今週のメッセージ――主日の説教から


2004年02月22日(日)(大斎前主日 C年) 晴れ
「 世俗化との戦い 」

――今日の聖句――
<そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何に益もない。>[コリントの信徒への手紙T 13:1−3]

 現代社会の大きな特色は「世俗化」である、と先週言いました。世俗化とは神を必要としない、神なしでやっていけるということです。この風潮の源をたどれば14世紀イタリアで始まったルネッサンス(人間復興運動)に遡れます。それからイギリスに始まる産業革命を経て、科学技術の著しい発展と共に今日の大衆消費社会に流れ込んでいます。

 かつて、人々は疫病を予防するために、また、豊作を求めて神に願いました。しかし、次第に神の領域とされていたものが人間の領域に組み込まれていきました。そして、遂に、神に残された分野がもうないように人々は考え始めたのです。

 この人間中心主義の社会は、一方で非常に豊かな社会を実現しましたが、もう一方では、競争的、管理的な社会を生み出しました。一定の年齢になれば学校に行き、学校を卒業すれば会社で働き、朝夕満員電車にもまれるような社会です。人々は、一層の豊かさと快適さを手に入れるために、次第に自己中心的になり、社会から、やさしさとかいたわりとか思いやりが失われ、潤いがなくなっていきました。言い換えると、社会から「愛」が失われていったのです。

 最近、新聞紙上で毎日のように報道される児童虐待とか、いじめ、自殺など悲惨な事件は、突き詰めれば、この辺りにその原因があるように思います。貧しくて食べるものがないから事件が起こるのではなく、一人ひとりがより多くの豊かさと快適さを追う結果として、「愛」が失われていくのです。

 「今日の聖句」に引用した箇所は「愛の賛歌」と呼ばれ、聖書の中で最も有名なところです。愛の使徒と呼ばれたパウロは、高らかに「愛」を歌い上げました。

 教会は、「愛」の満ち溢れるところでなければなりません。教会が何かをしようとするときは、愛が基準にならなければなりません。社会の世俗化が進めば進むほど、教会は愛に固執しなければなりません。そこに教会の存在理由があります。

 その教会にも世俗化の風潮は忍び寄ってきます。現代社会における教会の最大の使命は、この世俗化の風潮と戦うことにあるように思います。

(牧師 広沢敏明)


2004年02月15日(日)(顕現後第6主日 C年) 晴れ
「 人の限界を知る 」

――今日の聖句――
<主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木、恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。>[エレミア書 17:5]
<しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。            今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。>[ルカによる福音書 6:24−25]

 預言者エレミアは、紀元前6世紀、イスラエルの国が、バビロン帝国に滅ぼされようとするとき活躍した預言者です。当時は、人々の日常生活において、宗教は圧倒的な位置を占めていました。人々は、病気のときも、裁判のときも、飢饉のときも、その回復を神に願いました。しかし、その当時においてすら、エレミアは、神に頼らず、自分の力だけを頼りにする人々が、いかに多いかを嘆いているのです。

 「呪われよ、人間を信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は」というエレミアの言葉は、現代にこそふさわしい言葉です。現代社会の特色を、アメリカの神学者H.コックスは、「世俗化」という言葉で表しました。限りなく神から離れようとする風潮です。科学的といわれる真理しか信じようとはせず、目に見えないものは信じず、すべてを人間の力で解決できると考えることです。

 「ルカによる福音書」の主イエスの言葉も、同じことを言おうとしています。「今満腹している人、今笑っている人、あなたがたは、明日も、明後日も、更にその先も、満腹し笑っていられるように思い、それが自分の力でできるように思っているらしいが、それは大変な思い違いだ」と言われるのです。「人の力が、最終的な頼り(根拠)になり得るか」と問いかけておられるのです。

 最近、わが国では,自殺の増加、特に男性中高年の増加が大きな社会問題になっています。4年前、年間3万人台を記録した自殺者数は、依然高水準が続いています。年間の交通事故による死者が約1万人であることと比較すると、この自殺者の数字がいかに大きいかが分かります。それまで、懸命に生き、自分の努力と能力で自分の人生を切り拓いてきた人が、突然、の挫折に直面し、すべてに見切りをつけて死を選択してしまうことには、限りない寂しさを感じます。

 「人事を尽くして、天命を待つ」ということわざがあります。自己の努力の大切は言うまでもありませんが、人の限界を知り、わたしたちを成り立たせているもっと、大きなもの、もっと深い根拠に身を委ねることの大切さに気づきたいと思います。そうしないと、自分が生まれてきた意味、生きている意味までも失ってしまいかねないからです。

(牧師 広沢敏明)


2004年02月08日(日)(顕現後第5主日 C年) 晴れ
「 もう一度 沖に漕ぎ出そう 」

――今日の聖句――
<漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。・・・イエスは、話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師がそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。>[ルカによる福音書 5:2−6]

 ここに出てくるシモンというのはペテロのことです。ペテロというのは、イエスが付けられたあだ名で「岩」という意味です。彼のもともとの名前はシモンです。ペテロは、ガリラヤ湖の漁師でした。

 「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペテロの言葉に注目したいと思います。

 ペテロたちは、夜通し働いたにもかかわらず、一匹の魚も取れず、疲れきって、黙々と網を洗っていました。そこに、わたしたちの現実の姿を見る思いがします。仕事に、家庭に、学校に、一所懸命努力したにもかかわらず、うまく行かない。仕事の成果はあがらず、人間関係はぎくしゃくし、解決の糸口さえつかめない。ただ、うずくまっているしかない、そういう現実があります。

 そのとき、イエスはペテロに声をかけられました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」 疲れと空しさが支配する現実に、神の言葉が、割り込んでくる瞬間です。

 ペテロは、生まれつきのガリラヤ湖の漁師です。ガリラヤ湖で魚を取ることなら何でも知っていました。「お言葉ですから」という言葉に、彼の複雑な気持ちが表れています。彼が、その知識と経験を傾注して、夜通し苦労しても何も取れなかった。今更、疲れきった体で沖に漕ぎ出して、何が取れるか、というのが本音だったでしょう。

 わたしたちは、科学的合理主義万能の世界に生きています。人間の限界を忘れ、何でも人間にできると思う一方で、疲労と空しさにもがいています。信仰とは、そうすることが、徒労に見え、無駄に見えたときに、ただ「お言葉ですから」と沖に漕ぎ出してみること、つまり、わたしを動かすのは、わたしではなくあなた(イエス)であることに賭けてみることではないでしょうか。そして、そうすることによってのみ、新しい道が開かれるのです。

(牧師 広沢敏明)


2004年02月01日(日)(顕現後第4主日 C年) 晴れ
「 預言者は、世に入れられない 」

――今日の聖句――
<『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。」 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、故郷では歓迎されないものだ。」・・・それを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、イエスを町の外に追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。>[ルカによる福音書 4:23−30]

 預言者の「よ」は、預金の「預」であって、予報の「予」ではありません。預言者は、将来のことを語る者ではなく、神さまから言葉を預かって、それを人々に伝える使命を受けた者です。

 それは、預言者の語る言葉は、神さまの言葉そのものだ、ということです。人が、いろいろ書物を読んだり、思索に耽ったり、修行したりして、神さまはきっとこう思っておられるに違いないと、考えたということではありません。ですから、預言者は、神さまから与えられた言葉を、一言一句そのまま語らなければなりません。勝手に、適当に省いたり、変えてはならないのです。

 そのために、預言者の語る言葉は、聞く人々にとっては、決して気持ちのよいものではありませんでした。「あなたは、間違っている。」と言われて、気分の良い人はいないでしょう。聞いた人々は、それまで直視することを避けてきた、或いは逃げてきた現実に直面させられます。この場合の現実は、真実と言い換えても良いかもしれません。

 真実を突きつけられて、それを謙虚の受け止めることのできる人は稀です。大概は、先ず、腹を立て、憤慨することになります。それは、それまで、自分が信じてきたこと、やってきたことを否定することにつながるからです。

 イエスの故郷ナザレの人々もそうでした。彼らは、少年時代のイエスや、イエスの父ヨセフや母マリアを知っていたがために、イエスの言葉を受け入れることができませんでした。

 今、生きているわたしたちも、いろいろな「価値観」や「習慣」、あるいは「好み」に縛られています。そのために、なかなか「本当のこと」を受け入れられなくなっています。

 「預言者が歓迎されない」のは、2000年昔だけでなく、現代もそうです。故郷ナザレとは、現在の人間のこの世界のことでもあるのです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update 2004/May/04 (c)練馬聖ガブリエル教会