――今日の聖句――
<「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」>[ルカによる福音書11:10−13]
今日の聖句は、主イエスが、一人の弟子の願いに応じて、祈りについて直接教えてくださったところです。わたしたちは、祈りが大切であることは、良く分かっています。しかし、祈りたいと思いながらも、真剣に祈れなくなっているところがあるのではないでしょうか。
幾つか理由があります。教会生活が少し長くなると、神さまに、いろいろ煩雑な個人的なお願いをするのは、余り高級な祈りではない、或いは、また、人生経験を重ねる内に、祈っても、祈らなくても現実はそう変わりはしない、祈らなくても結構うまくやっていけるじゃないか、などという思い始めることです。そうして、次第に、「祈らないと、やって行けない」という気持ちが希薄になっていくのです。もし、そうだとすれば、わたしたちは、聖句の主イエスの言葉に真剣に耳を傾け、祈りの原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。
三つのことに注目したいと思います。
@主イエスは、祈るとき、「父よ」と呼びかけられました。原語では、幼子が父親に親しみと信頼を込めて呼びかける「お父ちゃん」、「パパ」に近い言葉のようです。最近、評判のケセン語訳聖書では、訳者の山浦氏は、「おどっさまァ」(お父様ァ)と訳しています。
わたしたちの、神さまは、もっと身近で、親しみ深い方です。はるか天のかなたから、冷たく地上を見下ろしておられる方ではありません。
A「願い」は、祈りの原点です。主イエスは、「しつように願いなさい」と教えられました。主イエスは、真剣でしつような願いは、必ず聴かれると約束されました。それには、神さまの名誉がかかっている、もしそれが聴かれないと、神が神でなくなるからだ。わたしたちの神さまは、そういう神さまなのです。
Bもう一つ大事なことが最後に書かれています。「まして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」どういう意味でしょうか。 神さまは、しつように願う者には、良いものを与えてくださる。その良いものとは聖霊だ、ということです。聖霊は、神さまご自身の霊です。つまり、神さまが共にいてくださる、ということです。わたしたちは、健康も欲しい、愛情も欲しい、お金も欲しいと、願うかもしれません。しかし、そのような願いを超えて、わたしたちにとって最も良い物を与えてくださるのです。「神さまが共にいてくださる」こと以上に良いことがあるでしょうか。
5世紀の教父アウグスティヌスは、長い魂の遍歴の末、神に向かってこのように叫んだそうです。「あなたは、わたしの心の中におられたのに、私は自分の外にいて、そこにあなたを求めていました。」
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<マリアは主の足もとに座って、その話しを聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「・・・(マリアにも)手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことを思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。>[ルカによる福音書10:39−42]
聖書には、「良い」、「良くない」という言葉がたびたび出てきますが、ほとんどの場合、それは、必ずしも倫理的、道徳的に「良い」「悪い」ということを意味せず、ほとんどの場合、「それは、神さまの目から見て、当然、当たり前のこと」ということです。
例えば、創世記の最初にある天地創造の物語に、このような言葉があります。
<神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。>[創世記 1:31]
よく、「神が造られ、『極めて良かった』と言われたこの世界になぜ戦争があり、悪があるのか」という議論がされますが、この場合の「極めて良かった」というのは、悪がないということではなく、悪の存在を含めて、神にとって思い通りのもの、つまり「当然のもの」ができたということです。
そういう意味で、「マリアは良い方を選んだ」という言葉は、マリアは正しく、マルタが正しくない、ということではなく、「その時、マリアは、当たり前のこと、当然のことをしているのだ」ということです。
一方、マルタに対する主イエスの言葉、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」これは、主イエスのマルタに対する叱責の言葉では決してありません。むしろ、深い同情と憐れみに満ちた言葉です。
少し前にこのような言葉があります。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた。」 この「せわしく立ち働く」と訳された元の言葉は、「周りにヘと引かれる」という意味です。つまり、マルタは、イエス一行の接待のために、いろいろ気を使うことが多く、心があちこちに引っ張れて、心の中が空になっていた、パニックに陥っていたという意味です。主イエスは、マルタのしていることを、無意味だとか、無駄だとか言われたのではありません。ただ、「今、なすべきことは、何であるのか」を問われたのです。
今、わが国では、自殺、特に中年男性の自殺の多さが大きな問題になっています。1998年以来、5年連続3万人を超えています。それまで働きづめに働き、心をあらゆる方向に引っ張られながら、心が満たされず、心の中が空になっているような状況です。 現代人の病の特色は、この心の中空ではないでしょうか。その意味で、もう一つの大きな問題とされる「引きこもり」の現象は、外見は元気に飛び回っているものの、心の中は空になっている現代人への警鐘ではないでしょうか。マルタは、現在の多くのわたしたちのことかもしれません。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたがたは、この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」>[ルカによる福音書10:33−37]
