今週のメッセージ――主日の説教から


2004年3月28日(日)(大斎節第5主日 C年) 晴れ
「 現代の宣教 」

――今日の聖句――
<すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」 そこで、王は答える。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」>[マタイによる福音書 25:37−40]

 現代の教会にとって一番大切なことは、「礼拝」と「宣教」と言われますが、「宣教とは何か」は必ずしも明確ではありません。宣教理解は、これまで歴史と共に変ってきました。「現代の宣教」を理解するためには、その前の時代(近代)を振り返る必要があります。

 近代は、しばしば啓蒙主義時代と呼ばれますように、「人間中心主義」、「人間の理性に対する信頼」が著しく高まった時代でした。貧困も戦争も、人間の知恵によって、やがては解決されるという楽観論が支配しました。欧米のキリスト教各派は、このような時代雰囲気の中で、国家の帝国主義的植民地支配に相乗りして、世界布教に乗り出していきました。しかし、その結果は、富める国と貧しい国の貧富の差を一段と拡大させ、二度にわたる世界戦争を引き起こしてしまったのです。こうして、「人間の理性に対する信頼」は決定的に挫折し、同時に、キリスト教各派の、世界宣教も挫折してしまいしました。

 このような近代の廃墟の中から、宣教の新しい芽が現れてきました。今日は、この新しい芽の中で、三つのことに注目してみたいと思います。

 第一は、「ミッシオ・デイ」(神の宣教)という神学です。ミッシオ・デイとは、「宣教は、神ご自身がなされるこの世のすべての人に対する愛の活動である」という考え方です。つまり、宣教が先にあって、それに仕えるために教会があるのであって、その逆ではないということです。教会は、この神の愛の活動に参加することにその存在がかかっているということです。

 第二は、教会と社会との関係について、「他者と共にある教会」という考えが、受け入れられたことです。それまでの教会は、社会にほとんど関心を持っていませんでした。しかし、神が、教会に来る人たちのためだけでなく、この世のすべての人たちのために働いておられるとすれば、教会は、世の中に出て行き、世の中との連帯が不可欠となりました。

 第三は、「正義と公平(平和)を求める教会」という考え方です。近代では、教会と国家は、一見密着していましたが、本質は、国家は公共的世界を担当し、教会は精神的な私的世界を担当するという棲み分け(政教分離)が進みました。その結果、教会は、社会の構造や政治に不正義や不公平があっても、それに挑戦する術を失ってしまったのです。しかし、第二次世界大戦中の多くの非人道的行為を教会が黙認してきたことへの責任、戦後の植民地独立運動や人権運動において教会はどこに立つかということ、また、核兵器や地球環境汚染などの問題にどう関わるかということ、これらを契機にして、教会がミッシオ・デイに参画しょうとすれば、これらの問題に黙っていることは誠実でないと考え始めたのです。

 教会は、今、大きな変革の過程にあります。いくつかの新しい芽がありますが、それらを総合して、具体的な宣教活動に編み上げていくのはこれからの大きな課題です。

(牧師 広沢敏明)


2004年3月21日(日)(大斎節第4主日 C年) くもり
「 宣教の意味 」

――今日の聖句――
<神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。>[ヨハネによる福音書3:16−17]

 時々、教会で何が一番大切か、ということが議論になります。礼拝(祈り)か、宣教(伝道)か、奉仕か、平和運動か。わたしたちの教会では、「礼拝(聖餐式)」と「宣教」が、同じように一番大切だと考えています。

 それは、車の両輪にも、二つのものの間の緊張関係にもたとえられます。それは、この二つのもの、つまり「礼拝(聖餐式)」と「宣教」がバランスが取れているとき、教会は健全に歩いていくことができると考えているからです。

 その根拠は、「今日の聖句」にあります。それは、イエス・キリストがこの世に来られたのは、すべての人、つまり、今教会に集まっている人たちだけでなく、教会の外にいるクリスチャンでない人たちの救いのためにも来られたからです。

 宣教という言葉は、かつては、宣教師が海外の非キリスト教国で布教活動を行うことを意味していましたが、最近は、もっと広い意味で使われるようになっています。

 「神がこの世を愛しておられる」、「すべての人を救おうとしておられる」ということは、神とこの世が深い関係にあり、神は常にこの世で働いておられることを意味しています。宣教とは、その働きに、わたしたちが参画していくことと理解したいと思います。

 そのように宣教を理解すれば、クリスチャンでない人々に、イエス・キリストを伝えることは、もちろん宣教の重要な基本の一つですが、社会の中で弱い立場にいることを余儀なくされている人たちに共感を持ち、或いは、一人ひとりが、自分の周りにいる人たちに関心を持ち、自分ができることをしていくこと、これも宣教です。

 歴史を見ると、初代教会以降の各時代において、宣教は色々な姿を取りました。初代教会時代の弟子たちは、イエスの宣教(「イエス運動」)を継承しました。その核心は、ユダヤ人もギリシャ人も、金持ちも貧しい人も、健康な人も病気の人も、自由人も奴隷も、すべての人を同じ食卓に招くことでした。これは、当時の身分社会、奴隷制社会では革命的なことでした。その革命性のゆえに、イエスは十字架につけられねばなりませんでしたが、また、その革命性のゆえに、迫害下にあってもクリスチャンは増えていったのです。

