――今日の聖句――
<安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない、・・・招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の皆の前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」>[ルカによる福音書14:1,7−11]
今日の聖句にありますように、わたしたちは、どうしても自分の席次が気になって仕方がない存在です。少しでも上席が欲しい存在です。 旧約聖書続編のシラ書(集会の書)10章12節に次のような言葉があります。現代にこそふさわしい言葉です。
<高慢の初めは、主から離れること、人の心がその造り主から離れることである。>
現代社会の特色の一つは、世俗化(人間中心主義)ということです。この世のすべてのことは、人間の力で解決できる、神に頼ったり、神を信じることは、愚かで、馬鹿げたことだという考え方です。しかし、自分の人生を振り返ってみて、誰一人、自分の力だけで生きてこられたと言える人はいないはずです。むしろ、わたしたち一人ひとりは、自分で造りだしたものではなく、他から与えられて、今、ここにあるというのが真実ではないでしょうか。現代社会の病といわれる問題の多くは、人間が謙虚さを失ったことから生じているのではないでしょうか。
今日の聖句の中にこのような主イエスの言葉があります。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 どうして「へりくだること」がそれほど大切なのでしょうか。それは、身を高くしている限り見えないものが見えて来ることです。「日本を美しくする会」という奇妙な名の会があります。公共のトイレを掃除するボランティアの会です。その会長は、イエローハットという年商1000億の会社の創業者である鍵山秀三郎さんです。
鍵山さんの社長時代の一日は、掃除から始まります。冬でも6時前には必ず出社、先ず、会社の周り2,3キロの道路を掃除し、それが終わるとトイレの掃除が始まります。それは徹底した清掃だそうです。手袋は絶対使いません。素手で、窪んでいるところは、顔をつけるようにして磨きます。 その鍵山さんが、なぜトイレをそれまで美しくするかについてこのように語っておられます。
「掃除は、気づきのよい人間をつくる。知らずに人を傷つけたり、迷惑をかけたりしていることに気づく一番よい方法が掃除である。すべてのことに命があるということを教えてくれるのも掃除である。」(『会社が光る』浅野喜起/鍵山秀三郎著、皓心社)
身を低くして見えてくるもの、先ず、苦しんでいる人の痛みや悲しみが見えてきます。そして、もう一つは、わたしたちが自分の力だけで生きているのではない、多くの人々の支えと神の恵みの中で生きているということが見えてくることです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『ご主人様、開けてください』と言っても、・・・『お前たちがどこのものか知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。>[ルカによる福音書13:24-27]
今、ギリシャのアテネではオリンピックが最高潮を迎え、熱い戦いが繰り広げられています。今日の聖句に出てくる「努めなさい」という言葉の原語は、競技場に「集まる」ことを意味し、それが「戦う」という意味になり、さらに「努める」という意味になって行きました。多分、福音書を書いたルカも、古代のオリンッピク競技での選手の戦いを思い浮かべながら、それと信仰生活とを重ね合わせていたのではなかったでしょうか。
今日の聖句は、アンドレ・ジイドの小説『狭き門』で有名になりましたが、その内容は、殊に、既にイエスを信じ、教会にも行き、自分はクリスチャンだと自負している人々にとって、非常に厳しいものです。
神の国に入る戸口は、狭いだけでなく、やがて閉じられてしまう。その戸口が閉まった後でやってくる人がある。その人が、あなただとしたらどうでしょう。イエスがなぜ、これほど厳しい言葉を話されたか、それは、この譬えが、イエスがエルサレムに向かう旅の途上で話されたことと関係があります。言うまでもなく、エルサレムは、イエスが十字架にかけられて殺され、甦えられたところです。イエスの戦いの場です。イエスは、わたしたちの救いのために激しい戦いを戦っておられるのです。イエスは、その時、あなたがたはどうするのか、と問うておられるのです。
わたしたちが、神と対峙しようとするとき、大切なことが3つあります。ヘブライ人への手紙の12章28節にこのような言葉があります。
<このように、わたしたちは揺り動かされることのない御國を受けているのですから、感謝しょう。感謝の念を持って、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。>
ここに、わたしたちのとるべき3つの態度が示されています。(1)感謝と、(2)畏れと、(3)仕えることです。別の言葉でいえば、(1)神の恵みの中に立つこと、(2)自分の未熟さを知り、謙虚になること、(3)他者に手を差し伸べていくことです。
現代のわたしたちに最も欠けているのは、神への畏れの心ではないでしょうか。科学的合理主義万能主義の時代です。何でも人間の力で解決できるとの考え方が支配的となり、神を信じ、神を頼りにするものは弱いもの、未熟なものとされています。しかし、本当にそうなのでしょうか。快適で、便利で、清潔な生活を追及してきた結果、わたしたちの周りには、どんなことが起こりつつあるでしょうか。環境破壊、大量破壊兵器、世界の貧富格差の拡大、麻薬の蔓延、心の病の広がりなど、これら現代の病は、わたしたちが神への畏れを忘れ、謙虚さを失ったことと無関係ではないのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」>[ルカによる福音書12:49−51]
今日は、59回目の終戦記念日です。また、昨日は、ギリシャのアテネでオリンピックが開会しました。終戦記念日とオリンピック、そして再び激しくなっているイラクの戦火、それらを重ねて、複雑な思いに抱いておられる方も多いと思います。わたしたち人類は、59年前、戦争の根絶を誓いましたが、今も、世界の各所で、戦火が燃え盛っています。
今日の聖句からは、主イエスの悲痛な叫びが聞こえて来る気がします。「わたしが投じようとする火はまだ燃えていない。その火を燃えあがらせるために、わたしは十字架にかかるのだ。」そのようにイエスは言われたのです。「イエスの火」とは何でしょうか。
戦争のニュースが、わたしたちを愕然とさせるのは、その残虐性です。生命科学者の柳沢桂子さんは、6月22日の朝日新聞朝刊に、「残虐性は人間の本能か」という文章を書いておられます。
それによると、イギリスの動物学者グドールが、長年にわたる野生チンパンジー観察に基づいて、チンパンジーが、他の群れのチンパンジーを残虐に痛めつける例を学会で発表し、熟慮の上、人間はチンパンジーの残虐性を引き継いでいるかもしれないと言った時、聴衆から痛烈な批判が起きたそうであります。皆さんは、どのように考えられるでしょうか、自分たち人間が先天的に残虐性を持っているという考えは、できれば否定したいと思いますが、否定しきれないのでないでしょうか。
「イエスの火」の一つの面は、それが、「審きの火」だということです。わたしたちは、自分の残虐性など暗い面は、あまり認めたくありません。ですから、できるだけそれには触れないように、見ないようにしているのです。 2千年前、イエスは、イスラエルの人々を、この人間の暗い面に目を向けさせようされました。だが、イスラエルの人々はそれが気に入りませんでした。だから、自分の残虐性を認める代わりに、主イエスを抹殺しようとしたのです。この世に「審きの火」を燃えあがらせる者は気に入らなかったからです。
しかし一方、一度この「審きの火」に触れた者は、自分自身に苦しみを課すものとなっていきます。人間できれば苦しみは避けたいと思いますが、場合によっては自分に課さねばならない苦しみもあります。人間の残虐性を否定するのではなく、それを認めたうえで、それを乗り越えて行こうとすることです。イエスが、「自分地上に来たのは、平和をもたらすためではない。むしろ分裂だ」、と言われたのは、そういう意味です。人間の本質を見つめることなしに、真の平和はありえないのです。
人間が神の似姿に造られたということは、その身に残虐性を帯びながらも、なおそういう苦しみを担う性質も持っているからではないでしょうか。そのような苦しみにじっと耐えるところに人間の尊厳性が現れるのです。そして、その時、「審きの火」は、「生命の火」となっていくのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に罪なさい。そこは盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」>[ルカによる福音書12:32−34]
イエスは、弟子たちに、「小さな群れよ、恐れるな。」と語りかけられました。実際、イエスの弟子が何人くらいいたのか分かりません。10人か、20人か、50人か。いずれにしても、「小さな群れ」だったのでしょう。当時、イスラエルには、いろいろなセクトがありました。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、熱心党という武装集団もありました。それらの一部は政治をも動かす大きな権力や武力や富を持っていました。それらに比べて、イエスの弟子たちは、生まれたばかりの、吹けば飛ぶような小さな群れでした。
また、この「ルカによる福音書」が生まれる母体となった西暦70年頃のルカの教会も、おそらく「小さい群れ」だったのでしょう。ルカの教会は、ローマにあったのではないかと言われています。異邦人の中にぽつんと生まれた教会、周囲の人々からは奇異の目でみられ、時には迫害を受ける状況の中で、信徒たちは肩を寄せ合うように生きていました。
今、わたしたちも、「小さな群れ」であります。日本社会の中で、1%にも満たない集団です。この練馬聖ガブリエル教会も、今日の出席者は50人前後、まことに「小さな群れ」であります。イエスの弟子たちにとっても、ルカの教会にとっても、イエスのこの「小さな群れよ、恐れるな」という呼びかけは、この上ない「励まし」でした。
「恐れるな」という言葉は、旧約、新約聖書を通しての、神からの重要なメッセージでした。アブラハムも、モーセも、預言者イザヤやエレミアも、また弟子ペテロも、この言葉に慰められ、励まされたのです。
現代のわたしたちも恐れがあります。科学や医学が進歩し、多くの問題を解決しましたが、なお多くの恐れを抱えています。死への恐れ、病への恐れ、生活不安への恐れ、いろいろな不条理が突然襲いかかって来ます。その中で、今、最も深刻なのは、人に対する恐れではないでしょうか。心の病が大きな社会問題になっているのは、その根底に人間の人間に対する恐れがあるように思えてなりません。相手を恐怖に陥れることによって、相手を支配しょうとする傾向です。いじめなどは言うまでもありませんが、いわゆる正論が、相手にものを言えなくさせ、その心を圧迫し窮屈にしている現象は、社会の隅々に見られます。教会も例外ではありません。
<小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。>[ルカによる福音書12:32]
少なくとも、教会だけはそうでないようにしなければなりません。「神の国」は、正義や正論を振りかざすところにではなく、相手の姿の中に、自分と同じ弱さをみて共感するところに現れるものです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<「(ある金持ちが自分自身に言った)『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。しかし、神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」>[ルカによる福音書12:19−21]
フィリピン聖公会中央教区のDexie Taclobao主教の説教が行われました。その中から、”Where are we headed” という文章を引用します。
<高い建物が沢山ありますが、短気な世の中です。
幅の広い高速道路は沢山できていますが、人間としての視野は狭まっています。
沢山のものにお金を費やしますが、心は貧しくなりました。
資格の社会ですが、判断力、認識力に欠けています。
沢山の薬品が開発されていますが、心の健康な人は少なくなっています。
怒りっぽく、無謀な運転、無表情な人間、向こう見ずな人、夜更かしの人、朝から疲れている人、読書をしない人、物質的には豊かでも、人生は豊かでない人
年は重ねても、年に見合う人間になっているだろうか
月に旅し、上陸し、帰ってはきたが、隣の家に行くにも、路を渡るのも難儀になっています。
宇宙を制覇して入るが、世の中を制するのはまだまだです。
空気の清浄はできたが、魂は汚染されています。
原子爆弾を落としたが、偏見、差別はなくなっていない。
早く、早急に事を運ぶことは覚えたが、ゆっくり 待つことができなくなった。
収入は上がったが、モラルは下がった。
食べ物は豊富だが、譲ることを忘れた。
知り合いは沢山いるが、真の友達は少ない。
コンピューターによる情報は莫大になったが、コミュニケーションが不足がちな世の中です。
このような事柄が、今の世の中の ファーストフード、消化不良、栄養不足などを招いています。
背は高くなったが,心は狭くなった。利益を追求するが、人間関係の希薄な人間が多くなっています。
一見、余暇を楽しんでいるように見えても、面白みにかけ、種類の豊富な食べ物があるのに栄養不足です。
共稼ぎで収入は2倍になったが、離婚が多い。
見栄えのする家を持つが、家族関係が崩れています。
旅行に気楽に出かけ、使い捨てオムツを使い、ごみの出し方も知らない、肥満が増え、興奮したりする薬がはやり、麻薬、殺人。……これらすべてが現状、真実です。>
それでは、わたしたちはどこへ向かって進めばよいのでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |