――今日の聖句――
<それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのためにそれを失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」>[マタイによる福音書 16:24―26]
ギリシャ語では、日本語で「命」を意味する言葉が3つあります。今日の聖句に出てくる「命」は、「プシュケー」という言葉が使われています。「プシュケー」は、英語のpsychology(心理学)の元になった言葉です。ここでは「命」と訳されていますが、「魂」と訳した方が、分かり易いかもしれません。つまり、いわゆる生物的な命(ビオス)とは別の命のことを言っている訳です。
「魂」は、「人間の本質」、「人間存在の根幹・核心」を表しています。主イエスは、この魂こそ、人間にとって最も大切なものではないか、と言われるのです。それでは、この「魂」である「命」を大切にするとは、どういうことでしょうか。どうすれば「魂」が「魂」らしくあることができるのでしょうか。
主イエスは、このように言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」ここで、イエスは二つのことを言おうとされています。一つは「自分を捨てること」、そして、もう一つは「自分の十字架を背負う」ということです。これが、魂を大切にすることだ、と言われたのです。
(1)「自分を捨てる」とは、「自分の自己中心性(エゴイズム)」を捨てることです。自分のわがままを押さえることです。世の中のすべての争いの背後に、人間の自己中心性やわがままがあることは、お気づきだと思います。わたしたちは、自分の好みや趣味、生きがいや権利など大切にしたいと思います。しかし、皆が他者のことに気づかず、自分のことだけを追求するとしたら、世の中はどうなるでしょう。世の中から平和が失われていきます。エゴを捨てることは、愛の行為であります。主イエスの十字架が、愛の極地であるのは、主イエスはすべての人間を愛するゆえに、自分の命を捨てられたからです。
主イエスの次の言葉を心に刻みたいと思います。
<「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」>
[ヨハネ15:13]
(2)「自分の十字架を背負う」と言うときの、「自分の十字架」とは何を指しているのでしょうか。普通、肉体的な弱さ、家庭の辛い状況、或いは仕事での困難を抱えつつ、この厳しい世の中を生き抜くことと理解されているように思います。それはそれで間違いないのですが、それだけでは半分しか理解していないように思います。もう半分は、すべての人に、他者の苦しみのために、その人にしか背負えない、またその人の責任で背負わねばならない十字架が与えられているということです。それが何であるか、それを見つけること自体が、自分の魂を大切にするための大きな営みです。聖書を読むこと、祈ること、それらは突き詰めば、「自分の十字架は何か」を見出すために、神の声に耳を傾ける行為にほかなりません。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。・・・イエスが、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。>[マタイによる福音書 15:22―28]
今年は戦後60年の節目ということで、平和のためのいろいろな企画が行なわれています。その行事に参加するとき、一つの思いが頭を過ぎります。それは、「こんなことをしていて実際に平和の実現の役に立っているのか、自己満足に過ぎないのではないか」、という思いです。 こう言っている今も、世界のあちこちで戦争が行なわれ、多くの命が失われています。イラクでは毎日のように自爆テロが起こり、先月はイギリスやエジプトで、テロによって地下鉄やバスが爆破されました。イスラエルとパレスチナ、ロシアとチェチェン、世界の各地で争いが止みません。
平和集会や平和祈祷会に参加することなどは無意味なのでしょうか。決してそうではありません。それを支える信仰があるからです。たとえ、わたしたちのする行為は小さくても、それを支える大きな信仰があれば、その信仰に支えられて、小さな行為も大きな意味を持ってくるからです。今日の聖句はそのことをわたしたちに語りかけてきます。
今日の聖句の終わりに、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」というイエスの言葉があります。この「立派だ」と訳された言葉の原語は、メガスといい、「大きい」という意味です。イエスは、カナンの女に「あなたの信仰は、大きい」と言われたのです。
彼女の信仰のどこが大きいのでしょうか。この物語では、イエスの彼女に対する態度が、大変冷たいのが気になります。なぜそうであったのかはよくわかりません。主イエスは、彼女の願いを3度にわたって拒絶されました。
最初は、彼女の願いを無視されます。見るに見かねた弟子たちが近寄ってきて、彼女に代わってイエスに願います。この弟子たちの願いもイエスは拒否されます。ここで、彼女は、腹を立て、捨てゼリフを残して立ち去ってもよかった。しかし、彼女はそうはしなかった。むしろ、イエスの足もとにひれ伏して、願います。しかし、イエスは、その願いも拒否されます。それにもひるまず、彼女は、イエスに反論します。「あなたが、ユダヤ人の救いのために愛を注がれる、それは当然です。しかし、あなたの注がれる愛のおこぼれにもあずかれないのでしょうか。あなたはそんな方ではないはずです。」
それを聞かれたイエスは言われます。「婦人よ、あなたの信仰は大きい。」そして、娘はいやされました。 彼女は、3度までその願いを拒否され、4度目に聞き入れられたのです。イエスは、遂にその態度を変えられました。彼女は、引き下がるわけにはいかなかった。引き下がってしまえば、そこには絶望しかないことが分かっていました。なんとしても絶望するわけには行かなかった。娘の命がかかっていたからです。娘が死ねば、自分だってどうなるか分からない。頼るところは、あなたしかない。そのような思いではなかったでしょうか。その思いが、遂にイエスを動かしたのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。イエスが「来なさい」と言われたので、ペテロは舟から降りて水に上を歩き、イエスの方に進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。>[マタイによる福音書14:28−31]
今日の聖句において、嵐はこの世の現実、つまり、この世の苦しみ、悲しみ、不条理を表しており、弟子たちの乗った舟は、嵐の中を航海する教会を表していると考えられます。
西暦70年のユダヤ戦争によって、エルサレムの神殿は徹底的にローマ軍によって破壊されました。その後、教団再建を図るユダヤ教によって、キリスト教徒は異端と宣言され、陰湿な迫害を受けるようになりました。マタイによる福音書は、丁度その頃書かれたと考えられています。マタイの教会は、嵐に翻弄される舟のように、大変な逆風にさらされていたのです。また、この「水の上を歩くペテロの物語]は、マタイによる福音書にしかありません。マタイの教会は、もしかするとペテロが作った教会だったかもしれません。そうだとしたら、マタイの教会の人々は、ペテロに特別な感情を持っていたでしょう。嵐の湖を上を歩くペテロは、自分たちの姿そのものだったのかもしれません。
イエスの「来なさい」という言葉に促されて、ペテロは水の上を歩き始めますが、何歩も行かないうちに、沈みかけます。現実の本当の危険や恐怖は経験してみないと分からないところがあります。ペテロは、一晩中、荒れ狂う嵐を見ていたに違いありません。しかし、彼はそれを、舟の甲板で見ていたのです。ところが、実際に水の上を歩き始めて、つまり行動して始めて、本当の危険と恐怖に気づいたのです。これは信仰の弱さでしょうか。それは、信仰の弱さというより、もっと人間の本質的なところに基づくものではないでしょうか。
イエスは、手を伸ばして助け上げ、そして言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」これはイエスの叱責でしょうか。私は、そうではないと思います。むしろ、やさしさと慈しみに満ちた言葉ではなかったでしょうか。イエスは、人間がそのようなものであることをよく知っておられました。生活が順調なときは、不安も疑いも無く、神さまがわたしたちを守り、支え、愛してくださっていることを信じています。しかし、一度嵐が起こればどうなるか。いくら堅固な信仰を持っていると思っていても、心の底から湧き上がってくる衝動に、人間がいかに迷い易く、崩れ易く、もろいものであるか、イエスはよくご存知でした。
いくら信仰を持っていると思っていても、本当の苦難に出会ったとき、自分がどのような行動を取るか予測がつきません。その中でも「主よ、助けてください」叫ぶことは、そのような厳しい現実の中でも、神さまから離れず、神さまを見つめ、神さまの力に自分を委ねようとする行為です。本当の信仰とは、自分の力ではもうどうしょうもない状況の中で、なお「主よ、助けてください」と叫び、主の助けを信じ、主に委ねる心のあり方ではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |