教会の礼拝堂のアドベントキャンドル(12月2日)
子ろばに乗ったイエス様のエルサレムに入城は、他の王とは全く違う王であることを示します。ただし、ろばに乗る王の描写は、ゼカリヤ書9章9節に次のようにあります。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」イエス様は、旧約が示す待望された平和の王なのです。(菅原)
長崎聖三一教会の礼拝堂の献花(11月18日)
本日のマルコ福音書13章14節に、「読者は悟れ」という表現があります。これは、福音書の実際の著者が、語り手や登場人物を通してではなく、物語世界という枠を超えて、直接読者に語りかける手法です。理由は、強調したい事柄があるからです。強調したいこと、それは、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことです。これが歴史的に何であるかを特定するのは、困難ですし、あまり重要ではないかもしれません。むしろ、それぞれの時代の読者が、自分の住む世界で何が起きているのか、しっかりと理解することの大切さ、そのことへの警告と言えると思います。(菅原)
長崎聖三一教会の礼拝堂の献花(11月18日)
本日の旧約日課は、エリアがサレプタの未亡人のところに身を寄せ、そこで「尽きることのない壺の粉と瓶の油」の奇跡を行った物語です。この物語が基となって、イエス様のパンと魚による五千人の食事の物語が、成立したといわれることがあります。しかし、ここでは明らかに、粉と油が増えた物語として読めますが、イエス様の物語は、そうはっきりと書かれてはません。そして、イエス様の物語は、増える奇跡ではなく、食物を分け合うことの大切さを示していると思います。(菅原)
長崎聖三一教会の礼拝堂の献花(11月11日)
本日の福音書は、新共同訳で「最も重要な掟」と小見出しがついている通り、イエス様の最も大切な教えを示しています。それを示したのは、イエス様と敵対している律法学者たちの中の一人でした。彼は、「あらゆる掟のうちで、何が第一でしょうか」という問いに対する、イエス様のごく一般的な答えを敷衍して、イエス様の本来の答えを引き出したのでした。イエス様は、「あなたは神の国から遠くない」と彼を誉めます。マルコ福音書という物語は、そのように語りの技巧を凝らして、イエス様の大切な教えを読者に示そうとしているのです。(菅原)
長崎聖三一教会の礼拝堂の献花(11月4日)
本日の福音書は、盲人バルティマイの物語です。彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びます。この「憐れんでください」が、聖餐式の中にあるキリエ・エレイソンの基となる言葉です。彼の叫びが今もわたしたちの礼拝の中に生きているのです。そしてもう一つ大切なことは、イエス様が「何をして欲しいのか」と、彼にたずねたことです。その姿に示されているのは、一人ひとりを大切にして下さる神様の愛です。(菅原)
長崎聖三一教会の礼拝堂の献花(10月28日)
本日の旧約日課は、イザヤ書には、「主の僕」の歌と呼ばれる部分が四つあります(42:1-4、49:1-6、50:4-9、52:13-53:12)。本日の個所はその一つです。この「主の僕」がどれかという問いに対して、キリスト教の立場では、すぐにイエス・キリストを連想しますが、ユダヤ教の伝統的理解では、集団としてのイスラエルと理解します。しかし、大切なことは、「主の僕」が誰であるかではなく、主なる神様が、主の僕の苦しみを通して、その愛と恵みを示そうとしているということであると思います。「主の僕」の歌は、そのことを、時を超えて今も示しているのです。(菅原)
長崎聖三一教会の礼拝堂の献花(10月21日)
使徒書「ヘブライ人への手紙」3章1節から6節では、イエス・キリストが、モーセと比較されています。ヘブル書は、イエス様の業と姿とを見て、旧約のどの時代の人物とも違うことを認識し、その背後にある主なる神様の業・働きを明確にしています。そこから、イエス様が救い主であるという確信と希望を持ち続ける限り、自分たちは神の家なのだという信仰を堅く持っているのです。そして聖書日課に続く個所ですが、13節にある通り、時空を超えて「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」。(菅原)
礼拝堂の献花(10月14日)
本日から使徒書が、ヘブライ人への手紙となりました。ヘブライ人への手紙は、「大祭司キリスト論」が有名ですが、冒頭では、天使(御使い)とイエス様が比較されています。天使は、旧約においても新約においても神様と人間との仲介的役割を持っています。しかし天使はあくまで仲介者に過ぎず、肉体をとり罪の清めの業を成就した、イエス様とは異なります。そのことがまず主張されています。天使は一時的ですが、御子は不変なのです。そこから「大祭司キリスト論」へと展開します。(菅原)
礼拝堂の献花(10月7日)
マルコによる福音書には、「弟子の無理解」というモチーフがあります。弟子たちを反面教師として、読者が大切なことを学ぶという手法です。本日の個所で、弟子の代表の一人であるヨハネは、「先生、お名前を使って悪魔を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」とイエス様に語ります。大切なことは、「わたしたち(弟子たち)に従うことではありません。悪霊によって苦しむ人を救うことです。弟子たちはそのことを理解できませんでした。しかし、それを理解しない以上に気を付けなければならないことは、「わたしたち」にイエス様を含め、自分たちの願望をイエス様に投影して、他者に服従を求めることです。(菅原)
礼拝堂の献花(9月30日)
本日の旧約日課は、「知恵の書」です。この文書は、旧約聖書と新約聖書の中間時代に、ギリシア語で書かれたユダヤ教の文献です。七〇人訳というギリシア語訳の旧約聖書には含まれていましたが、一世紀末にユダヤ教が正典を定めた時に、ヘブライ語の文書のみを正典とするという基準によって、正典から外されました。しかし、キリスト教会では、それ以降も聖書の一つとして保持してきました。プロテスタント教会は、これら旧約外典を正典から外しましたが、聖公会は『アポクリファ:旧約聖書外典)』という名称で用いていました。ただし、「知恵の書」は、「ソロモンの知恵」という名称でした。(菅原)
礼拝堂の献花(9月23日)
マルコ福音書の登場人物としての弟子たちの役割は、反面教師です。イエス様のそばにいながら、イエス様のことを理解できなくなり、失敗していく姿が、読者に示唆を与えるからです。本日の8章32節、33節は、その典型例です。弟子の代表ペトロは、十字架の予告をしたイエス様を「いさめ」、イエス様はそのペトロを「叱り」ます。「いさめる」「叱る」と訳語は異なりますが、原語は同じです。物語は、二人に同じ動詞を用いることによって、両者の方向性の違いを明確にしていると言えます。ペトロは、人間の地平でイエス様を見ようとし、イエス様は神の意志を実現しようとしているからです。(菅原)
礼拝堂の献花(9月16日)
本日の使徒書「ヤコブの手紙」に「御言葉を行う人になりなさい」とあります。ヤコブの手紙は、全体として、聖書の言葉・広い意味でイエス様の教えを、行うことを強調しています。このことは、パウロの書簡、特にロマ書やガラテヤ書にある「信仰義認」の概念と矛盾すると言われることがあります。しかし、そうではありません。聖書全体が示していることは、イエス様を通して主なる神様を信じて、義とされることの大切さと、イエス様のみ跡に従って、その教えをそれぞれの形で具体化することの両方だからです。(菅原)
礼拝堂の献花(9月9日)
本日の使徒書にある「神の武具」の武具は、文字通りに訳せば「完全装備」です。「武器・武具」という言葉と「すべて、あらゆる」という言葉から構成されている単語だからです。当時の完全装備とは、兜、鎧、盾、剣または槍ということになるかと思います。完全装備で戦うとは、穏やかではありませんが、戦う相手が、悪魔だからです。これぐらいで大丈夫だろう、そう思った時点て、悪魔にそそのかされているということでしょう。(菅原)
礼拝堂の献花(9月2日)
ヨシュアは、「主は救い」という意味の名前です。本当の名前は、ヌンの子ホセアですが、モーセがヨシュアと名付けました(民数記13:16)。自分の後継者としたからです。モーセは、約束の地カナン目前にして120歳で亡くなり、ヨシュアが、カナン侵入を指揮します。そのヨシュアも110歳で亡くなりますが、その前に、シケムという場所でイスラエルの民に、主なる神様との契約を示します(ヨシュア22-24章)。本日の旧約日課は、その部分です。このヨシュア(イェホシュア・短縮形イェシュ)という名前のギリシア語表記がイエ―スースです。日本語で、わたしたちのイエス様のイエスという名前です。(菅原)
礼拝堂の献花(8月26日)
本日の使徒書に「詩編と賛歌と霊的な歌」とあります。「詩編」は、旧約の詩編です。詩編は歌うことが前提です。「賛歌」は、「賛美する、ほめたたえる」という動詞の名詞で、「聖歌、賛美歌」の語源です。「霊的な歌」ですが、この「歌」は、ギリシア語では、一般的な歌を意味します。「霊的」とは、即興的に歌うことを意味していると思います。初代教会の礼拝は、ユダヤ教の伝統を引き継いだ聖書に基づく歌、集まった人々が共に声を合わせる歌、そしてその場で感じたことを自由に歌う歌、それらが含まれていたことが分かります。これらは歌にとどまらず、教会が何によって成り立つかを示していると思います。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です(8月19日)
本日の福音書に「終わりの日」という言葉があります。この言葉は、この世の終末の日のことですが、すべての信仰者の救いの完成を意味します。その日に、信仰者の復活があり、永遠の命を歩み始めるからです。旧約には、永遠の命という直接的表現はありませんが、「終わりの日」という言葉はあります。ことに、イザヤ書に2章2-4節、ミカ書の4章1-3節は、まったく同じ文言であり、そこにあるのは、主なる神様の支配始まり、完全な平和の出現です。私たちがイエス様を通して、永遠の命を求めることは、この世界にまことの平和が訪れることを求めることと同じなのです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です(8月12日)
本日の旧約日課にあるパンは、31節で「マナ」と名付けられます。「マナ」はヘブライ語では、「マーン」です。それは、15節の「これは一体なんだろう?」(直訳:「何これ?」)のヘブライ語(マーン フー)に由来すると思われます。この言葉がギリシア語に訳された時、「マンナ」と表記され、日本語訳の「マナ」へとつながります。「マナ」は今でも正確に何であるかわかりません。しかし、大切なのは、何であるか知ることではなく、「何これ」と人間の理解を超えて、人間を養って下さる神様の愛を知ることです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です(8月5日)
本日の旧約日課に登場するエリヤは、紀元前9世紀ごろに北イスラエルで活動した預言者です。彼は、政治的不正と宗教的堕落が横行するイスラエル王国において、王やバール宗教の預言者たちと対決しました。またエリヤは、「見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った」とある通り、天に上げられ、死んだとは記されていません。またマラキ書に「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(3:23)という言葉もあり、終末時にエリヤが到来するという期待もありました。イエス様がエリヤに間違われたり、十字架の際に、「エリヤを呼んでいる」と言われたりしたのはこのためです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です(7月29日)
本日の福音書に「深く憐れむ」という言葉があります。1:41、8:2、9:22でも用いられています。キリエ・エレイソンのもととなった「憐れむ」(5:19、10:47、48)とは異なり、「内臓が裂ける」という現象の表現から、苦しんでいる相手の苦しみを、自分の苦しみとして憐れむことを意味する言葉です。英語は、” compassion”という言葉を用いて訳すのが一般的ですが、日本語では、「深く憐れむ」と訳すしかなく、理解するにはつねに注釈が必要です。ただしそれは悪いことではありません。福音書の物語は、イエス様が、他者の苦しみを自分のこととして共に苦しんでくださる方、そのような方だと描いている、いつもそのことを忘れないようになるからです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です(7月22日)
本日の旧約日課の預言者アモスは、北イスラエル王国ヤラベアム2世の時代に活躍した、社会正義を訴える預言者です。当時は経済的発展と同時に、貧富の差、政治腐敗が激しい時代でした。本日の個所に「下げ振り」とあります。重りをつけてつり下げ、建物などの傾きを明示する道具です。旧約全体で用例はここだけですが、非常に象徴的な言葉です。主なる神様は、北イスラエルの不正義と腐敗を、具体的な出来事を通して明示し、そのままにしておかないと語っているのです。主なる神様のこの「下げ振り」は、社会に不正義がある限り、いつの時代にも響く言葉だと思います。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です
本日の使徒書に「第三の天」という表現があります。旧新共に聖書は総体として「天」を示す場合、複数形ですが、第何番目という表現はここのみです。この表現は、紀元後のユダヤ教やイスラム教の七層の天という詳細な区分とは異なりますが、そこが神様の領域であることを示しています。パウロはそこに上げられたと認識しているのですが、そのことを誇りません。パウロが誇るのは、天上の素晴らしい体験ではなく、イエス様と同じ地上の弱さに他ならないからです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です
本日の旧約日課、申命記は、同胞の貧しい人への配慮について、教えている律法の部分です。「その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい」という言葉、また7年目の負債の免除を語るこの個所は、神の民の中では、貧富の差があってはならないことを意味しています。この主なる神様の教えから、二千年以上超えた現代でも、貧富の差をなくすという目標は達成されていません。しかし、主なる神様は、今も、そのことを望んでおられるのです。(菅原)
長崎聖三一教会礼拝堂の献花です
本日の福音書の[ ]にある部分に、汚れた霊(レギオン)に取りつかれたゲラサ人の癒しの物語があります。この物語には、溺れ死ぬ二千匹が登場します。なぜ、二千匹の豚か。歴史的には、ユダヤ戦争に参加したローマ第10軍団(レギオン)のシンボル「猪」への皮肉とも考えられます。しかし、物語としては、汚れた霊に取りつかれた人の苦しみが、豚二千匹分の費用に匹敵すると語っていると思えます。周囲の人々は、失った豚を惜しみましたが、イエス様はその人をそれだけの苦しみから解放したのでした。(菅原)
イエス様は、「たとえ」を用いて教えられました。「たとえ」は、何かをわかりやすく説明するために、ほかの事柄に置き換えて語ることです。しかし、置き換えられた事柄が、未知のものであったり、理解が異なったりすると、「たとえ」は、謎となってしまいます。そのため、イエス様は、弟子たちには、さらにわかりやすく説明されたのでしょう。教えることにも、イエス様の愛と優しさが示されていると思います。(菅原)
主なる神様は、エデンの園でアダムを呼ばれます。この呼びかけは、アダムに何もやましいことがなかったときは、喜びに満ちた事柄であったと思います。しかし、アダムにやましい思いができてしまったとき、同じ呼びかけが恐怖に変わってしまいました。神様に変化はありません。愛の呼びかけを恐怖に変えてしまったのは、アダムでした。神様は、今も、イエス様を通して、すべての人(アダム)に愛をもって呼びかけておられます。わたしたちは、神様の呼びかけに喜びをもって、応える存在でありたいと思います。(菅原)
本日の旧約に、「熱情の神」という表現があります。この部分は、口語訳では、「ねたむ神」、文語訳でも「嫉む神」でした。ほとんどの英語の聖書でも「a jealous God」と訳されています。これは排他的信仰をもとめていると、批判の対象となる場合があります。しかし、もし誰かが、自分は誰からも愛されないと悲しむならば、この言葉は、その人に響くと思います。聖書の神様は、あなたを妬むほど愛しておられると示しているからです。(菅原)
本日の旧約に、「聖なる土地」という言葉が出てきます。この「聖」という概念は、聖書的に言えば、物質的または場所的現象としての意味ではありません。神様と人との関わり、そこにおける行動の中で明白になる事柄が聖です。本日の個所では、土地自体が聖なのではありません。神様がモーセと出会うから、その場所が聖なのです。それは私たちの小金井聖公会も同じです。(菅原)
本日は、聖霊降臨日です。いくつかの教会では、野外礼拝を行っていると思います。聖霊降臨日になぜ野外礼拝か。それは風を感じるためです。ギリシア語であれ、ヘブライ語であれ、「霊」は、「風、息」も意味します。聖霊はとらえにくい概念ですが、風を感じることが大切なことは確かです。神の息によって、わたしたち被造物は、みんな生かされている。そう感じるだけで、平和への歩みが始まるように思えるからです。(菅原)
本日の福音書に「世に属していない」という表現があります。「~から、の中から」という意味の前置詞が用いられており、直訳すれば、「世から(の出身)ではない」となります。イエス様もわたしたちも、肉によればこの世界の出身です。しかし、信仰によって、この世界にあっても、永遠の命を生きる信仰の世界に属するものとなります。そこにまことの喜びと希望があります。イエス様は、わたしたちがその命を生きるために、今も祈ってくださっています。(菅原)
本日の福音書15章16節に「あなたがたが出かけて行って実を結び」とあります。この「結ぶ」という動詞は、第一の意味は「運ぶ」です。日本語でも樹木が何かの実を付けることを、「恵みを運んでくる」などと表現することと同じ感性かもしれません。わたしたちは、教会に何を運び、教会から何を運ぶのか。教会に運ぶものはさまざまかもしれませんが、わたしたちが教会で神様の愛にとどまっているならば、教会から運ぶものは、愛に他ならないと思います。(菅原)
イエス様は、弟子に「弁護者」を与えるようにと、神様に祈ります。この「弁護者」という言葉は、「聖霊」を意味するヨハネによる福音書独特の表現です。この言葉は、「そばで」と「呼ぶ人」という要素から構成される言葉です。誰かの「そばで呼ぶ人」です。そのため、その動作の意味する内容は様々です。口語訳では「助け主」と訳されていました。悲しんでいるときは、「慰める人、励ます人」です。イエス様は、いつも聖霊を通して、わたしたちを励まし、慰め、助け、また弁護してくださる方なのです。(菅原)
「イエス様とは誰か」、その素朴な問いは、昔も今もあります。ヨハネによる福音書は、その問いにイエス様ご自身が答えて下さっています。今日の聖書個所では「わたしは良い羊飼いである」とありますが、それが答えです。ヨハネによる福音書には、そのほかにも答えがあります。いくつも答えがあるのは、おかしいと思う方もいるかもしれませんが、それはすべての人を受け入れようとなさっているイエス様の愛の表れです。(菅原)
◆先週の水曜日は東京教区の教区会がありました。午前中から午後3時までは駆け足教区会でした。午後3時からは主教選出の教区会でしたが、7回投票して終了。選出には至りませんでした。3ヶ月以内の教区会で再度選出する機会がありますが、そこで出来なければ日本聖公会総会での選出となります。良き主教が与えられますように祈りましょう。◆さて、今週の聖書の言葉を覚えましょう。聖週(受難週)の前の福音書はマルコ福音書が朗読されます。今週は朗読劇のスタイルです。イエスの受難の出来事は各福音書にありますが、それぞれ記述の仕方は違っています。それではマルコ福音書の受難の記事を読んで見ましょう。本田哲郎神父訳の順序で中見出しを追うと、「イエス、沈黙をもってピラトの司法権を否定する」「イエス、死刑の宣告を受ける」「イエス、ローマ軍の兵士たちのなぶりものにされる」「イエス、十字架につけられて、なお、あざけりを受ける」「イエス、十字架の上で息をひきとる」。これらの聖書を読むと、すべてのことが終わりに向い、弟子たちにとって大きな敗北の中にあるその時に、今日の福音書は「この人はほんとうに神の子だった」という百人隊長の言葉で終わります。人間的な思いでここを見るとイエスが神の子であるというしるしは何一つ出ていません。権力に押しつぶされ、殺されていった人の姿でしかありません。このイエスの十字架の道行からは神の香りを感じとることは出来ないでしょう。徹底的に打ちのめされて顔をそむけることしかできないイエスの姿です。なぜ百人隊長は「この人はほんとうに神の子だった」と告白が出来たのでしょうか。百人隊長はイエスの活動を知っていたでしょう。どのような教えで、誰を大切に生きたのか。ご自分に降りかかってくる苦難を、弟子たちが逃げ去ろうともご自分の生を全うされようと歩む十字架の道行のイエスの姿に、百人隊長は「神の子」を見たのではないでしょうか。◆今週は聖週でイエスの十字架の道行の只中を祈る時となります。祈りと黙想の日々を通してご復活日を迎えましょう。◆この一年間ありがとうございました。(前田)
◆「もういくつ寝るとお正月」という歌がありますが、あと2週間で「定年」ということになっています。家探しや部屋の整理が緊急の課題なのですが、この数年に集めた資料をどのようにしようかと悩む日々。興味のない人から見ればただの「ゴミ」なのですが、さて、どうしようと思い悩んでいます。◆今週は2回連続の教区会です。主教を選出しなければなりません。困難を乗り越えるために共に歩むことの出来る人は誰なのか。黙想と祈りを持って投票に臨みたいものです。
◆今週の福音書をいくつかの聖書で読み比べてみますと、なかなか興味深い言葉が出てきます。今日の福音書はイエスが弟子に語った「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」という有名な言葉が出てきます。生物学的には「死ぬ」のではなく、形を変え、新しい命に変容しているのです。これは生物学的な教えというよりは、麦を用いているのは、麦は地の中に落ちて、自分の存在を隠すこと、すなわち一度自分を否定することを意味しているようです。麦でありつづけることを否定するのです。自分の生を断ち切りことなのでしょう。人は自分の生に執着します。ありもしない「不死薬」を追い求めるのです。自分がまず幸せになることを優先します。「○○ファースト」という表現が流行っていますが、まず自分と自分たちという恥ずかしい表現だと思えます。「自分の命」の命はプシュケーという言葉で人間の本能的な命をさしています。それに対して「永遠の命」の「いのち」は生物学的な命が終わっても、決して消え去ることなく輝き続け、働き続ける命を指しています。ヨハネ福音書の特徴的な言葉ですので覚えておいてください。イエスもまた生きていたいという心からの思いを断ち切らなければならない状況を前に苦悩する姿が出てきています。しかし、イエスはこの状況を踏まえて一歩前に進んでいくことを読み取っていきたいものです。もうすぐ受難の週です。(前田)
◆今日はクロフツ司祭も前田司祭も小金井、阿佐谷で最後の主日礼拝となります。クロフツ司祭は4月から阿佐谷の牧師です。応援しましょう。
◆今日、大斎節第4主日はカトリックの日課はニコデモのお話なのですが、聖公会は山上でパンを増やす奇跡の話です。カトリックと聖公会の3年周期日課はかなり共通しているのですが、今週は違っています。◆さて今週の福音書がパンの奇跡です。奇跡の出来事を皆さんはどのように受け止められるでしょうか。奇跡を理解するのはとても難しいのは確かです。自分自身の持っている知識をもっても判断しきれないことがたくさんあるでしょうが、否定も出来ないという微妙なことになっているのではないでしょうか。今日の奇跡は他の福音書でも取り扱われていますが、その内容は微妙に違っています。共観福音書は「人々のあわれな姿」が前面に出てきます。イエスから見て「あわれな」状況にある人たちが描写されています。あわれむという言葉は「人の痛みに共感する」という意味ですからこれはよくわかります。ヨハネ福音書ではイエスは別なねらいがあるようです。イエスはパンが永遠の命を表すものであることを示そうとしますが、人々はイエスの奇跡を見てローマ帝国に代わる国のために王にしようとします。人々は自分たちの思いだけが目の前にあってイエスの思いを受け取ることが出来なかったことを今日の福音書は示しているのでしょう。(前田)
◆思わぬプレゼントで「十字架の道行」の絵が礼拝堂に飾られました。絵のタイトルも付けられて、式文も20部買いました。先週の金曜日から始まりました。どうぞ参加してみてください。大斎中に相応しい礼拝となることでしょう。◆今日の福音書のイエスの行動は驚くべき姿をとります。神殿では両替や様々なな捧げものが売られています。古今東西宗教の門前は似たような姿を取っています。金銭と宗教が結びつくとそこに腐敗の芽が生まれてきます。イエスはそれに対してどのような姿を現したのでしょう。それは神殿に腐敗の芽を育ててはならないということでありました。イエスは徹底的に神に向かうとはどういうことかを弟子たちにも示したということが出来るでしょう。◆十字架への道はイエスの姿勢が現れているのです。教会がイエスの道を歩むことは容易ではありません。高齢化の波の只中にあって、しかも新しいメンバーが増えることも難しい状況でしょう。しかしわたしたちの信仰の中にイエスの思いを胸に刻み一所懸命考えて何が出来るのかを模索することが必要なのではないでしょうか。
◆先々週、野村さんがピエタにパテンの修理に行かれた。その際「十字架の道行」の絵を求める方法を聞いたそうです。そうしたらお願いされている「十字架の道行」の絵を預かってきました。先週の日曜日に教会の皆さんと見て「いいね」ということでピエタを通してお願いした。その残り13の絵が22日に届いた。
今年の大斎で十字架の道行が出来るようになりますが、どうしましょうか。◆今日の福音書でイエスは受難の予告をされます。そうするとペトロはイエスをいさめたのです。それに対してイエスはペトロに「サタン」と言います。そして「自分を捨て、自分の十字架を背負え」と言われます。本田神父訳「自分のことはかえりみず、自分の十字架を背負って」とあります。ペトロのイエス理解はこの地上の勝利者として受け止めていたのです。それに対してイエスは人の子が十字架の
道を歩むことを示しています。意訳すれば自分のことをかえりみないで十字架=神の思いを背負って生きることを示しているのです。
大斎節前主日
◆本日は大斎節前主日。14日大斎始日から復活日に向けて40日の大斎節となります。本日の福音書はイエス様の変容が示されます。ペテロは本日の福音書の前にイエスさまから「あなたたちはわたしを何者だと思うのか」と問われます。ペトロは「あなたはキリストです」と答えました。イエスさまはご自分の受難の予告をされます。するとペトロはイエスさまをいさめます。そのときペトロは「イエスさまから「サタン、引き下がれ。あなたは神のことをおもわず、人間のことを思っている」。本田神父は「サタン(悪霊)、わたしの前から立ち去れ。おまえは、神の思いではなく、人の思いで判断している」です。◆ペトロはイエスが苦しみを受け殺されるなどと考えることが出来なかったのでしょう。ペトロはイエスの最初の弟子です。人々からは権威ある真実を解き明かす人であり、悩み苦しみのある人々を癒す力ある人なのです。「あなたはキリストです」との告白は、いかにペトロがイエスに期待したことでしょうか。しかしイエスから「サタン」と呼ばれてしまいます。それは人間の思いだと言われてしまうのです。◆十字架の道を通して人間を救うことは人間の思いを超えたものでしょう。それを知らせるのが本日のイエスの変容の出来事だったのです。神の輝きに変容する姿は誰も近づくことが出来ない神秘でした。しかしこのイエスは神と等しいことを固辞せず、むしろ奴隷の姿で、苦しむしもべの姿で十字架に死に至るのです。「これにきけ」と天からの声がするのです。わたしたちもまたイエスに聞く者になりたいものです。
顕現後第五主日
◆今日はハンセン氏病啓蒙の日というポスターが掲示されています。マルコ福音書の後半に重い皮膚病の癒しの出来事が記されています。本日の福音書の続きなのです。来週は大斎説前主日なので、本日の持ってきたのでしょう。私は神学院に入学する前に大郷博先生に誘われて沖縄でボランティアに参加しました。まだ沖縄は復帰しておりませんでした。那覇から名護までバスに乗り更に乗り換えて愛楽園まで行きます。とうじは3-4時間かかったように思います。ボランティア活動が始まり、病気についてお医者さん、看護婦さんの講義を聴き、活動が始まりました。「自分には偏見と差別の意識はない」と思っていましたが、やがて地金が出てきました。差し出されたご飯を一緒に食べることが出来なかったのです。しかしそのような私を愛楽園の患者さんたちはずーと見守ってくださいました。「前田さん乗り越えることが出来るから、私たちは待っているから」と支えてくれました。今思うとこの人たちの祈りによって活動することが出来て、支えられてきたのだと思います。かつてはライ病と呼ばれ正しい知識のない私たちによって偏見と差別の中に生きることを強いられたのです。◆イエスさまは病気で苦しんでいる人を憐れみました。人の痛みに共感するということ)そしてどのような病気であれ、手を触れて祈り癒されました。病気から解放されて立ち上がるような力を与えてくださったのです。聖書を読む会で「病気を受け入れて病気と共に生きる力を与えてくださった」との思いが語られました。そうなのかも知れません。私たちは誰しもが弱くなることがあります。私たちはそのようなときに辛い自己対話を繰り返すのですが、そのようなときに神との出会いが待っているのでしょう。
降誕後第4主日、
◆今週の福音書はイエスの教えが「権威ある者としてお教えになった」と書かれています。本田神父は「権威ある者として真実をときあかしたからである」としています。権威とは何でしょうか。英語ではオーソリティー、ラテン語の権威という語ではアウクトリタスで、アウジェーレという動詞から来ているそうです。これは「ふやす、ます、育てていく」という意味だそうです。ギリシャ語はエクスーシアーですが意味は神から来る力は超自然的な知識を伴う。そこで、力と知識の両方がエクスーシアーで表される。だからイエスの教えを聞いた聴衆は、イエスはエクスーシアー〈権威〉を持っているに違いないと結論するのです。語源を辿っていくとその人が生きて、つみかさね、育てて人生の知恵、生命を他の未熟で未完成の魂の中に伝え、与えていくためのものだということが分かります。◆今の時代では自らを「権威者」として語る人が多いかもしれません。自らを権威づけるのはとても危ないような気がします。権威を振りかざすのはいかがなものでしょうか。イエスが宣教の場に立ち始めて誰にも知られず、イエスという人さえ知られていないのに、その教えを聞いた者たちはそこに今までには感じたことのない「権威」を感じとったのでしょう。「真実をときあかす」ことが人々の魂を揺すったに違いありません。私たちもまたみ言葉に触れて魂を揺する体験をしてみたいと思います。
降誕後第3主日
◆本日の福音書「時はみち、神の国はすぐそこに来ている。低みに立って見なおし、福音を信じてあゆみを起こせ」(本田哲郎訳)。福音とはどのように捉えたらよいのか、という問題提起でもあるでしょう。「福音」とはいかなる宗教の枠も超えた、改宗をも条件にしない、救いと解放の知らせです。この福音を受け入れるためには「低みに立って見直す」(メタノイア)ことが求められています。イエスが身をもって示した「低み」に立つ人、その道をあゆもうとするすべてに告げられる救いと解放の知らせなのです。メタノイアとは痛みに視点を向けるように視点を変えることです。人は人の痛み、苦しみを理解することは難しいことです。恐らく相当意識的に共感する姿勢を整えない限りは難しいのではないでしょうか。イエスの生き方を見つめ続け、何を大事にされたかを繰り返し読み取ってそれを実践することでイエスが語られた福音を体験することではないでしょうか。イエスの生き方はこの世を上手に渡って生きる知恵ではありません。むしろ逆の生き方かも知れません。しかしこの福音によって私たちは生きる力が与えられるのです。様々な困難を抱えてもなお立ち上がる力が与えられるのです。(本田哲郎神父の解説書の要約です)
顕現後第1主日
◆今日の福音書は主イエス洗礼の出来事が記されています。本田哲郎神父は「イエス、低みから見直す沈めの式(洗礼)を受けて、荒れ野に立つ」と見出しをつけています。Baptismaは低みから低みへと流れる水の水面下に全身を沈めて「低みから見直させる」民間儀式であり、汚れを洗い流すというようないわゆる浄-不浄とは関係のないことでした。ユダヤでは律法で定められた「供物」を祭司にささげることを通してなされていたのです。本当に貧しい人々は清めの儀式を受けることが出来なかったため「けがれを引きずる者」=「罪人」と見なされたのです。イエスもその一人でした。イエスがヨハネからBaptismaをしてもらうときに「抑圧からの解放にかかわることをみな実行するのは、だいじなことです」と言ったのも、「正義」ということが底辺に視座をおき、人の痛みを共感共有するところから判断し、行動する解放にかかわることであることから、地上でいちばん低いところを流れるヨルダン川に「身を沈める」ことにその象徴を読み取っていたからだと言えそうです。
降誕後第1主日
◆今日は文字通り大晦日が主日のため、誰もがマルタ的忙しさに身を置くようあ状況でしょう。クリスマス礼拝が終わるとちょっときにしながら「よいお年を!」と言って帰る方々がいらっしゃる。それもまた現実でしょう。◆さて、今日はみことばの礼拝ですが、読まれる聖書は日課B年の通りですから福音書はヨハネ福音書の冒頭部分が朗読されます。ヨハネ福音書は、イエス・キリストがことばであったと語ります。わたしたちのまわり・出来事はほとんどのことがことばで成り立っています。心を痛める出来事もことばが中心です。いじめもハラスメントもです。ことばをどのように用いるのかで人は生きることも死に陥ることさえあることを示しています。私たちもまたことばによって生きることを実感しているのではないでしょうか。ことばにわたしたちの中に入り、命を輝かすことになります。◆明日は「主イエス命名の日」の聖餐式をささsげます。どうぞおでかけください。◆よいお年をお迎えください。