――今日の聖句――
<イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通りすぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた。>[ルカによる福音書19:1−6]
今日の聖句は、「ザアカイの物語」です。ルカ福音書の語り口は、極めて簡潔です。徴税人の頭、ザアカイが木に登るという奇妙な行動と、イエスが、突然、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたこと、その背後に何があるのか、わたしたちは、少し想像力を働かせることが必要となります。
当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、徴税人はローマから徴税の仕事を請け負っている人々でした。他国のために、自国民を苦しめる売国奴とさげすまれ、そのため罪人と呼ばれていました。ザアカイが、その仕事を自ら始めたのか、親から譲り受けたかは分かりませんが、世襲が通常の時代ですから、多分、父親から譲りうけたのでしょう。
そうだとすると、それまでの彼の人生は、どんな人生だったでしょうか。経済的には恵まれていたでしょうが、物心ついたときから、罪人、徴税人の子供とののしられ、軽蔑と憎しみに満ちたまなざしにさらされてきたのではなかったでしょうか。また、背が低いため、チビチビといじめられて来たでしょう。外見は、威勢よく、元気にふるまっていたかもしれません。しかし、心の中は、常に孤独でさびしく、歯を食いしばって毎日を生きていたのでしょう。人知れず涙を流したこともあったでしょう。
その彼に、イエスの噂が伝わってきました。彼が、盲人や皮膚病がいやされるのなら、徴税人の罪もいやされるのではないか、という思いに捉われたとしても不思議ではありません。もう居ても立っても居られなくなりました。なんとしてでもイエスを一目見たい。その思いが、彼を木に登らせたのではなかったでしょうか。「急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。このイエスの言葉は、ザアカイの思いをしっかりと受け止めました。人の心のあたたかさをとやさしさに飢えていたザアカイが、初めて触れた、人の愛情でした。それは、氷のように冷たく固まっていたザアカイの心をあたたかく包み、溶かし始めたのです。この時から、ザアカイは新しい人生を歩き始めました。
わたしたち、この「ザアカイの物語」をどのように聞くでしょうか。どの時代にも、ザアカイのような人はいます。また、わたしたち自身がザアカイかもしれません。 わたしたちは、現代のザアカイに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言うことができるでしょうか。 やや飛躍するかも知れませんが、日本の教会の将来は、わたしたちが、現代のザアカイに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言えるかどうか、それをどのくらい本気で考えているかにかかっているのかもしれません。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々にも、イエスは次のたとえを話された。二人に人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神さま、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の10分の1を献げています。』ところが徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神さま、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であってファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」>[ルカによる福音書18:9−14]
今日の聖句にある譬えには、二人の人物が登場します。一人のファリサイ派の男と一人の徴税人です。
先ず、ファリサイ人は、盗む者、不正な者、姦淫する者、また、徴税人のような者でないことを感謝して祈り始めます。続いて、自分が、いかに立派かということを申し述べます。ファリサイ派というのは、当時のイスラエルにあって、最も宗教的で、真面目な人々でした。神からモーセに与えられた律法を守ることに、命を掛けていた人々です。
これに対し、徴税人は、自分を誇ることは何も言わない。彼は、自分が嫌われ者であり、自分が神の前に有罪であることを知っている。彼ができることは「神さま、わたしを憐れんでください」言うだけであった。当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、徴税人は、そのローマから徴税の仕事を請け負っていた人たちです。ローマの権威をかりて相当あくどいこともやったようで、他国のために自国民をいじめる者として、売国奴とさげすまれ、罪人と呼ばれていました。
なぜ、この真面目なファリサイ人が義とされず、罪人とされている徴税人が義とされたのでしょうか。それは、ファリサイ人は、他人ばかりを見、自分を全く見ていなかった、これに対して、徴税人は、全く他人を見ていなかった、ということです。
わたしたち人間は、本質的に、他人と比較して、自分を正当化しないと生きていけないのでしょうか。特に、わたしたちクリスチャンにとって、この「ファリサイ的精神」は、常にまとわりつく罪であります。自分を正しく保とうとする意識が、知らず知らずのうちに他者を裁いてしまうからです。
主イエスは、「神から最も遠く離れている状態は、自分の正しさを確信すること」と言いわれました。「自分を正しいとすること(自己義認)」は、常に、「自分は正しいが、他者は正しくない」という意識と裏腹になっているからです。徴税人は、他人を見ていなかった。彼は、神しか見ていない。そして、彼は、自分が神の目に耐えられるとは思っても見なかった。だから、彼は、自分が生きて行くためには、神の赦しを願うしかなかった。それは、祈りというより、うめきであり、叫びではなかったでしょうか。神は、それを「良し」とされたのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。・・・「 自分は神など恐れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめはうるさくてかなわないから、彼女にために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして、神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」>[ルカによる福音書 18:4−8]
今日の聖句には、二人の人物が登場します。「うるさいやもめ」と「不正な裁判官」です。自分の正しさを信じるやもめは、この裁判官のところに来ては、「わたしを守ってください」としつっこく叫びます。初め取り合わなかった裁判官もついに根負けし、このやもめのために裁判をする。こういう譬えであります。
この物語には、この福音書を書いたルカの思い、或いはルカの属していた教会の思いが強く反映されていると聖書学者は言います。ここにある「選ばれた人たち」とは、ルカのいた教会の人たちを指しているといわれます。 西暦7,80年頃、生まれたばかりの教会です。その教会はローマにあったという説が有力です。信徒たちは、異教徒の中に身を潜めるように生活していましたが、迫害を受けたり、裁判に訴えられたりすることも少なくなかったのでしょう。訴えられたとき、いくら弁解しても受け入れられず、逆にいくら訴えても取り上げてもらえない。いやというほどそういう辛い、情けない経験していたのではないでしょうか。
主イエスが十字架にかけられてから、まだ4,50年、地上で生活された主イエスの姿を懐かしく思い出しながら語る人もいたかもしれません。あの主イエスの力強い業を思い出しながら、もし主イエスがここにいてくださったら、早くまた来てください。そういう思いを何度となく繰り返して叫んできた教会でした。
この裁判官は、なにしろ悪徳裁判官です。それまで、どれだけ私腹を肥やし、弱い立場にある人を踏みにじり、正義を曲げてきたか、「神を畏れず、人を人と思わない」裁判官です。しかし、その悪徳裁判官が、この一介のやもめのために正しい裁判をしようとしたのです。ここにこの物語の核心があります。つまり、もう絶望しかないというところに、まだ正義が行われるということです。
「まして、神は」に、ルカの思いが託されています。あの悪徳裁判官でさえ、やもめの叫びを聞くとすれば、まして神はわたしたちの叫びを聞かれないはずはない。最後の勝利はこちらにある、という思いです。
祈りには、礼拝の中でするような整った祈りもありますが、激しい苦しみやどうしょうもない嘆きの中で、どうしたらよいか分からないままに、叫び求めること、それも祈りだ、それでよいいのだ、と主イエスは言っくださっているのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<「彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。その人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」>[ルカによる福音書17:14−19]
今日の聖句は、イエスが、重い皮膚病を患っている10人の人をいやされた物語です。
この物語のストーリーは、単純です、イエスが、ガリラヤとサマリアの境にある鄙びた村に入られたとき、10人の重い皮膚病(現在のハンセン病か)を患っている人たちか出迎え、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げて叫びます。イエスは、ユダヤ教の律法に従って、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われる。彼らは、そこへ行く途中、いやされた。その中の一人のサマリア人は、自分がいやされたのを知り、神さまを賛美しながら戻ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これだけの物語ですが、多くのことを語りかけてくる物語でもあります。
聖句の最後に、このようなイエスの言葉があります。「あなたの信仰があなたを救った。」ここで「救った」と言われていることは、明らかに「病気がいやされた」ことではありません。イエスのところへ戻ってこなかった9人も同じように病気をいやされたからです。ここで「あなたの信仰」と言われていることは、このサマリア人だけが、イエスのところに戻ってきて、ひれ伏して感謝したことです。
このサマリア人だけがイエスのところに戻ってきた。なぜでしょうか。そこにこの物語の核心があります。それは、このサマリア人だけが、イエスが誰であるのか、自分がいやされたのは、誰によってであるのかを知った。そして、これから誰と共に生きて行くべきかを知った、ということです。
イエスはこのサマリア人に言われます。「立ち上がって、行きなさい。」文字通りには、大地から立ち上がることですが、それ以上のことが意味されています。それは、繰り返しますが、「救い」と言うことは「病気がいやされる」ことではなく、立ち上がって歩き出すことです。キリスト教信仰の核心は、イエス・キリストの復活を信じることにありますが、その復活が意味するところは、死から蘇生することではなく、この世の中で、再び立ち上がってイエスと共に歩き出すことです。このサマリア人は、このとき復活したのです。有名な「善いサマリア人」とは、この「感謝するサマリア人」のその後の姿かもしれません。
現代に生きるわたしたちは、ともすると氾濫する情報と神経を麻痺させる誘惑の中で、自分にとって何が一番大切なのか、忘れがちでないでしょうか。わたしたちは、この感謝するサマリア人が指し示したように、自分の人生において、何が一番大切なのか、誰と共に生きて行くべきなのか、常にそのことを心に刻みたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」>[ルカによる福音書 17:9−10]
今日は、この礼拝後、正午よりバザーが行われます。今日の特祷(祈り)は、このバザーの日にふさわしい祈りだと思います。
<主よ、主の家族である教会を、絶えることのない恵みのうちにお守りください。 どうか、主の守りによってすべての災いを免れ、良い行いをもって熱心に主に仕え、御名の栄光を現すことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン>
バザーは、教会が一つの家族であることを実感できる数少ない行事です。教会を「神の家族」と言い、また、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」[ヨハネ 15:5]という主イエスの言葉を聞いても、なかなか「教会が一つの家族」ということを実感するのは難しいことでもあります。今日は、一人ひとりが、多忙な中で、ほんの一瞬でも、そのような実感を持てたらと願っています。
現代のわたしたちにとっても、この譬えは、重要なメッセージではないでしょうか。
その特祷の中に、「良い行いを持って熱心に主に仕え」とありました。この「良い」という言葉は、原語では、「善行」という意味と同時に、「当然の行い」、「あるべき行い」という意味を持っていることに注目したいと思います。
今日の聖句では、この「当然」と言うことが、キーワードとなっています。
<「わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけですと」言いなさい。>
僕とは、奴隷のことです。奴隷は、主人の命令には、絶対に従わなければならないが、それを完璧に実行しても、ほめられはしないし、待遇改善を要求することもできません。
「取るに足らない僕」というのは,謙遜でも、実際に能力がないというのでもなく、仮に命令を完璧に実行したとしても、何の要求もできない存在ということです。
わたしたちは、一所懸命働いて成果を上げれば、誉められたくなります。それが人間です。しかし、主イエスは、神さまとわたしたち人間との関係は、主人と奴隷の関係と同じだ、報酬を要求してはならない、「当然のことをしただけです」と言いなさい、と教えられました。なぜでしょうか。それは、わたしたちが、既にあり余るほどの恵みを受けているからです。わたしたちが、今、ここにあること自体、神さまの限りない恵みなのです。そのことを、実感した人は、それ以上何を要求するでしょうか。しかし、わたしたちは、それになかなか気づくことができません。つい、不満ばかりが口から出てきます。いずれの日にかは、「しなければならないことをしただけです」、そう言える心境になりたいものではありませんか。
(牧師 広沢敏明)
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