今週のメッセージ――主日の説教から


2004年11月28日(日)(降臨節第1主日 A年) 晴れ
「 平和の君 」

――今日の聖句――
<主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。  彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。  国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。 >[イザヤ書 2:4]

 今日から、教会のカレンダーでは新しい年が始まります。そして、降誕日までの4週間をアドベント(降臨節)と言います。今日は、祭壇のアドベント・クランツのろうそくには1本灯が点りました。日曜日毎に1本ずつ増えて4本すべて点ればクリスマスです。この期間は、主イエスの降誕を待ち、主イエスを迎える心の準備をする期間です。この「待つ」ということが、この期間の主題です。「待つ」ということについて、大切なことは、「誰を待つか」ということと、「どのように待つか」ということです。

 今日の聖句は、「わたしたちが待つ方は誰なのか」を表しています。預言者イザヤは、紀元前8世紀、イスラエルが超大国アッシリア帝国によって蹂躙される有り様をつぶさに経験し、その中で「平和をもたらすメシア(救い主)」の到来を預言しました。

 私の友人が、今日の聖句は、ニューヨークの国連ビルに向かう道路際の壁に書かれていることを教えてくれました。正に、これは国連の基本精神を指し示しています。

 また、この聖句は、ヨルダンからイスラエルに入る道路が通る橋の傍らの記念碑にも刻まれているそうです。紛争に明け暮れる地域、しかも預言者イザヤがかつて活躍した地域の人々の平和への思いが込められていることを感じます。

 また、この聖句は、わが国現行憲法の根本精神でもあります。今、イラクへの自衛隊派遣を巡って国論は二つに分かれています。また、憲法改正が国会で論議されようとしています。この時、この聖句と共に、日本国憲法の前文と第9条(戦争の放棄)を読み返すことは極めて意味あることではないでしょうか。

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しょうと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと願う。」(日本国憲法前文より)

 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」(日本国憲法第9条より)

 わたしたちは、戦後、永久の平和を願い、戦争の放棄を誓いました。戦後60年を経過したこのとき、もう一度、戦争直後の原点に戻って、平和とわたしたちのあり方について深く問い直す時期に来ているように思います。

(牧師 広沢敏明)


2004年11月21日(日)(降臨節前主日 C年) 晴れ
「 自分自身を救えないメシア 」

――今日の聖句――
<民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭に上には、「ユダヤ人の王」と書いた札が掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか、自分自身と我々を救ってみろ。」>[ルカによる福音書 23:35−39]

 教会のカレンダーでは、2004年の最後の主日となりました。この日は伝統的に「王であるキリストの主日」と呼ばれてきました。わたしたちの主であるキリストは、どんな王なのでしょうか。

 今日の聖句は、イエスのこの世における最後の場面です。福音記者ルカが、それまでイエスの生涯を描きながら伝えようとしたことが、ここに凝縮されています。ルカが伝えようとしたことは、「我らの救い主は、他人は救うが、自分自身を救えない方だ」ということです。短い文章の中に、3度もこのことが繰り返されることに注目したいと思います。議員も、ローマ軍の兵士も、イエスの横で十字架につけられた犯罪人の一人も、嘲笑い、侮辱し、ののしって言います。「お前がメシアなら、自分自身を救ってみろ。」議員や兵士や犯罪人の一人は、それを見ていたすべての民衆を代表しています。

 もし、わたしたちがその場にいたとしたら、わたしたちも、「イエスよ、なぜ自分を救わない。なぜ十字架から降りてこない。なぜ、今、奇跡を起こさない」、「あれだけ多くの病人をいやし、ガリラヤ湖で嵐を静め、一度死んだラザロを生き返らせたイエスが、なぜ、自分一人救えない」、と叫んだかもしれないと思います。

 しかし、「他人を救って、自分自身を救えない」、ここに、ルカは神の業を見たのです。イエスの生涯の完成を見たのです。

 わたしたちの生き方を振り返ってみましょう。わたしたちは、できるだけ他人に頼らないように教育されて育ちます。これはこれで間違ってはいないのですが、その中で、あたかも、自分は自分だけの力で生きていける、自分にできないことは何もないと考える不遜な人間ができてきます。だが、人間は他人に頼らなくても生きていける存在でしょうか。自分自身を自分で救うことが可能でしょうか。決してそうではありません。誰一人、自分自身の力だけでこれまで生きてきた人はありませんし。現在、自分自身の力だけで生きている人はいないのです。わたしたちの現在の生活、米一粒、下着1枚、水一滴とってみても、どれ一つ他人に頼っていないものはないのです。

 基本的に、人間は、一人では生きていけず、人に頼らないと生きていけない存在です。しかし、自分を救うことはできないけれども、他人を救うことができるかもしれない存在なのです。この真実を、主イエスは、十字架にかかることによって、わたしたちにはっきり示してくださったのです。わたしたちは、イエスの横で、イエスをののしって死んだ悪い方の犯罪人かもしれません。しかし、そのようなわたしたちの横にも、主の十字架が立っているのです。

(牧師 広沢敏明)


2004年11月14日(日)(聖霊降臨後第24主日 C年) くもり
「 教会の預言者的使命 」

――今日の聖句――
<「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。・・・そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、おそろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかしこれらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張っていく。・・・わたしの名のためにあなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」 >[ルカによる福音書21:9−18]

 今日の聖句は、「小黙示録」と言われてところです。「黙示」と訳された元の言葉は、「覆いが取り除かれる」という意味で、「それまで見えなかったものが、見えるようになる」ことです。黙示録と言いますと、普通、未来に起こるこの世の恐ろしい最後の状況を描いているように考えられていますが、著者の真意は、むしろ、今、目の前で現実に起こっていることの意味を明らかにし、その厳しい現実に中でいかに生きていくかを語ることにあるようです。

 ルカによる福音書は、西暦7、80年頃書かれました。イエスの弟子たちの宣教活動が、地中海沿岸各地に広まり、信徒が急速に増えつつあった時代です。しかし一方、ユダヤ教との対立が鮮明となっていった時期でもありました。まだ、ローマ帝国による組織的な迫害は始まっていませんでしたが、ユダヤ教による陰湿ないやがらせや迫害は執拗に続いていました。この迫害の状況は、ルカが福音書の続編として書いた「使徒言行録」に詳しく書かれています。ルカは、今日の聖句の箇所を書きながら、自分が描いた使徒現行録の弟子たちの苦難を一つひとつ思い出していたのではなかったでしょうか。それは、ルカが、その時、現実に直面していることだったのです。

 現在の日本では、クリスティアンだという理由だけで、訴えられることも、差別されることも、迫害を受けることもありません。だからと言って、ルカが語っていることを、単なる昔話として読み過ごしてしまってよいのでしょうか。現代の日本でも、本気になって主イエスの言葉と行い通りに生きようとすればどうでしょう。迫害を受けないとは言い切れません。私は、最近、国の重要な政策が、政府の一方的な意見だけで、事がどんどん進んでいくことに強い危惧を感じています。これに対して反対の声をあげる。 聖書の時代において、その役割を担ったのは預言者でした。預言者が生きた旧約聖書の時代も今の時代も、ある意味でよく似ているのではないでしょうか。大国に意向に追随する権力者、業者から賄賂を取って私腹を肥やす役人、自らの利益のために法を犯す企業家。その一方で、多くの人々が職を失い,きつい管理の下で苦しんでいます。

 教会は、この預言者の使命を受け継ぐ者です。これを教会の預言者的使命と言います。

 わたしたちが、預言者的な働きができるかどうかは、わたしたち一人ひとりの力を超えたところから与えられるものです。その時には、神の恵みの手がわたしたちをしっかり支えてくださいます。主イエスは、「あなたがたの髪の毛一つ決してなくならない」と約束してくださいました。わたしたちは、一歩をなかなか踏み出せなくても,少なくてもその方向に向き直りたいものです。

(牧師 広沢敏明)


2004年11月7日(日)(聖霊降臨後第23主日 C年) 晴れ
「 神につながって生きる 」

――今日の聖句――
<さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄ってきて、イエスに尋ねた。・・・イエスは言われた。「この世の子らはめとったりと嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」>[ルカによる福音書 20:27、34−36]

 今日は、69回目の創立記念日です。原点にさかのぼって、教会という集団は、どういう集団なのか、その意味を再確認したいと思います。

 今日の聖句の最初に、「復活を否定するサドカイ派の人々が近寄ってきて、イエスに尋ねたとあります。」サドカイ派というのは、神殿の祭司や貴族など、当時のユダヤ社会で上流階層を形成していた人々と言われています。当時、サドカイ派の人々だけが復活を否定していたわけではありません。もともと旧約聖書には、復活の考えはありませんでした。ごく後期になって、その萌芽が現れますが、伝統的には、死ねば地底深くの陰府に降り再びそこから出てくることはないと考えられていました。サドカイ派の人はある意味で現代人と同じ合理主義的な考えの持ち主で、一度死んだ人が、生き返ったり、立ち上がったりするとは考えられませんでした。

 現代の生理学や医学における人体に関する研究は飛躍的に進歩し、遺伝子の構造まで明らかになってきています。わたしたちも、復活ということを考えるとき、このサドカイ派の人々と同じように、どうしても生物学的な、或いは物理学的な考えから抜けられないように思います。しかし、イエスは、そういうレベルでの話をされているのではないということです。つまり、イエスは、サドカイ派やわたしたちの考えとは、全く次元の異なることを話されているということです。

 イエスが問題にされているのは、「いのち」ということです。わたしたちが、今ここに生きている「いのち」です。わたしたちは、今、ここに、どうして生きているのでしょうか。わたしたちは、自分がなぜ日本人に生まれたのか、なぜ男或いは女に生まれたのか、知りません。科学がいくら進歩しても、これを明らかにすることができるようには思われません。わたしたちは、選んでこの時代に生まれてきたのでもありません。気がついたらここにいたのです。その厳粛な事実を、わたしたちの「いのち」は神から与えられた、わたしたちの「いのち」は神とつながっている、わたしたちの「いのち」の根拠は神にある、と考えるのです。そして、わたしたちの「いのち」が神とつながっている限り、わたしたちの「いのち」も死ぬことがないと考えるのです。これが、イエスが言われた『この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』という言葉が意味していることです。

 この「神につながって生きている集団」、それが教会です。ですから、教会は特別な使命を帯びているのです。それは、この世の中で、神の計画に参画することです。何をすることが神のご意思なのか、わたしたちは深く学んでいかなければなりません。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Dec/07/2004 (c)練馬聖ガブリエル教会