――今日の聖句――
<五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。>[使徒言行録 2:1−4]
今日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)です。古くから、教会誕生の日として祝われてきました。イエスの弟子たちが、「ユダヤだけでなく、ほかのあらゆる国の言葉で話し始めた」ということは、世界中にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられる最初の出来事となったことを表しています。
この出来事と全く正反対の物語が、旧約聖書にあります。創世記11章の有名な「バベルの塔」の物語です。
<世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。・・・彼らは「さあ、天にまで届く塔のある町を建て、有名になろう。」・・・主は降って来て、塔のある町を見て言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているからこのようなことを始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱(バラル)させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしよう。」>[創世記11:1-7]
「さあ、天にまで届く塔のある町を建て、有名になろう」、これは、人間の限りない欲望、つまり、「人間が神になろうとしていること」を表しています。旧約聖書における、罪の考え方の根本がここにあります。罪とは、神に逆らい、神から離れることですが、その最も重い罪は、「神になろうとすることだ」と、旧約聖書の人々は考えたのです。神はそういう人間の企てを阻止するため、言葉を通じなくさせられました。言葉が通じなくなれば、その集団は、一つになることができず、ばらばらになり崩壊するしかありません。
「人間が神になろうとすること」、このことを別の言葉で言えば、「人が人を支配しようとすること」です。本来、平等であるべき人と人の関係において、誰かが誰かを支配することは、神になろうとすることと同じなのです。
教会は、「この戒め」を非常に大切にしてきました。教会は、社会と遊離してはなりませんが、また独自性もなければなりません。その独自性の最大のものは、「教会では、人が人を支配しない」ということです。
聖霊降臨の出来事は、神になろうとするのではなく、神に従おうとする出来事です。聖霊は、「神の息」、神の「いのち」です。人は、心のどこかで神になろうとする思い、人の上に立とうとする思いを捨て切れません。しかし、わたしたちが、神さまのために何かできること、他者のために何かを始めるとき、「神の息」が注がれ、人と人の言葉が通じ、心が通い合い、一つになることができるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな。 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。」>[ヨハネによる福音書 14:27−28]
「今日の聖句」は、先週に続いて「決別の説教」からです。イスカリオテのユダが、夜の闇に消えていくと、イエスは、残りの11人の弟子たちに語り始められました。イエスが十字架にかけられた後、残される弟子たちへの愛に溢れた遺言とも言えるものです。
弟子たちは、これまで3年間、イエスと寝食を共にし、旅を続けてきました。イエスは、「神さまの国」のことを語り、多くの病人をいやし、ガリラヤ湖では嵐を静め,ファリサイ派の人の論争に勝たれました。弟子たちは、もうイエスなしにいることなど考えられなくなっていました。
しかし、イエスは、このような弟子たちに、自分がこの世を去らねばならない時期が近づきつつあることを告げられます。弟子たちは、その真意が理解できないながらも、深い不安にとらわれ始めます。その弟子たちにイエスは語られました。
「心を騒がせるな、おびえるな。わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与える ように与えるのではない。」
わたしたちは、どのように平和をイメージするでしょうか。「戦争や争いのない状態」「幼子の上にかがみ込んで子守唄を歌う母親の姿」など。しかし、イエスは、わたしたちがいかに豊かな平和のイメージを描こうとも、それは、必ずしも「わたしの平和」ではない、と言われるのです。
イエスは、「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と約束されました。「イエスの平和」とは、「イエスが共におられること」なのです。
考えてみれば、わたしたちがイメージする平和は、人生のある一瞬を切り取ったものです。それは理想化された平和です。わたしたちの描く平和が、長くそのまま続くことはありません。しかし、わたしたちは、そのような平和が崩れたとき、動揺し、不安に陥り、おびえます。現実の世界の日常は、常に変化し、ダイナミックで、葛藤の多いものです。主イエスは、その日常の葛藤の中での「平和」を弟子たちに与えられたのです。それが「イエスの平和」です。
実際、イエスが十字架の上に死なれた後、この世が与えるような平和な人生を過ごした弟子はいませんでした。弟子たちは、主イエスが命じられたように、宣教の旅に出発し、ほとんどすべての弟子が、殉教の死を遂げたと伝えられています。彼らには、この世的な平和はなかったかも知れない、しかし、主イエスと共にいる平和の中にはあったのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」>[ヨハネによる福音書 13:34−35]
ヨハネによる福音書によれば、主イエスは、十字架にかけられる前夜、最後の晩餐の後、弟子たちに長い話をされました。「決別の説教」と言われます。「今日の聖句」は、その中の言葉です。この後、一人で歩いてゆかねばならない弟子たちに対する遺言です。それだけ重い言葉です。
最初に、「新しい掟」とあります。「掟」という言葉は、「戒め」と訳した聖書もありますし、「命令」と訳した聖書もあります。「掟」、「戒め」、「命令」、どの翻訳がよいかは難しいところです。要するに、弟子たちにとって「互いに愛し合うこと」は義務だということです。
わたしたちは、心の中に自然に生まれる愛を知っています。親子の愛、友情、男女の愛であります。しかし、また、それらの愛が移ろいやすく、変化し易いものであることも知っています。
主イエスは、そのような自然に湧き出してくる愛に自分を任せるのではなく、自分の意思として、主体的に愛し合いなさい、と言われたのです。
そのような愛は、窮屈で仕方がない、愛はもっと奔放なものではないか、と思われるかもしれません。しかし、日々、新聞やテレビで報道される悲しい、悲惨な争いや事件は、人間が、自制を忘れ、憎しみや怒りに身を任せることによって、いかに自分を束縛し、相手を束縛してきたかを表しているのではないでしょうか。
主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われました。主イエスが愛されたように愛することなど、そんなことは不可能だと、初めから諦める人もいるかもしれません。大切なことは、また、愛することより難しいのは、わたしたちが、主イエスに愛されていることに気づくことです。それは、わたしたちが、どれだけ多くに人々の好意と配慮に支えられているかということに気づくことでもあります。それに気づいた人は、難しくても、愛することを始めることができます。
「互いに愛し合いなさい」という主イエスの命令は、余りにも自分本位に固まっている心を解きほぐす力です。また、それは、人が、憎しみのために絶望と孤独にある時、憎しみから目覚めさせ、主体的な愛に立ち返らせる力でもあるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか、もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」>[ヨハネによる福音書 10:24−27]
当時、イスラエルは、ローマ帝国の支配下にありましたが、そのローマ帝国、及び傀儡政権に対する抵抗運動に二つの流れがありました。一つは、武力による抵抗運動で、これはメシア運動と呼ばれました。もう一つは、非武力による抵抗運動で、これは預言運動と呼ばれました。そして、そのいずれの運動も、メシアの到来を待望していました。
メシアというのは、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味で、端的には「王」を表しています。イエスを取り囲んだユダヤ人がイエスに向かって「もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい」と言ったのは、「武力による王」への待望を表していますが、その発言の裏には、お前のようなみすぼらしい者が、われわれが待ち望むメシアなどであるはずがない、という底意地の悪い心根が見えています。
イエスは、自分は、お前たちメシア運動家が期待するようなメシアではないとはっきり否定されます。
紀元前6世紀の預言者イザヤは、非武力によって平和を回復し、束縛の下にある人々を解放するメシアを、「主の僕」として描きました。
<彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、
暗くなっていく灯心を消すことがない。>[イザヤ42:2−3]
<打とうとする者には背中をまかせ、 ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。>[イザヤ50:6]
イエスは、真のメシアは、このような姿で、この世に来られるのではないか、そして、武力によるメシアを求める限り、メシアに出会うことはないだろう、と断言されたのです。
今、わたしたちは、イラクやパレスチナでの、武力と武力の応酬を思わずにはいられません。現実の重みを見失ってはなりませんが、主イエスが貫かれた「非武力による平和実現の道」を、愚直に歩んで行きたいと思います。使徒パウロが、次のように言ったことを、心に刻みたいと思います。
<神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。>[コリントT 1:25]
(牧師 広沢敏明)
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