――今日の聖句――
<あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い生きた石なのです。・・・従って、この石は信じているあなたがたにはかけがえのないものですが、信じない者たちにとっては、・・・「つまずきの石、妨げの岩」なのです。>[ペテロの手紙T 2:3−8]
先週のメッセージでは、「心の葛藤」を大事にしたいと言いました。
『現在、日本においては、クリスチャンであるからという理由だけで迫害を受けることはない。しかし、そのために気軽なクリスチャン、或いは緊張感に欠けるクリスチャンとなっているのではないか。また、そのために聖書の言葉が実感としてなかなか受けとめられなくなっているのではないか。わたしたちが、もう少しましなクリスチャンになろうとするなら、とにかく、先ず、他人との関係や出来事から逃げず、「イエスの心」を生きる努力をしてみること、そうすれば、必ずそこに、「心の葛藤」が生じるはずだ。この「心の葛藤」こそ、わたしたちは、大事にしていかねばならないのではないか』、このように言いました。
しかし、ここで注意しなければならないのは、この「心の葛藤」が「つまずきの石」にもなりかねないということです。わたしたちが、「イエスの心」を真剣に生きようとすればするほど、自分の至らなさ、不信仰、罪深さや罪悪感が浮かび上がってきます。それらが自分をさいなみ始めます。性格にもよるでしょうが、このような自分の不信仰に打ちのめされて立ち上がれない人もでてきます。或いは、このような喜びのない信仰に嫌気がさしてしまうかもしれません。例えば、明治以来の日本のクリスチャン像を思い浮かべてください。酒も駄目、煙草も駄目、遊びも駄目といって、楽しむことをすべて罪悪として拒否してしまいました。果たしてそれが、「イエスの心」だったでしょうか。どこかで、イエスの本当の心を見失ってしまったようがします。主イエスの真の心は、人々がいろいろな束縛のもとで自由を失い、本来の自分を見失っていることから解放することにあったはずです。
葛藤の渦の中に落ち込んだものは、それから抜け出すことが必要です。それには、「納得すること」が大切ではないかと思います。不信仰への諦めでもなく、思考の中断でもなく、無理な意図的な割り切りでもない「心のあり方」です。必ずしも論理的ではないとしても、理性が納得することです。
旧約聖書にあるヨブは、自分がなぜこのような苦難を背負わなければならないか、自分がそれほどの大罪を犯したというのか、と執拗に神を糾弾し食い下がります。そして、遂に神の顔を見たとき、納得してしまうのです。論理でもなく、感情でもなく、納得としか言いようのない心の状態が訪れるのです。
本当の信仰は、やはり、安らぐところにあります。罪の意識のために、身動きできなくなるのは、やはり本末顛倒です。主イエスは、「そんなに無理することはない、あなたは、あなたのままでよい」と言ってくださるはずです。イエスの心を生きようとして、それができないならできないままに、自分を肯定してくださっている、主イエスの心を納得したいと思います。緊張を欠く信仰はみっともないものですが、そうかと言って、安らぎのない、力みかえった信仰も本当の信仰ではないように思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
(1)<人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。・・・人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノを目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとにおいた。>[使徒言行録7:54-58]
(2)<不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛に耐えるなら、それは御心に適うことなのです。>[ペテロの手紙T 2:19]
初代教会時代の初期、クリスチャンたちは共同生活を送っていたと、使徒言行録は書き記していますが、その共同体で食事の分配を巡って内紛が起き、食事の分配を公平に行うための職務に選ばれた7人のうちの一人がステファノです。使徒言行録を書いたルカは、キリスト教の世界宣教活動をこのステファノの殉教という悲劇から書き始めます。
このステファノが、説教をし終わったとき、彼の言葉に反感を持ったユダヤ人との間に論争が起き、怒り狂ったユダヤ人たちは、彼を町の外に引きずり出し、石を投げて殺してしまいます。その時、石を投げる者の脱いだ衣類の番をしていたサウロという若者こそ、後の使徒パウロの若い頃の姿です。
西暦70年のユダヤ戦争のとき、エルサレムの神殿はローマ軍のよって徹底的に破壊されます。神殿を失ったユダヤ教は、ヤムニアという町に逃げて、そこで再建を計ります。再建の方針の一つが、ユダヤ教の純化でした。これによって、それまでユダヤ教の一分派(ナザレ派)であったクリスチャンたちが、異端とされ迫害されるようになります。
今日の聖句(2)は[ペテロの手紙T]からです。この手紙は、使徒ペテロが、迫害下で、いろいろな機会に話した説教を、聞いた人が書きとめたものではないかという説があります。この箇所は、これから洗礼を受け、クリスチャンになろうとしている人たちに対する説教と言われています。
「不当な苦しみを受けることになっても」とあります。洗礼を受け、クリスチャンになると、不当な苦しみを受けることになるだろう、と言うのです。しかし、現代の日本のわたしたちは、「クリスチャンになれば、不当な苦しみを受けることになる」と言われても、現実感がないのではないでしょうか。それは、現代の日本において、クリスチャンであるからという理由だけで、差別されたり迫害を受けることがないからです。
わたしたちが聖書を読むとき、その言葉がなかなか心に響いてこないことが少なくありません。その大きな理由の一つは、それが書かれた時の状況と、わたしたちが今いる状況があまりにもかけ離れているからです。聖書は、知識を得るための書物ではありませんから、心に何の葛藤もなく読んでも、聖書は何も語りかけてこないのです。