 しかし、その後の歴史は、中世、近世を通じて、教会は国家と結びつき強大な富と権力を持つにしたがって、人々を強制的に、時には拷問によってでも教会に連れてくる時代が続きました。現代の教会は、前世紀の二度にわたる世界大戦の経験を通じて、大きな変革を遂げようとしています。このとき、わたしたちは、イエスの宣教(「イエス運動」)を、もう一度、しっかり見つめなおす必要があるのではないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2004年3月14日(日)(大斎節第3主日 C年) くもり
「 教会は、いやしの場 」

――今日の聖句――
<あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。    あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。>[ヤコブの手紙5:13―15]

 「初代教会において、「福音の宣教」と「聖餐式」と並んで、大切にされたことは、「いやし」でした。
 主イエスは、およそ30歳になられたとき、宣教活動を初められましたが、その最初は、人々の前に、民間の治療者、いやし人として衝撃的なデビューをされたのです。その評判を聞いて、人々は、わんさと集まるようになったのです。
 聖書に沢山書かれている「いやしの奇跡」を、もう少し深く知ろうとすれば、当時の人々の病気の実態を知る必要があるように思います。

 社会学や文化人類学では、病気を三つに分けます。@生物・医学的な病気、 A文化的な病気、 B社会的な病気です。
 文化的な病気は、例えば、律法で、「生理期間中の女性は汚れている」とされているならば、長い期間出血に苦しんだ女性は、肉体的な病気のほかに、汚れた女としての汚名を着せられ、世間からの差別に苦しまねばならなかったことです。
 また、社会的な病気は、例えば、当時、ローマ帝国の支配下にあって、富が一方的に収奪されるという政治的・社会的状況の中で、大多数の庶民は慢性的な栄養失調状態にあり、そのため、病気抵抗力がなく、多くの人々が若くして命を落とさざるを得なかったことです。

 イエスの「いやしの奇跡」を、このような文化的、社会的な土壌を背景に見れば、イエスが問題にされたのは、この文化的、社会的病気を含む、人々の全人的な病気だったことが分かります。人々は、身体的・肉体的疾患や障害だけでなく、むしろ文化的・社会的な圧迫のために苦しんでいたのです。

 主イエスの病気の人に対する、「あなたの罪は赦された」「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神に業がこの人の上に現れるためである」の言葉は、このような背景を知るときよく理解できます。文化的・社会的桎梏から解放された人が、たちまちいやされたのも当然かも知れません。

 文化的・社会的病気は、現代も無縁ではありません。ある意味では、より深まっているともいえます。現代の家庭や家族の絆は、かつてなく弱まり、一人ひとりがばらばらに生きています。一方、社会のストレスは、かつてなく深まって、人々はその中でもがいているのです。心の病が急増していること、残酷な事件が増えていることは、それを指し示してはいないでしょうか。

 教会は、「いやし」の力を、もう一度取り戻すことが必要です。教会は「いやし」を売り物にしてはなりませんが、教会は、本来「いやし」の場であるべきなのだと思います。

(牧師 広沢敏明)


2004年3月7日(日)(大斎節第2主日 C年) くもり
「 初代教会の熱心 」

――今日の聖句――
<信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。主は、救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。>[使徒言行録 2:46−47]

 「ルカによる福音書」を書いたルカは、その後編として、主イエスが十字架にかけられて殺された後の弟子たちの生活や働きを記しました。それが、「使徒言行録」と言われているものです。西暦の30年頃から70年頃までの教会の出来事が書かれています。

 「今日の聖句」は、そのころの信者たちの生活を表しています。現在のわたしたちの教会生活と重ねながら、繰りかえし味わってみたいと思います。何を感じられるでしょうか。初代教会時代の信者たちの貧しいけれども、心豊かに、ひたすら神を求める熱心が伝わってこないでしょうか。

 主イエスは、弟子たちに「わたしに従いなさい」と言われました。弟子たちは、必死でイエスに従おうとしました。同じ言葉はわたしたちにも投げかけられています。わたしたちは、どのくらい一所懸命従おうとしているでしょうか。

 現代の生活は、2000年昔とは比較にならないくらい複雑化しています。また、神を無用とする世俗化の風潮が広く世の中を覆っています。世の中は、24時間、365日動いており、日曜日、教会に行きたくても行けない仕事も少なくありません。

 「次の日曜日は、仕事の都合で、教会にいけません」と言われれば、「それはだめです」と言う牧師はまずいないでしょう。まして「そのような仕事は止めなさい」と言う乱暴な牧師は皆無でしょう。現代は、仕事がオールマイティの時代になっています。仕事がすべてに優先するのです。

 しかし、「仕事を止めなさい」と言うのも問題ですが、「仕事が忙しければ教会を休んで当たり前」と言うのもやはり問題があるように思われます。真理は、その間にあります。

 現代は、クリスチャンだからという理由で、迫害を受けることはありません。そのために、信仰が試されることがなくなりました。せめて、現実の重さに妥協してしまわないことが重要ではないでしょうか。

 「現実の重さ」と「イエスに従うこと」の葛藤や緊張関係を大切にしたいと思います。もし、それがなければ、真の仕事の意味も発見できないかもしれないからです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update 2004/May/04 (c)練馬聖ガブリエル教会