――今日の聖句――
<初めに言(コトバ)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。>[ヨハネによる福音書 1:1―5、14]
主イエスご降誕を共に祝いたいと思います。
クリスマスは、わたしたちが、神を最も身近に感じるときであります。そして、神の心をはっきりを知ることのできるときであります。今日の聖句は、闇の中に光が射し、光と闇がはっきり対峙している様子をまざまざと描いています。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
なぜ神が人となられたか。それは、人間が、罪を犯して、その栄光を傷つけたからです。人間の罪が重なり、一度、神は人間を徹底的に滅ぼそうとされます。それが、旧約聖書の創世記にある「ノアの箱舟」の物語です。ノアの家族とそれぞれひとつがいの動物以外はすべて水に飲み込まれてしまいます。
しかし、人間は、ノアの洪水の後も、罪を重ねます。そうして、神さまは、別の方法で、人類を救おうとされます。そうして、誰も気付かないうちに、そっと救い主をわたしたちの中に送り込まれたのです。神は、病を負う人を慰めるためには、同じように病に苦しみ、蔑まれている人々を励ますためには、同じように蔑まれることを求められました。それは、そのことによって、人々が、「神が、いつも共にいる」ことを知るようになるためです。
当時のイスラエルの人々は、強い権力と武力で悪を滅ぼし、自分たちを支配しているロマ軍を追い払い、自分たちが幸せと考える社会を作ってくれるような強い救い主の到来を待ち望んでいました。しかし、神がなさったことは全く違いました。クリスマスの出来事は、そのことを、わたしたちにはっきりを表しています。イエスは、王宮や金持ちの暖かいベッドではなく、汚い馬小屋の飼い葉桶の中に生まれられました。また、両親のヨセフとマリア以外でこのことを最初に知らされたのは、羊飼いたちでした。羊飼いというのは、当時の社会において最も貧しく、さげすまれている人々でした。
聖書の最大のメッセージは、この「神は、いつも共にいる」ということです。そして、クリスマスの出来事、イエスがこの世に誕生されたのは、他でもない、わたしたちに、「神が、いつも共にいる」ということを知らせるためだったのです。主イエス誕生の冬の夜は、沈黙と熟考のときであります。このときが、わたしたち一人ひとりにとって、イエスがこの世に生まれられたことと、わたしたちの生き方がどのように繋がるかを考えるときになればと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<6か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところへ遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」マリアは、この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。>[ルカによる福音書 1:26―30]
クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日です。イエス・キリストの誕生物語の中に、天使ガブリエルが、母となるマリアに、イエスを身ごもったことを告げる場面があります。その時、恐れ、戸惑うマリアに、天使ガブリエルは、このように語りかけます。
<「恐れるな、主があなたと共におられる」>
聖書は全体で2500ページもありますから 、教会の信徒でも全部を読み通すことは容易ではありませんが、この「恐れるな、主が共におられる」という言葉は、聖書全体を通しての聖書最大のメッセージとも言われます。
人類はその発生以来多くの「恐れ」の中に生きてきました。外敵、飢え、病気、死・・・。そして、この恐れを取り除くため、多くの努力を払ってきました。 医学の進歩は多くの病気を過去のものにしました。農業や土木や産業の発達は、作物の収穫を天候の気まぐれから解放し、多くの貧困を克服しました。しかし、いくら科学が進歩しても、わたしたちはなお多くの恐れの中に生きているのではないでしょうか。
いろいろな恐れがありますが、その中で、もっとも根深く、たちの悪い恐れは、人の人に対する恐れではないでしょうか。2001年の9月11日、ニューヨークを襲った同時多発テロはアメリカの人々を恐怖のどん底に落とし入れ、アメリカがアフガニスタン戦争、イラク戦争を始める引き金ともなりました。また、最近の学校帰り児童への凶行や塾での事件は、子どもを持つ親を恐れさせています。
人間と他の動物を区別する要素は幾つかありますが、その一つは、人間は、本来一人では生きていけないものであるということです。成人になるのに20年も要することは、このことの何よりの証拠です。にもかかわらず、現代社会は、一人ひとりの人間を切り離し孤立化してしまいしました。孤立化した人間は、次第に人間相互の共感を失い、人間が人間を分からなくなり、次第に相手に恐れを感じるようになります。
現代社会の「平和」を脅かす根底には、この「恐れ」があるような気がしてなりません。平和というのは、単に戦争や争いがない状態を指すのではなく、人と人が互いに理解し合い、思いやる状態です。天使ガブリエルの「恐れるな、神があなたと共におられる」という言葉を通し、人と人が、互いに相手を恐れるのではなく、互いに共感し、分かり合い、共存することの大切さを心に刻みたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、・・・ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」・・・
「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その方はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物を解く資格もない。」
>[ヨハネによる福音書 1:19―27]
エルサレムのユダヤ教の指導者たちのもとに、「メシア(救い主)が現れた」など、いろいろな噂が伝えられてきます。イスラエルの人々は、何百年もメシア(救い主)の到来をひたすら待ち続けてきました。もし、その噂が本当であれば大変なことでしたし、仮に偽りであれば、それも放置しておくことはできません。エルサレムのユダヤ教の指導者たちは、ヨハネのところに使者を遣わし、「お前は、何者か」を尋問させます。ヨハネは答えます。
<「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」>
「荒れ野」という言葉は、聖書では、特別な意味で用いられますが、その第一の意味は、文字通り、草一本生えていない荒れ果てた荒涼な場所、不毛で生命の存在を許さない所を指します。この言葉は、次第に、罪に汚され、神の祝福を失って荒れ果てた人間の心をも表すようにもなりました。
私は、人間の心は、ダムにたとえられるように思います。そこに蓄えられた水は、心のエネルギーです。心のエネルギーが充分蓄えられている間は、心の中にある問題も隠れています。しかし、心のエネルギーを消耗し、次第に枯渇してくると、今まで隠れていた、心の中の岩礁や底に沈んでいた塵が現われてきます。
洗礼者ヨハネの声を、荒れ野と化した人間の心への呼びかけとして聞きたいと思います。ヨハネは、人々に向かい叫びます。
<「主の道をまっすぐにせよ」「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」>
現代のわたしたちは、実にストレスの多い時代に生きています。ストレスは、心のエネルギーを消耗させます。現代のペストとまでいわれる「うつ病」は、心のエネルギーが枯渇する病気です。 ヨハネは断言します。「その方は、もう来ておられる。」それは、わたしたちは、既にその方の恵みのもとにあるということです。神さまの愛は、既にわたしたちの上に注がれているのです。いつも、恵みが注がれているとしたら、わたしたちが、心のエネルギーを取り入れるためには、丁度、アンテナを電波に合わせるように、心の向きを主イエスの方へ少し変えてやればよいのです。わたしたち、確かに、ある程度は豊かになった。食べるものがないわけではない。住むところがないわけではない。着るものがないわけではない。しかし、満足感はない。それを満たそうと、更に追い求める。しかし,いくら追い求めても、心の渇きがいやされるわけではない。そのうちにストレスがますます高まり、心が渇いて行く。こういう悪循環を繰り返しているのではないでしょうか。クリスマスを本当に喜ぶために、それまでの暫くの間でも、心の向きを変えることに心がけたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<慰めよ、わたしたちの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。
エルサレムの心に語りかけ、彼女によびかけよ。
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
・・・
呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う。何と呼びかけたらよいのか、と。
肉なるものは皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。
この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
>
[イザヤ書 40:1−2,6−8]
イザヤ書は、一人の預言者によって書かれたものではなく、少なくとも3人の無名の預言者によって書かれたことが定説になっています。今日の聖句は、いわゆる第二イザヤの最初の言葉です。
南ユダ王国は紀元前6世紀、アッシリアの代わって勃興したバビロンによって滅ぼされ、国の主だった人々は、チグリス・ユーフラテス河畔の都バビロンの近くに捕囚となりました。それから、約50年、バビロンに代わったペルシャのクロス王は,捕囚のイスラエル人を解放し、帰還を認めました。この帰還する民の中にあって民を励まし、指導したのが第二イザヤです。
第二イザヤは、なお不安におびえる民に向かって、声高らかに、慰めの言葉を語ります。 ただ、イスラエルの民が、咎を赦され、慰めを受けた民として新しい生を生きて行くためには、一つ心に刻まなければならないことがありました。それが次の言葉です。
<草は枯れ花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。> [イザヤ書40:8]
2005年、皆さんにとって、どのような年であったでしょうか。わたし自身、毎年、年をとったことを感じます。生老病死は、世の常です。わたしたちは、老いること、病気すること、死ぬことから何とか逃げたいと思います。しかし、考えて見れば、この枯渇と凋落は、神がわたしたち人間与えられた最大の恵みであるのかもしれません。もし、永遠に老いず、病気もせず、死なないとしたら、そのような生は生きる価値のあるものでしょうか。
創世記は、神はご自分が造られた全世界、全被造物を見て「極めて良かった」と言われたと書いています。それは、老いも病も死もある世界です。だからこそ、今の生が何よりも貴重なのです。
そのような世界において、動かないもの、変わらないものが一つある、それが神の言葉です。人間は、その神の言葉と関わることによってのみ永遠と関わり、真の人間となる。わたしたち人間は、自身の力で、自分の命を輝かすことも、延ばすこともできません。わたしたちの上には、神の言葉が常に明るく光っています。わたしたちはその光を受けることによって自分の中に愛と希望の光を輝かせることができるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは丁度、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。>[マルコによる福音書 13:33―34]
教会のカレンダーでは、今日から新しい年が始まります。今日からクリスマスまでの期間を、降臨節とかアドベントと言います。アドベントとは、「来臨」、「到来」という意味です。そして、この到来は、二つのことを指しています。一つは、主イエス・キリストが、2000年前、この世界に生まれられたこと。もう一つは、主イエス・キリストが再び来られること、これを、再臨といいます。今日の聖句は、わたしたちが、再臨を迎える心構えを説いています。
「その時」とは、主イエス・キリストの再臨の日です。「最後の審判の日」、或いは「救いの日」ということもあります。イエスが十字架上に死なれて暫くの間は、クリスチャンたちは、「その時」がすぐにでもやってくるという緊張感の中で生活をしていました。 しかし、再臨はなかなか来ません。次第に緊張感が失われていきました。そのようにして2000年が経ちました。現代のわたしたちは、再臨をどのように考えればよいのでしょうか。「その時」、「再臨」はもう来ないのでしょうか。
再臨に関わる歴史を見てみますと、再臨の日が何時やってくるかについて膨大な計算が行なわれ、それが天文学の発展に寄与するという効果はありましたが、結局、再臨が何時来るかは分かりませんでした。また、時々、再臨が今にも来ることを説く人が現れましたが、いずれも人々を不安と混乱に陥れただけでした。わたしたちにとっても、この世の終わりは、確かにわかりません。しかし、わたしたち人間にとって、ただ一つ確かなことがあります。それは、自分自身の終わりは確実にやってくることです。世の中、不確かなことばかりですが、これだけは100パーセント確実なことです
ハイディガーという哲学者は、「人間は、生まれた直後から、死、つまり終わりへと定められた命を生きている」と言いましたが、正にそのとおりです。
聖書が再臨について語るとき、それは、将来のことを語るより、現在の生き方を語っていると考えた方が理解し易いように思います。ある神学者が『終わりから今を生きる』と言いましたが、正に、再臨は、わたしたちが、今をどう生きるかを語っているのです。再臨はないとは言えませんが、それは、何時起こるかと言うことより、今どう生きるかに意味があるのです。
このような個人の生き方に対して、民族として、メシア(救い主)到来の希望に生きたのが聖書が語るイスラエル民族です。イスラエルの民は、いかなる苦難に遭っても、絶望に突き落とされても、また何百年待たされても、救い主が来てくださるという確信を失いませんでした。「気をつけて、目を覚ましていなさい」というのは、もう一度父である神とのつながりを回復せよとの警告でもあります。イスラエルの民は、いかにひどい状況の中でも、その中で、父である神の愛の確かさを見つめ、そこから希望を汲み取ってきた稀有の民族です。
「目を覚ましていなさい」という警告の中に、常に神の愛の確かさを見つめ、集中と緊張感の中で希望を持って歩いて行きたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
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