――今日の聖句――
<言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。>[ヨハネによる福音書1:11−12]
わたしたちの教会では、3年前、21世紀を迎える当たり、どのような教会なろうとしているのかを、内外に分かりやすく示すため、「教会標語」を掲げることになりました。そのメインタイトルが「共に生きる教会」です。ただ、「共に生きる」といっても、「誰と共に生きるのか」が分からないではないか、ということがしばしば問題になります。教会の内ではともかく、教会の外の人々には分からないのではないかということです。実際、見も知らぬ人と一緒に生きるなんて、気持ちが悪い、と言われて、初めてそのことに気がつきました。
教会で「共に生きる」という場合、それは、教会の歴史への深い反省に基づいています。教会は、長い歴史に中で多くの過ちを犯してきました。振り返れば、教会が戦争に加担し、弱者を圧迫し、差別を助長し、不正を見逃してきた惨憺たる歴史があります。前世紀の後半、教会のこのような過ちに対する大きな反省が起きました。教会は、それをのり越えない限り、前に進めない状況にまで追い込まれました。そこから生まれた一つの成果が、「共に生きる教会」という考え方です。この言葉は、人種、文化、宗教、思想、職業など、・・・それらすべての違いを乗り越えて、すべての人々が共に生きようというのですが、それが、第一義的に意味することは、社会的に恵まれない、弱い立場に置かれている人々と共に生きようということです。
この歴史の反省の中で、教会の宣教姿勢も大きく変りました。それまでは、まだ信徒でない人を教会に連れてきて洗礼を受けさせることが宣教でしたが、それ以降は、教会が、弱い人たちのところへ行くこと、その人たちのために何かできることをすること、それ自体を宣教と考えるようになりました。
「共に生きる教会」は、わたしたちの教会の宣教姿勢を表しているのですが、教会の外の人々にもっと分かっていただけるふさわしい言葉があればと願っています。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<言(ことば)は、肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちは、その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。>[ヨハネによる福音書1:14]
クリスマスのお喜びを申しあげます。
わたしたちは、二つの誕生日を持っています。一つは、わたしたちの身体が生まれた誕生日、もう一つは、わたしたちの心に、イエスさまが生まれた日です。それは、わたしたちが初めてイエスさまと出会った日でもあります。その日は、ある人にとっては、洗礼を受けた日であるかもしれませんが、ほかの人にとってはそれとはまったく別の日かもしれません。毎年巡ってくるクリスマスは、心のイエスの誕生記念日です。
わたしたちが、イエスさまと出会った日から、心の中のイエスは少しずつ成長を始めます。ある時期は急速に、しかし、何年たってもあまり成長しない時期もあります。場合によっては、生まれたときより、小さくなって行く時期もあるかもしれません。
後から振り返ってみると、一つのことに気づきます。それは、身体や生活の環境が順調なときには、心のイエスはあまり成長しないで、身体や生活の環境の不調のときの方が、心のイエスの成長が大きかったということです。これは、イエスさまが、わたしたちが、弱っているとき、悩んでいるとき、悲しんでいるときに、わたしたちのそばに近寄って来てくださったことを示しています。
イギリスの女流推理作家として有名なアガサ・クリスティに『水上バス』と言う短編があります。 主人公、ミセス・ハーグリーブスは、信仰心の厚い人でしたが、大変な人間嫌いで、人に会うことが苦手でした。 ある日、彼女は、女中と言い争いをし、くさくさした気分を晴らすため、テームズ川の水上バスに乗ります。そこで、彼女は、一人の男が目にとまります。彼は、一枚織りらしい珍しい長い上着を着ていました。彼女は、衝動的に、その上着にそっと触れてみます。何か温かい気分が彼女の中を流れました。船が船着場に着き、客が全部降りてしまったとき、船長は、客は確かに八人いたはずなのに、乗客から集めた切符が七枚しかないのに気が付きます。船長は腹を抱えて笑いながら言います。「知らないうちに降りたんだろうよ。それとも水の上を歩いて行ったのかな」
クリスマスは、神さまの方からわたしたちに会いに来てくださる出来事です。また、一度見失ったイエスさまとの再会のときでもあります。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリザベトに挨拶をした。・・・エリザベトは、聖霊に満たされて、声高らかに言った。・・・「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内に子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」>[ルカによる福音書 1:39−45]
クリスマスが近づいてきました。「今日の聖句」は、主イエス誕生物語の一部です。主イエスの母となるマリアは親戚のエリザベトに会いにいきます。エリザベトは洗礼者ヨハネの母です。洗礼者ヨハネは、時の権力者へロデ王によって処刑され、主イエスは十字架にかけられて死にました。
この過酷な運命を担った子供の二人の母親が、その子供をお腹に宿したときに出会うのです。二人は心を開いて語り合い、二人に身に起こりつつある出来事を確かめ合いました。あなたも恵みを受けている。わたしも恵みを受けている。神の言葉は必ず実現する、そのことを確め合いました。それは大きな喜びでした。その喜びに、お腹の子が踊りあがったのです。
わたしたち一人一人の日々の生活にも,数え切れないほどの悲しみや悩み、不安や恐れ、また、闘いがあります。神さまに忘れられてしまったのではないかとの思いが押さえきれないときも少なくありません。
そのようなとき、わたしたちはこの二人の婦人を思い起こします。この二人の婦人は、その過酷な運命にもかかわらず、その悲しみと苦しみをのり越えて、神さまの恵みを確信し、喜びの中で歌を歌い始めるのです。クリスマスは、悲しみが喜びに変わり、喜びが歌となる出来事です。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群集に言った。「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」>[ルカによる福音書 3:7−9]
洗礼者ヨハネは、イエス・キリストに先立って現れ、主イエスが来られる準備として、人々に「悔い改め」を説きました。その舌鋒は激しく聞いた人々を震え上がらせました。
「悔い改め」とは、単に反省したり、後悔することではなく、わたしたちの心を神さまに向かって方向転換することです。しかし、ヨハネの要求通りにすることは、普通の人間にはほとんど不可能のように思われました。そこに、人間の悲しみや弱さがあります。
このような、ヨハネの「自力による悔い改め」に対して、主イエスは、「他力による悔い改め」を説かれました。
人生、平和で、楽しく、幸福なときもありますが、説明がつかず、まったく運が悪いとしか言いようのない出来事に巻き込まれ、人生が狂ってしまうことさえあります。そのようなとき、良いも悪いもすべてひっくるめて、既に、神さまの愛に生かされて、今ここにあることを気づくことです。そして、人生全体が、神さまの愛の働きの中にある人生として受け止めて生きる、そういう生き方への変化です。
「他力による悔い改め」は、「自力による悔い改め」の前に、人間の弱さと悲しみに打ちのめされた人が、神さまの恵みに目を開いていく、より深い人生の生き方です。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。>[ルカによる福音書 3:2−3]
冒険という言葉は、人をロマンに誘います。実は、イエス・キリストの誕生を待ち望む降臨節(アドベント)と冒険(アドベンチャー)は同じ語源です。未知のものを求める姿 勢です。わたしたちは、二つの冒険の世界を持っています。一つは、目に見える世界です。
そこで、わたしたちは生まれ、成長し、恋をし、仕事をし、家庭を持ち,多くの冒険をします。それは、しばしば、労多く、苦しみと悲しみに満ちていますが、また喜びに満ちた すばらしい世界でもあります。しかし、もう一つの世界があります。それが「魂の冒険」の世界です。人は,心奥の声に迫られて,「魂の冒険」に旅立ちます。
人生において成功することと、自分の人生を成功させることとは全く違います。人生、成功も失敗もありますが、いかなる成功もいつかは色あせていきます。人生の多く のいろいろな出来事を一つに結びつけ、それに意味を与えるのが「魂の冒険」です。
究極の「魂の冒険」とは、神さまと出会うことです。神さまと出会うことによって、人生のすべてに意味が与えられるのです。人生の意味は、人から教えられるものではなく、一人ひとりが「魂の冒険」によって発見していくものです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。> [ルカによる福音書 21:28]
わたしたちは、毎年巡ってくるクリスマスを、本当に喜びをもって迎えているでしょうか。
クリスマスは、真っ暗な闇の中に、そっとかすかな光が射す出来事です。主イエスは、その真っ暗な闇の中で、「身を起こして頭を上げなさい、解放の時が近いからだ」と言ってくださいます。しかし、暗闇を意識しない人にはその光はみえません。 暗闇とは、自分の心の中のことです。わたしたち一人ひとり、数え上げれば、きりのない罪を犯しています。全く陰りのない正しさに生きてきた、と言いえる人がいるでしょうか。主イエスは、わたしたちのこの罪が、審 きを免れるとは一言も言っておられません。
しかし、主イエスが、わたしたちの罪を真剣に問題にされる時、その審きの中から、新しく立ち上がる道を備えてくださろうとしているのです。わたしたちは審きを通して、初めて神さまの救いに与れる者なのです。救いとは、すべての罪を帳消しにすることではなく、審きを通して、身を起こし、頭を上げて、再び歩き始めること です。
クリスマスまでの降臨節(アドベント)は、自分の心の中を覗いてみる機会です。
(牧師 広沢敏明)
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