今週のメッセージ――主日の説教から


2004年9月26日(日)(聖霊降臨後第17主日 C年)
「 真に聞くということ 」

――今日の聖句――
<金持ちは言った。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」・・・しかし、アブラハムは言った。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」>[ルカによる福音書 16:27−31]

 今日の聖句は、「金持ちとラザロの譬え」の最後の部分です。この譬えは、3幕からできています。

  1. 第1幕

     地上の見える世界の出来事です。ある金持ちがいた。その男は、上等の着物を着て、毎日、ぜいたく三昧に暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという名のできものだらけの貧しい男がいて、その金持ちの食べ残しの食物で飢えを満たしていた。


  2. 第2幕

     死後の目に見えない世界の出来事です。その金持ちも貧しいラザロも死にました。しかし、そこでは、二人の運命に劇的な変化が起こっています。貧しいラザロは天国の宴席にいてアブラハムのそばに座っているが、金持ちの男は地獄にいて、熱い炎にさいなまれている。不思議なことに、この地獄からは天国の様子が見えます。金持ちは、アブラハムに助けを求めます。しかし、アブラハムは答えます。「金持ちよ、お前は、生前、良い物を与えられていた。しかし、今、その運命は逆になった。ラザロは慰められ、お前はもだえ苦しむ。われわれと、お前の間には、大きな淵があって、行くことも来ることもできない。」


  3. 第3幕

     金持ちは、アブラハムに、「どうか、ラザロを、まだ地上にいる5人の兄弟に遣わして、兄弟たちが、自分と同じ運命に遭わないように警告して欲しい」と懇願します。しかし、アブラハムは答えます。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」


 イエスは、この譬えを、ファリサイ派の人々に語られたことに注目したいと思います。ファリサイ派の人々というのは、何かと言ってはモーセを持ち出しました。モーセの律法さえ守ってさえいれば救われると思い、ずっとそういう生活をしてきた人々です。そして、その一方で、モーセの律法を守れない人々を、神を冒涜する罪人であり、反逆者であるとして断罪したのです。イエスに対しても、安息日に病気を治したといっては、けしからんと言い、収税人や罪人たちと一緒に食事をしたといっては、けしからんと言って、攻撃しました。イエスは、このようなファリサイ派の人々に対して、「お前たちは、モーセの言うことを聞いている、モーセの律法を守っている」と言っているが、「実は、何も聞いていなかったのではないか。もし聞いていれば、そんなことになるわけはないではないか。」と痛切に批判されたのです。

 現代のわたしたちにとっても、この譬えは、重要なメッセージではないでしょうか。

 わたしたちも、イエスの言葉を本当に真剣に聞いていると言えるでしょうか。聖書には必要なことはすべて書かれています。神の言葉が足りないというのではなく、聞く人が、それを無視するか、気づいていないということです。

(牧師 広沢敏明)


2004年9月19日(日)(聖霊降臨後第16主日 C年) 晴れ
「 緊張感を持って生きる 」

――今日の聖句――
<イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると告げ口する者があった。そこで主人は彼を呼びつけて言った『・・・もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『…土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ、こうしょう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者を作ればいいのだ。そこで管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、・・・『いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世に子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」>[ルカによる福音書 16:1−8]

 イエスの譬えは、謎々のようなところがあり、物事を分かり易くするというより、読む者に、それが何を意味するか、いろいろ考えさせるところに特色があります。 今日の聖句にある「不正な管理人の譬え」は、その最も厄介なもので、古来、多くの読者を悩ませて来ました。

 この譬えを話されているのはイエスですから、この物語の流れからすれば、この金持ちの主人が、イエスを指していることは明らかです。したがって、この背任・横領の管理人をイエスは、ほめられたということになります。イエスは、なぜこの背任・横領の管理人をほめられたのでしょうか。わたしたちは、どうしても、この管理人の不正行為の方に、意識が集中してしまいがちですが、イエスは、この管理人の不正行為自体をほめておられるのでは決してないということです。イエスの思いは、全く別のところにありました。

 イエスは、今、エルサレムに向かって歩んでおられます。イエスの意識は、十字架の死のことに集中していました。しかし、弟子たちの態度はあまりにものんびりし、緊張感を欠いていました。イエスと弟子たちの間には、大きな温度差がありました。弟子たちは、人間の神からの離反が極限に達し、このまま放置すれば、その自己中心主義と欲望によって、人間はやがては滅びるしかない、その切羽詰ったところにまで来ているということに、全く気づいていなかったのです。

 イエスが、弟子たちに言おうとされたのは、差し迫った危機の状況におかれたときの態度ではなかったでしょうか。この管理人は、自分の身に迫った危機に対し、その危機の内容を正確に理解し、自分の身の将来の安全を考えて、賢く、機敏に、勇敢に、且つ必死に行動しました。イエスが弟子たちに要求されたのは、この管理人と同様、差し迫っている危機に対する正確な理解と、機敏な決断と、必死の行動だったのです。

 このイエスの悲しみの気持ちは、今日の聖句の最後の一言に表されています。

 <「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」>

 「光の子ら」はクリスチャン、「この世の子ら」は、クリスチャンでない人々を表しています。差別、貧困、戦争、環境破壊など、現代の教会が直面する深刻な危機に対して、わたしたちクリスチャンは、十分な緊張感を持って対応できているでしょうか。多分、「この世の子ら」の半分もできていないのかもしれません。

(牧師 広沢敏明)


2004年9月12日(日)(聖霊降臨後第15主日 C年) 晴れ
「 今、あなたは誰でしょうか 」

――今日の聖句――
<徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは、次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回わらないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」>[ルカによる福音書151−6]

 今日の聖句は、「失われた羊」として、聖書の中でも最もよく知られている譬えです。わたしたちは、聞いた途端に、「分かった、分かった」と、別のことに注意を逸らしてしまうことがないでしょうか。しかし、この譬えで、主イエスが本当は何を言おうとされたかは、聖書学者たちの間でも見解が一致しているわけではありません。

 大きく三つくらいの解釈があります。

  1. イエスは、「神とは、どういう方であるのか」を言おうとされた。

     神は、わたしたちが、弱りはて、泥沼に沈んでいるようなとき、そばに来て助けてくださる方である。これは、一匹の羊と羊飼いに注目します。

  2. イエスは、ファリサイ派の人々たちを痛烈に批判された。

     百匹の羊はイスラエル民族全体を、九十九匹はファリサイ派の人々を指します。律法を守れない人々を罪人として差別するファリサイ派の人々は、悪霊が住む荒れ野に放置されることになる。これは、九十九匹の羊に注目します。

  3. イエスは、聞く人に、「見失ったものを、捜しなさい」と要求された。

     百匹の羊はイスラエル民族を、見失った一匹の羊は、やがて十字架につけられ殺されることになる神の子・イエスを指します。イエスは、その見失ったものを捜し求めるように要求された。これは、一匹の羊と羊飼いに注目することは、(1)と同じですが、イエスと聞く人の立場が入れ替わっています。

 この譬えには、三種類の人物(動物)が登場します。羊飼いと一匹の羊と九十九匹の羊です。イエスの譬えは、どの譬えも読む者に、あなたは、この中の、何であるかを迫ります。今、この譬えを聞いたあなたは、どうでしょうか。

 作家の故遠藤周作氏は、この世の中で弱り果て、希望を失って、ただうずくまっている人(一匹の羊)を探し出し、その人のそばに行き励まされる同伴者イエスの姿を描きました。あなたは、今、一匹の羊でしょうか。

 それとも、そのような人々に無関心で、傍観しているファリサイ派の仲間ではないでしょうか。或いは、神を必要としない現代社会の風潮の中で、科学的合理主義や人間中心主義のとりこになって、本当に大切なものを見失っていることはないでしょうか。 

(牧師 広沢敏明)


2004年9月5日(日)(聖霊降臨後第14主日 C年) くもり
「 きびしい顔のイエス 」

――今日の聖句――
<大勢の群集が一緒についてきたが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子でありえない。自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算ないものがあるだろうか。」>[ルカによる福音書 14:25−28]

 今エルサレムに向かって福音宣教の旅をされるイエスには、二つの顔がありました。一つは、

 <疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう。>[マタイによる福音書 11:28]

と言われるときの「やさしい顔のイエス」です。しかし、イエスには、もう一つの顔があることも忘れてはなりません。それは、「きびしい顔のイエス」です。今日の聖句は、その「きびしい顔」のイエスです。

 イエスのもとには、大勢の群集が押し寄せました。その中には、熱心に「どうか弟子にしてください。あなたがお出でになるところなら、どこへでも参ります。死ぬことも恐れません」と言う人もいました。しかし、イエスは、そういう人々に対して、「どうぞどうぞ、だれでもわたしの弟子にしてあげますよ」とは言われませんでした。また、決して「わたしの弟子になれば、幸せになれるよ」とも言われませんでした。イエスは、そういう熱心に弟子になりたいと願う人に対しては、「弟子になることはどういうことなのか、弟子になることは『相当な代価』を支払うことになるよ。その用意があるか、それをよく計算してみなさい」、と言われるのが常でした。今日の聖句の最後にある「塔を建てる者」の譬えは、それを表しています。

 今の時代において、「相当な代価」とは何でしょうか。イエスは、「父、母、妻、・・・更に自分の命であろうともこれを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってわたしについて来なさい」と言われました。つまり、「命をかけてイエスについて行く」いうことです。この言葉に従えば、代価は、@「自分を捨てること」と、A「精神的に自立すること」と言えるのではないでしょうか。

 しかし、今、わたしたちが生きている社会は、精神的自立も信仰に生きることも非常に難しい時代です。文字通り命を捨てることはないでしょうが、実際「自分を捨てる」ことは、極めて難しいのではないでしょうか。他人のことを先に考え、自分のことを後回しにしているつもりでも、よくよく心の奥を見つめてみると、結局は自分を第一に考えているというのがわたしたちではないでしょうか。もし、そうだとすれば、あまり力まずに、せめて「自分のためだけを考えるのは止めよう」、「楽なこと、心になじむことだけを追うことはやめよう」と心に定めることの方が、より信仰的な生活なのかもしれません。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Oct/05/2004 (c)練馬聖ガブリエル教会