――今日の聖句――
<イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。・・・一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない。」>[ルカによる福音書9:51、57−59]
聖書には、耳に心地よいところと、耳障りなところがあります。今日の聖句は、耳障りなところかもしれません。ときには、こういうところこそ、暫く立ち止まってみる必要があるように思います。今日の聖句は、イエスの遍歴と無宿の生き方を表しています。
この聖句の直ぐ後、更に2人の無名の人物が登場します。イエスから、「わたしに従いなさい」と言われて、「まず、父を葬りに行かせてください」と言った人と、「まず、家族にいとまごいに行かせてください」と言った人です。しかし、イエスは、この二人の申し出を拒否されました。
この3人の人に共通するのは、いずれも、血縁や地縁など人々を取り囲む社会の枠組みからの決別を、イエスが要求されたことです。
聖書をたどると、血縁・地縁から離脱するという思想は、ヘブライ精神の、最も深いところにその原点があることに気がつきます。 旧約聖書の最初の11章、天地創造の物語から、バベルの塔の物語までを原初史と言いますが、その原初史の共通のテーマは、罪であります。最初に神が創造された秩序が人間の罪によっていかに破壊されて行ったかが書かれています。「アダムとエバによる人類最初の罪」、「弟を殺すカインの罪」、「罪の増大とノアの洪水」、そして「人が神になろうとしたバベルの塔」です。この罪の物語が終わったところで、アブラハムの物語が始まります。創世記の12章の1節です。
<主は、アブラムに言われた、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。」>
これは、まさに血縁、地縁を離れることを意味しています。これがイスラエル民族の始まりです。その意味するところは、「神を結び目とする新しい共同体」の形成です。地縁・血縁は、麗しいが、また罪を育むものでもあります。アブラハムは、その使命を担って未知に国に向かって旅立ったのです。
イエスのエルサレムへ向かう決意は、言うまでもなく、十字架上の死と復活を意味しています。イエスは、今まさに、「神を結び目とする新しい共同体」を造るために動き出されたのです。そのようなイエスに従う者には、血縁・地縁からの離脱がどうしても必要でした。 わたしたちも日常生活に埋没してしまいますと、知らず知らずのうちに、人生の本当に大切なものが見えなくなります。 そういうときには、一度、現実を離れてみる。そうすると、本当に大切なものが見えてきます。「現実への埋没」と「現実からの離脱」、この両者の間に引き裂かれる痛みを、時に味わうことが、人間を成長させ、人間の幅を作っていくのではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、弟子たちに次のように言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命の失う者は、それを救うのである。」>[ルカによる福音書 9:23−24]
ルカによる福音書は、西暦90年頃、ローマで書かれたという説が有力です。当時、ローマの教会には、初代教会時代において最も激しいといわれるドミティアヌス帝による迫害の嵐が吹き荒れていました。この聖句には、「殉教を恐れるな」と言うメッセージが込められているというのです。 そういう意味で、今日の聖句、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。・・・」と言う言葉は、相当厳しい言葉です。
わたしたちは、聖書を読んでいると、時々、互に矛盾するのではないかと考えざるをえないような言葉に出会います。この言葉もそうです。マタイによる福音書の11章28節に、皆さん良くご存知の言葉があります。
<疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
・・・わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。>
この言葉が大好きで、この言葉に引かれるように教会に来るようになった方も多いのではないかと思います。しかし、そういう思いで、教会に来ると、全く違う話を聞かされる。そんな態度では駄目だ、あなたがたも十字架を背負いなさい、と言うわけです。どのように理解すればよいのでしょうか。
最近、一人娘横田めぐみさんを北朝鮮に拉致された横田早紀江さんの手記を読みました。その手記にこのように記しておられます。
<もともと私はそんなに強い人間ではないし、人前に出るのも苦手なのです。しかし、いろいろなことを経験させられて、変わらざるを得なかったのです。それ以上にいつも神さまがそばにいて、語る言葉を与え、考えを与えてくださり、支えられてここまで来られたのだと思います。めぐみの事件やその後の救出活動などを通して、確かに大変なところを通らされますが、その中にあって、心の底では私はいつも平安でした。>(『ブルーのリボンの祈り』p170)
私は、「主にゆだねて生きる」ことの大切さを思います。「自分の十字架を背負って生きる生き方」は、自ら計って生きる生き方ではなく、自分と自分の回りの状況をすべて受け入れ、神さまにすべてをゆだね、神さまによって与えられる生き方です。そのとき、「わたしの軛は負いやすい」と言われたことと、「わが十字架を負いなさい」と言われたことの矛盾は消滅してしまうのではないでしょうか。主にゆだねる生き方は、決して消極的な生き方ではありません。ある意味で、それは極めて積極的で、責任を負った、勇気のいる生き方でもあります。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。・・・あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ないものは、愛することも少ない。」>[ルカによる福音書 7:44−47]
「今日の聖句」は、イエスが、ファリサイ派のシモンの家に食事に招かれたとき、イエスが言われた言葉です。シモンは、イエスを招いておきながら、客であるイエスの足も洗わず、オリーブ油も塗らなかった。シモンの代わりに、足を洗い香油を塗ったのが、罪深い女と人々からさげすまれていた一人の女性です。彼女は、そっとイエスの足もとに近づくと、突然、涙で足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油をぬりました。
それを見たシモンは、心の中でつぶやきます。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。シモンの心の動きに気づかれたイエスが、一つの譬えを話されます。
<イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ。」と言われた。> [ルカによる福音書 7:41−43]
正しく答えたシモンに、イエスが言われた言葉が、「今日の聖句」です。「この人を見ないか」。イエスは、シモンに、本当の自分を気づかせようとされました。シモンの問題は、この譬えを、自分とは無関係だと思って聞いたことです。シモンは、自分は五百デナリオンの借り手でも五十デナリオンの借り手でもないと思っていたのです。しかし、イエスは、お前だって、五十デナリオン位の借金はあるのだよ、と言われたのではなかったでしょうか。
ファリサイ派の人々は、当時のユダヤの社会において、最も真面目で、信仰深い人々でした。ファリサイ派というのは、「分け隔てする」という言葉からつけられた名前です。自分たちだけは、正しく、特別であると信じていた人々でした。
しかし、主イエスは、自分が正しい、自分には罪が無いと思っている限り、神さまの愛を知ることはできない。むしろ、却って、救いから最も遠いところにいるのだ、と言われたのです。それが、「赦されることの少ないものは、愛することも少ない」という言葉の意味です。
わたしたちも、自分自身の顔や背中を自分で見ることができないように、自分自身の本当の姿に盲目なのではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。>[ヨハネによる福音書 16:12−13]
聖公会では、教会暦を大切にします。教会暦は、クリスマス、イースターを中心にイエス・キリストの生涯をたどるように作られていますが、今日の三位一体主日だけは、神学的な教義上の名前が付けられています。
最近、新聞紙上では、三位一体の地方財政改革といった文字をよく目にしますが、本来、この三位一体という言葉は、わたしたちが信じる神、すなわち、「父と子と聖霊なる神」を表すものです。三位の「位」は、人格を意味します。ラテン語ではペルソナといい、仮面を表します。つまり、三位一体は、一人の役者が、仮面をつけることにより、何人もの人物を演じ分けるように、神さまは、わたしたち人間に、多様な形でご自身を現されますが、その本質は一つであることを表しているのです。
このように、三位一体と言いますと、どうしても理屈っぽくなりますが、今日は、この言葉から二つのメッセージを受け取りたいと思います。
第一のメッセージは、わたしたち自身の存在を含めて、この地上のすべてのものが、唯一の神の一つの意思によって成り立っているので、『わたしたちは必ず理解し合えるという希望を持つことができる』、ということです。
世界では、戦争やテロが絶えません。また、目をそむけたたくなるような悲惨な事件が日々報道されます。平和や一致への願いは、無残にも打ち砕かれ、絶望に陥りそうになります。しかし、平和への努力を再び始めようとするとき、どの人も、どの民族も、どの人種も、唯一の神の一つの意思によって造られたものであるという確信だけが、どの人も、どの民族も、どの人種も必ず理解し合えるという「希望のしるし」となるのではないでしょうか。
第二のメッセージは、『わたしたち一人ひとりが、もっと豊かで多様な形で神と出会うことが許されている』、ということです。
三位一体の教理は、初代教会時代に次第に精緻になっていきますが、その根底にあるものは、イスラエルの人々の千年以上にわたる神との豊かで多様な出会いの経験です。アブラハム、モーセ、預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、誰も、心底に迫ってくる声に従って未知の冒険に旅立っていきました。神経験の究極は、イエスとの出会いです。イエスの弟子たちは、この世に生き、十字架上に無残に死んでいった人間イエスの中に、唯一の神にしかないもの、「真実の愛」を、見たのです。
現代のわたしたちにも、神さまとの豊かな出会いが用意されています。辛いときは辛い、悲しいときは悲しい、嬉しいときは嬉しいと、もっと率直に神さまにぶつかっていきたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |