――今日の聖句――
<そのころ、皇帝アウグストウスから全領土の住民に登録せよとの勅令がでた。・・・ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。・・・ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。>[ルカによる福音書 2:1−7]
主イエス・キリストのご降誕のお喜びを申し上げます。
わたしたちは、聖書において人類の歴史を見るとき、その歴史が、決して美しく、正義に満ちたものではなく、その反対に汚く、不正に満ちたものであることを知ります。イエスの誕生の時も、イエスの誕生を知ったヘロデ王は、その周辺一帯の2歳以下の男の子を皆殺しにしたと伝えられています。
紀元前6世紀に、エゼキエルという預言者がいました。イスラエルが、バビロンという大国に滅ぼされ、国民の主だった人々が捕囚として他国に連れて行かれるという時代に、その捕囚の中にあって、なぜイスラエルがこれほどの苦難を受けなければならないか、これからこの国はどうならなければならないかを思索し、祈り、そして人々を導いた預言者です。預言者エゼキエルは、2600年の時空を越えて、現代のわたしたちに直接語りかけているように感じられます。
<「お前の心は高慢になり、そして、言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって、神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだと、思い込んでいるだけだ。・・・お前の心は富のゆえに高慢になった。」>[エゼキエル28:2]
今年は、自然災害、ことに異常気象による災害に、強い印象を受けました。東京の真夏日の日数は記録を塗り替えましたし、日本に上陸した台風は10個を数え、各地に洪水が襲い大きな被害をもたらしました。世界各地にこのような、従来にない気候の異常が見られるようになっています。これらの現象と地球温暖化との関係は、現段階では直接関係付けられないそうですが、これらの現象は、地球温暖化が進めば、必ず起こる現象ではあるそうです。地球温暖化の大きな原因は、石油や石炭の大量消費による二酸化炭素の急速な増加です。地球規模で考えて、これは、今後減ること考えられません。これは一つの例に過ぎませんが、人間は、科学技術の大きな進歩によってかつてない豊かさを獲得しました。しかし、その豊かさが、人類滅亡への要因を作り始めていることに、わたしたちはもっと敏感にならなければならないように思います。
人間が、地球をわがもののように考えて、石油の大量消費を続け、地球環境の汚染を続けるというのは、正にエゼキエルがいうように、傲慢という言葉がふさわしいのかもしれません。人間はもっともっと謙虚になる必要があります。
今日は、クリスマスです。救い主イエスがどのような姿でお生まれになったか、それをしっかり心に刻む必要があります。誰も、救い主が、まさか、馬小屋で飼い葉桶の中に生まれられるとは考えても見ませんでした。ここに、大きな神秘が隠されています。クリスマスは、このようなことを、考える時であります。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使ガブリエル夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は、聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」>[マタイによる福音書 1:18−21]
今日の聖句は、マタイによる福音書によるイエスの誕生物語です。華麗で美しいルカによる福音書に比べて、極めて短く簡潔です。マタイは、イエス誕生に当たって、マリアの夫であるヨセフに焦点をあてました。この短い記述の中に、夫ヨセフの深い苦悩が表されています。当時のユダヤの社会では、婚約は結婚と実質同じようにみなされ、結婚前のある期間、一緒に生活する習慣もあったようです。その時、愛するマリアが妊娠していることが明らかになった。ヨセフには身に覚えのないことでした。ヨセフは、愛する婚約者を疑わなければならないという、極めて人間的な苦悩の中に立たされることになります。愛が憎しみに、ことによれば殺意に変わるほどの苦悩であります。しかも、誰にも相談できない悩みです。「ヨセフは正しい人であった」とあります。もしヨセフが自分の正しさに固執すれば、ことを表ざたにしなければなりません。その場合は、律法によってマリアは石打の刑による死刑を免れません。
一方、愛する婚約者を傷つけ、死に至らせることはヨセフには到底できないことでした。苦悩の末の最後の決断が、「ひそかに離縁することでした。」
わたしたちは、クリスマスをイエスの誕生日として、喜び迎えますが、その出来事が、このような人間的な深い悩みの中で起こったことは注目しなければなりません。ヨセフは、このような深い魂の葛藤の中で夢を見、天使の声を聞くのです。夢は、現代の深層心理学の研究においても、人間の心の最も深いところの動きを表していると言われます。それはまた、人間が神と出会う場所でもあります。ヨセフは、心の最も深いところで、神の声を聞いたのです。
「その子をイエスと名付けなさい」という天使の呼びかけは、大変重要な意味を持っています。イエスは、ヘブライ語ではヨシュアと言います。ヨシュアという名は、イスラエルの人々であれば誰でも知っている国民的英雄の名前です。イエスの時代から更に1400年位昔、イスラエルの人々はエジプトの奴隷生活から脱出し、荒れ野で40年間放浪の後、ヨルダン川を越えて約束の地、乳と蜜の流れるカナンの地に入りました。その時、イスラエルの民を率いたのがヨシュアでした。ヨセフは、天使から、この言葉を聞いたとき、それまでのあらゆる疑念、苦悩を払拭し、この子供を自分の子供として引き受ける決意を固めることが出来たのではなかったでしょうか。
神は、一介の大工、世間的には金も力もないヨセフに、小さな赤ん坊イエスと母親マリアの生命を委ねられたのです。このとき、ヨセフは神と共に働く者とされました。イエスの誕生は、人類を救おうとする、神の全く自由な意思によりますが、それは、マリアとヨセフという『神と共に働く者』の存在にとって現実のものとなったのです。そして、それは、ヨセフが魂の最も深いところで、神に声を聞くことから始まったことを、わたしたちは心に刻んでおかなければなりません。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」>[マタイによる福音書 11:2−6]
今日の聖句の前半にある洗礼者ヨハネのイエスに対する問いは、大変重いものです。
このヨハネの痛切な問い「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」は、その時の、ヨハネの心の動きをよく表しているように思います。
洗礼者ヨハネといえば、ヨルダン川でイエスに洗礼を授け、「わたしは、その方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言い、イエスの本質を最初に見抜いた人物です。そのヨハネの心に動揺が起こります。一度生じた疑念は、次第に増幅していきます。ヨハネの心をそれほどまでに動揺させた理由は何だったのでしょうか。
それは、ヨハネが期待していたキリスト(救い主)像と、実際のイエスの間の大きなギャップではなかったでしょうか。当時、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にあり、民衆はその圧政に苦しみ、政治は腐敗し、不正がはびこっていました。ヨハネは、この不正な世の中に「正義と公平」の裁きをもたらす方の出現を待ち望んでいたのです。しかし、弟子たちから聞くイエスの姿は違っていました。弟子たちから聞く限り、イエスは、あまり裁きを語っておられるようには見えません。むしろ、「敵を愛しなさい」「復讐してはならない」「人を裁いてはならない」、と言った言葉が次から次へと聞こえてきます。自分が考えていた救い主と現実のイエスはあまりにも違っているように見えました。
ヨハネは自分が信じる真理のために命をかけて戦った人物です。その結果、今、牢獄に繋がれています。自分が信じ語っている真理、それは信じるに値するのか、自分の人生は間違っていなかっただろうか、という疑念が次から次へと湧きあがって来ます。
しかし、この問いは、一人ヨハネだけの問いでしょうか。わたしたちが主イエス・キリストのことを、いい加減に考えているなら、そういう問いは生じないかもしれません。しかし、自分の生き方や人生をイエスにかけ、ここにこそ人生の希望の原点があると考えている人であれば、誰でも経験する問いではないでしょうか。
このヨハネにイエスは答えられます。「お前の弟子たちがわたしのところで見たり聞いたりしたことを、よく聞いて欲しい。神の解放の業はもう始まっている。わたしは、目の見えない人、耳の聞こえない人、足の不自由な人、重い皮膚病の人、死んだ人、貧しい人、それらの人々の悩みと悲しみの中に入り込み、その人々と共に、歩き始めている。」
わたしたちの人生は、喜びもありますが、不条理と苦しみや悲しみにも満ちています。今年は、台風、豪雨,熱暑、地震と自然災害の多い年でした。いつ何時、どのような悲劇がわたしたちを襲うかも知れないことを痛感させられました。わたしたちの命など、アット言う間に吹き消されてしまうかも知れないのです。しかし、そのはかない命を大切に保ち、生かし続けてくださる方がある。そのために主イエスはこの世に来てくださった。それがクリスマスです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<エッサイの株からひとつの芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち、
その上に主の霊がとどまる。
・・・
狼は羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し。
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。>[イザヤ書 11:6−9]
今日の聖句は、先週に引き続きイザヤ書です。預言者イザヤは、旧約最大の預言者です。 イザヤは、キリスト(救い主)の到来を預言しました。イザヤは,この預言が実現するとき、「しるし」が現れると書いています。それが、今日の聖句の後段です。これは、イザヤの見たビジョンです。狼、小羊、豹、子山羊、子牛、若獅子、牛、熊、毒蛇、人の子供、それらが誰も互いに傷つけあうことなく共存する世界を描いています。それはまた、人と人との間だけでなく、すべての被造物が、和解し合う姿です。このとき、わたしたちの間からすべての敵意、憎しみ、不和がなくなるのです。
イザヤが救い主の到来を預言してから、イエスが現れるまで800年の年月が経過しています。この間、イスラエルの国は滅び、人々は殺され、捕囚に連れていかれ、家族は無残に引き裂かれました。それは、神を呪い信仰を捨ててもおかしくないほど過酷な運命でした。しかし、その中でユダヤの人々はその信仰を純化させ、決して希望を失わず、キリストの到来を待ち続けたのです。
しかし、イエスが来られたとき、洗礼者ヨハネを除いては誰もイエスが救い主だとは識別できませんでした。けれども、イエスが十字架にかかられた後、10年、20年が経過するうちに、次第に「イエスはイザヤが預言した救い主だ」、ということが弟子たちの確信となって行きました。イザヤが書き記した救い主の「しるし」が、イエスの言葉と働きの中にあることに気づいたのです。
主イエスは、今も、この世の中で働いておられます。 マザー・テレサは、このように言いました。
<苦しんでおられるイエスよ、今日もまたこれからも毎日、病人たちの中に、あなたを見ることができますように。・・・わたしたちは、一日の初めに、まず後聖体を通してキリストを見ようと努めます。そして日中は、わたしたちが世話する貧しい人たちのボロボロの肉体を取って現れるキリストを見続けます。>(『マザー・テレサ愛を語る』)
救い主イエスがこの世に来られたということは、2000年前に事実ですが、それはまた、今を生きるわたしたちにとっては、今も働いておられる主イエスを、見つけるということでもあるのです。わたしたちは、わたしたちの周りの誰の中にキリストを見つけることができるでしょうか。そして、その人との関わりが、わたしたちの信仰を育ててくれるのです。
(牧師 広沢敏明)
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