ルカによる福音書には、一度聞いたら忘れられない珠玉のような譬えがいくつかあります。今日の聖句は、「善いサマリア人」の譬えの最後の部分です。この「善いサマリア人」の譬えは、一度読めば、誰にでも分かる物語です。 誰にも分かる物語ですが、主イエスが「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた言葉を聞くとき、おそらく狼狽してしまう人が多いのではないでしょうか。しかし、主イエスは、この譬えを、わたしたちの愛の貧しさを裁くために語られたのではありません。
この譬えに登場するサマリア人は、主イエスその人ではないかという強い意見があります。つまり、主イエスは、この譬えでご自分のことを語っておられるというのです。
その根拠は、「憐れに思い」と訳されている言葉です。ルカによる福音書では、この言葉は、神や主イエスの心の動きを表す場合にしか使われていないからです。それは、半殺しにあって倒れている旅人の無残な姿を見て、内臓がよじれ引き裂かれんばかりの痛みを覚え、何かをしない限り、その痛みが癒されない、そういう心の有様を表しているのです。
律法の専門家も、隣人愛の大切さをよく知っていました。できればサマリア人の示したような隣人愛に生きたいと思っていたかもしれません。しかし、それができない現実も知っていました。すべての苦しんでいる人や弱っている人に関わり、自分の持ち物を与えていたら自分自身の生活が成り立たなくなってしまう、と考えたのです。そして、そういう自分を正当化するために、隣人を自分の家族とか、同じ民族とか、同じ宗教などに限定しようとしたのです。しかし、主イエスが求められたのは、そのようなあらかじめ隣人の範囲を固定して自分を正当化する心ではありませんでした。主イエスは、愛の行為を決めるものは、その人が隣人かどうかということではなく、今目の前にいる、自分を必要としている人々の傍らに立つこと、つまり、自分が隣人になることがポイントではないかと言われたのです。つまり、イエスは、「隣人は誰か」ではなく、「隣人、それはわたしだ」という考え方への転換を求められたのです。
これは、主イエスしかできないことかもしれません。しかし、このサマリア人のしたことは、考えてみれば、そんなに大それたことをしたわけではありません。宿屋の主人に渡したのはデナリオン銀貨2枚です。今の日本円に換算すると2万円です。全財産をつぎ込んだのでも何でもありません。ただ、目の前の傷ついた旅人に深く心をゆすぶられたのです。そのときに、彼ができることを、できる範囲でしたということです。わたしたちも日々の生活の中で、何かをふと、今、隣人になるように呼ばれていると感じるときがあります。そのとき、わたしたちができることを、自然にしょうではありませんか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが働き手が少ない。・・・行きなさい、わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持っていくな。」>[ルカによる福音書10:1−4]
今日の聖句は、主イエスの宣教命令です。聖書には、象徴的な数字がよく出てきますが、この七十二もその一つで、普通、世界のすべての民族を表していると理解されています。つまり、世界に隅々まで、主イエスの福音が伝えられるべきことを表しているのです。
「収穫は多い」という言葉は、しばしば誤解されます。マタイによる福音書の9章35節以下には、次のように書かれています。
<イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」>
これで明らかなように、「収穫が多い」というのは、「主イエスの憐れみを必要としている人々が多い」ということです。正に、「群集が、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」有様を言っておられるのです。イエスは、明らかに、宣教とは、弱り果て打ちひしがれている人々のことを考えておられたのです。
主イエスは、弟子たちに、更に次のように言われました。「財布も、袋も、履物も持っていくな。」
財布はお金、袋は食料、履物は予備のサンダルです。これは何を意味しているのでしょうか。もし、弟子たちが、財布も、袋も、履物も持って行ったらどうだったでしょうか。その宣教は成功したでしょうか。帰って来た弟子たちは、「お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と意気揚々と報告しました。弟子たちは、お金も、食料も持たなかったゆえに、ただに主イエスの名だけに頼ることができたのです。お金があれば、それに頼りたい気持ちが湧き起こってきます。食料があれば、自分の能力に頼りたくなります。それは、伝道者にとって堕落だ、と主イエスは言われたのではないでしょうか。あるカトリックの神父は、「弟子たちを堕落から守るもの、それは貧しさです」と言いました。
主イエスは、弟子たちに対し、人間的な能力や物質的な頼るものから切り離し、主イエスにしか頼むもののない状況を作りだすことによって、この現世において、様々な労苦や悩みを背負いきれないで助けを求めている人々の姿に、目を開かされたのです。そして、その人たちの心に寄り添うことを可能とされたのです。その人々の心を開かせるは、現世的な利益ではなく、「真実の憐れみと愛で」であることを教えられたのです。
(牧師 広沢敏明)
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