現代のクリスチャンにとって、この心の葛藤とは、結局、「イエスの心を生きようする努力」と現実との葛藤ではないでしょうか。「イエスの心」を、少しでも生きようとすれば、そこに葛藤が生まれます。葛藤とは、他者との関係や出来事から逃げださず、イエスならどうされたかを考え、その方向に一歩踏み出してみようとすることから生じる心の動揺です。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。>[使徒言行録2:44―47]
今日の聖句には、初代教会時代、しかもかなり早い段階のクリスチャンの生活が描かれています。初代教会時代、すべてのクリスチャンが、実際にこのような共同生活をしていたかは詳らかではありませんが、少なくとも、エルサレムのクリスチャンの中心を成す人々は、このような生活をしていたと考えられます。
「家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし」とあります。 聖餐式のことを「パン裂き」ともいうように、ここに、現在行っている聖餐式の元の型があります。現在のような典礼にはまだなっていませんが、実際の食事の中で、主イエスとの「最後の晩餐」や、主イエスと共に食事をしたいろいろな出来事を思いつつ、そこにあたかも主イエスが共におられるように、喜びと真心を持って皆で食事をしていたというのです。
ここで感じることは、現代のわたしたちは、果たしてこのような喜びと真心を持って聖餐式にあずかっているだろうか。そして、それは、わたしたちが本当の食事の大切さに対し鈍感になっていることと関係があるのではないか、ということです。わたしたちの周りで起こっている、食事に関する現象に目を向けてみたいと思います。
一つは、飽食の時代と言われる中で、家族がそろって食事をすることが非常に少なくなっていることです。ある調査によれば、数字は忘れましたが、子供たちが、非常に多くの割合で、極めて貧しい食事を、しかも一人で食べているということです。最近の子供たちを回る不幸な事件は、このような事情と無関係ではないように思います。
もう一つは、拒食、不食、過食など「摂食異常」が非常に増えていることです。食べるという行為は、外界、つまり自分以外の外の世界(異物)を口に入れるということを意味しています。それは、幼児が母親の乳房から乳を飲むことから始まりますが、それを美味しく飲むには、母親への信頼があって始めて可能になるといわれます。もし、愛情が感じられなく、ただ空腹を満たすためにだけに飲む乳は「苦い乳」となり、その「苦い乳」の傷跡が、青春期に拒食症となって現れるのではないかと考えられています。つまり、拒食は、単に、食事の拒否ではなく、世の中のものすべてを、時によっては、自分自身さえも拒否してしまうことになるのです。
キリスト教は、「共に食事をすること」を非常に大切にしてきました。それは、食事をするという営みが、単にエネルギーや栄養の補給でも、また快楽の追求でもなく、わたしたちの「愛と命」に深く関係しているからです。ある人は、「愛とは、一緒に食事をすることだ」と言いました。今見たような最近の日本の食事事情は、わたしたちの社会や生活から、愛が失われつつあることを表してはいないでしょうか。そして、そのことが、聖餐式までも、喜びの少ないものにしているのかもしれません。わたしたちは、本来の食事を回復すると同時に、聖餐式の意味を回復しなければならないように思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。」>[ヨハネによる福音書20:19−21]
わたしたちは、長い一生の中では、一度や二度は、本当に苦しみに打ちひしがれることがあります。進学の失敗、失恋、職場での複雑な人間関係、夫婦間のいざこざ、傾きかけた事業、うまく行かない仕事、予想もしない病、地震や台風などの天災、愛する人との別れ。いろいろな形で苦難が訪れます。食事は喉を通らず、夜もろくろく眠れず、何とかその苦しみから逃れようと、もがき、あがきます。そのうち、何をしてよいかもわからなくなり、祈ることすらも忘れてしまいます。
今日の聖句に出てくる弟子たちも、丁度そのような状況の中にありました。自分たちが師と仰ぎ、自分たちの人生をかけたイエスが、突然、十字架上で死んでしまわれました。彼らは、行く先を見失い、混乱し、不安と絶望の中に投げ出されます。彼らは、イエスを守ることができなかったばかりでなく、自分自身がイエスを裏切るという卑怯な行いをしてしまったという、言いようのない後味の悪さと共に、祭司長や長老などこの国の指導者といわれる人々の悪意と残酷さにも打ちのめされていました。彼らは、自分たちの無力さをいやというほど味わうと共に、これから先、自分たち自身にも、イエスと同じ運命が待ち構えているかもしれないという強い恐れがありました。
だから、彼らは、ユダヤ人を恐れ、隠れ家に集まり、家の戸に鍵をかけ、肩を寄せ合い、声を潜めていました。その時、突然イエスが現れ、声をかけられます。「あなたがたに平和があるように」。この「あなたがたに平和があるように」という言葉ほど、弟子たちに安らぎと希望を与える言葉は他になかったでしょう。そこには、弟子たちの裏切りを責め、弱さをとがめるものは何もなく、弟子たちの不安と絶望の心を、あたたかく包み込み、そのすべてを赦すやさしさに溢れていました。ここから、弟子たちは、再び立ち上がり始めるのです。
わたしたちは、この聖餐式の中で、「平和の挨拶」をします。練馬聖ガブリエル教会では、「主の平和」]と言い合いながら、互いに握手することが、何時からか習慣となりました。わたしたちは、相手に、「主の平和」を願いますが、それは同時に、主イエスご自身が、わたしたち一人ひとりの口を通して、「あなたがたに平和があるように」と願っていてくださるということでもあります。
教会はどんなところか、それは、何にもまして、「安らぎあるところ」、「慰めがあるとろ」でなければならないということです。世の中は確かに豊かになりました。しかし、今日ほどストレスの多い時代はなかったとも言われます。この世の中に、いかに強風が吹き荒れていても、教会には、安らぎがなければなりません。その「安らぎ」があるからこそ、わたしたちは、どんな苦難の中からも、再び立ち上がることができるのです。
(牧師 広沢敏明)
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