今週のメッセージ――主日の説教から


2004年01月25日(日)(顕現後第3主日 C年) 晴れ
「 イエスは、誰か 」

――今日の聖句――
<「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係りの者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、[この聖書の言葉は、今日、あなたがた耳にしたとき、実現した]と話し始められた。>[マタイによる福音書 4:18−21]

 主イエスの時代から更に500年程昔の預言者、イザヤの言葉が、「今、実現した」とイエスは宣言されました。このイザヤの言葉は、ユダヤの人々にとっては、小さいときから耳にたこができるほど聞かされて、皆が諳んじている言葉でもありました。

 しかし、「貧しい人に福音を、目の見えない人に視力を・・・」、この言葉が、「今、実現した]と聞いたとき、人々は、耳を疑いました。それは、イエスが、「自分が、救い主・メシアあること」を宣言されたのと同じであったからです。

 その時代、「われこそはメシアなり」と、自称するする人物が沢山現れましたが、皆、化けに皮が剥がれて消えていきました。人々は、イエスも、その胡散(うさん)臭い輩(やから)の一人なのか、と疑いました。

 さて、現代のわたしたちは、このイエスの言葉をどのように聞くでしょうか。何か遠くの出来事として聞いていることはないでしょうか。

 キリスト教誕生の母体となったユダヤ教は、このイエスの言葉を受け入れることはできませんでした。イザヤの言葉は、今、何一つ実現していないではないか。世界は、イエスが来られる前と、来られてからと、何一つ変わっていないではないか。戦争は絶えず、貧困はなくなっていない。イエスは失敗したのだ、というのがユダヤ教の基本的考え方です。

 これに対して、キリスト教は、依然「貧しい人に福音がなく、目の見えない人が放置されている」現実であるが、そのような状況を固定し、起こるべきことを起こらなくしているのは、何故であるのか。それは、わたしたち人間の方に問題があるのでは、と考えます。

 イエスの弟子たちも、イエスが誰であるのか、なかなか理解できませんでした。しかし、彼らは、イエスが十字架にかけられて死なれた後、イエスが生前に語られたこと、行われたことを、繰りかえし繰りかえし振り返り考える中で、遂に、或るとき、目が開かれ、イエスが誰であるか理解できるようになりました。

 今生きているわたしたちも、教えられたことを、ただ信じるだけでなく、イエスが誰であるのか、自分の目で確認することが大切であるように思います。

(牧師 広沢敏明)


2004年01月18日(日)(顕現後第2主日 C年) 晴れ
「 神の祝宴 」

――今日の聖句――
<三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。・・・イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水で満たした。・・・世話役は、ぶどう酒に変った水の味見をした。・・・イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。>[ヨハネによる福音書 2:1−11]

 ドストエフスキーの小説『カラマゾフの兄弟』の中に、「ガリラヤのカナ」という大変印象深い、美しい場面があります。

 型破りのカラマゾフの兄弟の中で、末っ子アリョーシャは、純粋な魂の持ち主で、聖職を志し、徳の高いゾシマ大主教の弟子となり、修道院で修行をしています。やがて、師ゾシマ大主教が亡くなり、通夜の夜、棺の傍で読まれる聖書が、ヨハネによる福音書2章の「カナの婚礼」のところにさしかかったとき、彼は、夢の中で、棺に眠っているはずのゾシマ大主教の声を聞きます。「やはり、お前も呼ばれたのじゃ。新しい酒を飲もう。あの方(イエス)は、今もわれわれと一緒に楽しんでおられるのじゃ。水を酒に変えて、新しい客を待ち受けておいでになるのじゃ」。

 「カナの婚礼」の出来事は、主イエスがわたしたちを「神の祝宴」に招いてくださっていることを示しています。

 明治以来、わたしたち日本のクリスティアンは、謹厳というか、くそ真面目というか、何か人生を喜び楽しむことを罪悪視してきたようなところがあります。人生、喜びも、悲しみもありますが、喜びよりも悲しみの方が、楽しみよりも苦しみの方が多いというのが実感ではないでしょうか。もし、そうではないという方がおられるならば、その方は、特別に恵みに感謝しなければなりません。主イエスは、わたしたちの悲しみを共に悲しみ、わたしたちの喜びを共に喜ばれる方です。

 主イエスが、水をぶどう酒に変えられたことは、この婚宴が途中で終わり、招かれた人々の喜びが中断され、再び悲しみの中に戻って行くことを、主イエスが望まれなかったことをあらわしています。

 この世のどうしょうもない現実が、主イエスの招きに応じようとするとき、主イエスの手の中で、「神の祝宴」に変っていく。悲しみが喜びに、苦しみが楽しみに変っていく。これが「カナの婚礼」の奇跡ではないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2004年01月11日(日)(顕現後第1主日 C年) 晴れ
「 それは、われわれの問題ではないか 」

――今日の聖句――
<民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。>[ルカによる福音書3:21−22]

 わたしたちの教会では、今日は、主イエスが洗礼を受けられたことを記念する日とされています。主イエスの洗礼は、この世のすべての人々に、主イエスが救い主であることが明らかにされたことを示しています。

 イエス洗礼の場に居合わせた人々は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いたとき、ある一人の人物のことを思いました。それは、旧約聖書のイザヤ書に書かれている人物のことです。イザヤは、やがて現れるであろうその人物をこのように描きました。

<彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
 傷ついた葦を折ることなく
 暗くなってゆく灯心を消すことはない。>   [イザヤ書 42:2−3]

 その人物は、何一つ目立つところはなく、この世の中で、傷つき、弱り果て、苦しみ、悲しんでいる人々の友になられるというのです。人々は、イエスこそ、ここに書かれている人物に違いないと思いました。

 わたしたちは、時々こういう主張を耳にします。「イエスがこの世来られて既に2千年がたった。それにもかかわらず、戦争はなくならず、悲惨な事件が後を絶たないのは何故か。イエスは、本当に救い主であったのか。」

 それに答えるためには、神さまは、わたしたち人間をプログラム通りに動くロボットのようには作られなかった、ということを思い出してみることが大切であるように思います。神さまは、人間を、その自由意志によって、良いことも悪いこともできるものとしてお創りになったということです。旧約聖書の創世記に、「神は、御自分にかたどって人間を創造された」とありますが、その意味は、人間が自分の自由意志で判断し行動するものとして創られたということも意味しています。そこに、人間の尊厳の源があります。

 こういうように考えますと、イエスがこの世に来られて2千年、今なお平和が来ないのは、ひょっとすると神さまの方の問題ではなく、わたしたち人間の方に問題がありはしないかということです。

 主イエスが「わたしに従いなさい」と言われた「わたし」とは、決して目立たず、傷つき弱り果てた人々の友となろうとされたイエスです。わたしたちは、そういう姿で救い主イエスがこの世に来られた意味を、しっかり心に刻みたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2004年01月04日(日)(降誕後第2主日 C年) 晴れ
「 神は、成しとげられる 」

――今日の聖句――
<ところが、(ヨセフは)夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。>[マタイによる福音書2:23]

 主イエス降誕(クリスマス)の出来事は、ただ喜びに彩られているのではなく、その喜びの陰には、大きな悲劇や悲しみがあることを、わたしたちは知っています。

 東の国の占星術の学者たちから、ユダヤ人の王が生まれたと聞いたヘロデ王は、不安に駆られ、ベツレヘムとその周辺一帯の2歳以下のすべての男の子の殺害を命じます。これを知った夫ヨセフは、妻マリアと幼子イエスを連れ、エジプトに逃れます。それから数年が経ち、夢の中でヘロデ王の死を知ったヨセフは、二人を連れ、ユダヤに戻り、ナザレという村に住みました。

 この出来事はマタイによる福音書だけが伝えているものです。これが、実際に起こったことなのかどうか、議論がありますが、今となっては調べようがありません。わたしたちにとって大切なことは、この出来事を通して福音記者マタイが何を語ろうとしたか、それに耳を傾けることではないでしようか。

 ここで、マタイが、繰りかえし繰りかえし、「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と書いていることに注目したいと思います。

 マタイの頭には、イスラエル民族の歴史や祖先が経験したいろいろな出来事が去来していました。モーセがエジプトのファラオの幼児虐殺から逃れたこと、イスラエル民族がバビロンの捕囚から帰還したことなど。これらの出来事と、ヨセフの3人の家族の運命が重なり合っていました。そして、マタイは、幼子イエスがイスラエルの民がたどってきた歴史を、今、たどっておられることを、実感したのです。

 マタイは、ヨセフの3人の家族の中に、はっきりと歴史を通して働いておられる神を見ていました。そして、神は、必ずご自分の意思を、ご自分の仕方で貫徹されることを確信したのです。

 現代のわたしたちは、「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」というマタイの言葉に、あまりにも無感動ではないでしょうか。「実現するためであった」とは、ただ、2000年前のことだけではなく、西暦2004年の年頭の今も、実現しつつあることを、見過ごしてはなりません。

(牧師 広沢敏明)


2004年01月01日(木)(主イエス命名の日 C年) 晴れ
「 解放 」

――今日の聖句――
<八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。>[ルカによる福音書2:21]

明けましておめでとうございます。

 教会の暦では、1月1日は、降誕日から8日目にあたり、イエスがユダヤ教の習慣に従って名前を付けられた日になります。名前は、あらかじめ、天使から告げられていた通りイエスと名付けられます。

 イエスの、ヘブライ語読みは、ヨシュアです。イスラエルの人々がヨシュアという名前を聞くと、必ず思い出す人物があります。イエスの時代から更に1300年位昔、イスラエル民族をエジプトの奴隷状態から、モーセと共に脱出させ、パレスチナの地に導いたヨシュアです。モーセとヨシュアは、イスラエル民族を解放した英雄です。

 神は、この地上で何をしょうとされているのでしょうか。それは、一言で言うと「解放」です。

 主イエスは、宣教を始められた後、初めて故郷ナザレに戻り、会堂で説教をされたとき、 預言者イザヤの言葉を引用されました。

<主がわたしを遣わされたのは
  捕らわれている人に解放を告げ
  目の見えない人に視力の回復を告げ
  圧迫されている人を自由にし
  主の恵みの年を告げるためである。>   [ルカによる福音書 4:18]

 そして、主イエスは、あなたがたが、今日、この言葉を耳にしたとき、この言葉は実現したといわれました。

 現代のわたしたちも、有形、無形の多くのものに束縛されています。わたしたちが時に、ストレスに押しつぶされそうになるのは、それを示しています。そもそも、この世に生まれて来ること自体、いろいろな束縛の下に生きることを意味しています。ですから、生きている限り、わたしたちが、すべての束縛から完全に解放されることはないかもしれません。

 しかし、わたしたちは、束縛しているものから、一つずつ解放され、自由になって行くことはできます。本来の自分を取り戻していく過程です。その過程は、「救い」と言ってもよいかもしれません。

 今、世界は、武力による解放で騒然としていますが、主イエスによる解放は、それとは全く対極にあるものです。世界の平和を祈ります。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update 2004/May/04 (c)練馬聖ガブリエル教会