――今日の聖句――
<イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。」>[マタイによる福音書 5:1−3]
今日の聖句は、「山上の説教」として有名な箇所です。しかし、「心の貧しい人々」という言葉は、その意味を正確に理解することのむつかしい言葉でもあります。今日は、この言葉の原語の面から、その意味を探ってみたいと思います。
(1)ヘブライ語で「貧しい」は、「アナウィ」と言います。この「アナウィ」という言葉は、単に物質的に貧しいという状態を指すのではなく、いろいろな出来事によって、持っているものを次々と剥ぎ取られ、追い詰められていく状態にある人々を指すそうです。
昨年、わが国は、多くの自然災害に見舞われました。また、年末には、スマトラ沖大地震が起きました。自然災害だけでなく、不況で会社が倒産したり、リストラをされたり、しつっこい病気にかかったりして将来に何ら希望が持てず、途方にくれている人々、また、戦争によって家や家族を失い理由もなく踏み潰されていく人々、こういう人々をアナウィと言います。これらの人々は、あまりの悲惨さに圧倒されて、もう自分自身の中に立ち直り、乗り越える力を持っていない人々です。新共同訳(『講談社学術文庫版』)では、「ただ神により頼むしかない人々」と訳しています。それは、物質的な貧しさを含んで、更にもっと心の深いところにある痛みや悲しみを表しています。
(2)ギリシャ語原文から、「心の貧しい人々」と訳された元の言葉を直訳しますと、「霊において貧しい」となります。英語聖書では「poor in spirit」となっています。この場合の霊は、「神の霊」とか「聖霊」という場合の「霊」と同じです。つまり、「神や人との関係において、自分の霊の不足や欠けを自覚する人々」ということになります。
「霊の貧しさ」は、「愛の貧しさ」と言い換えても良いかもしれません。 つまり、「心の貧しい人々」とは、「自分の愛の貧しさを自覚する人々」ということです。
わたしたちは、自分の周りに、さまざまな悩みを持っている人を知っており、何とかしてあげたいと思っています。しかし、人の悩み一つ聞いてあげることが大変難しいことに気づかされます。そういう時、自分の愛をもっと深く豊かにすれば,悩み苦しんでいる人の側に立てると考えるかもしれません。しかし、そうでないことにやがて気がつくのではないでしょうか。
例えば、一人の父親或いは母親として子供に愛情を持っており、自分の子供くらいは立派に育てられると思っていたとしても、その愛情が子供を損なうことも起こります。そんな場合、どうすればよいでしょうか。そんなときは、自分のプライドも能力も対面もすべてありのままに神さまの前に投げ出して、自分の欠けを正直に告白するしかないのかもしれません。それが「心の貧しい」ということです。そうすることは、そんなに簡単なことではありません。しかし、それができたとき、その時初めて、主イエスがその貧しさをじっと御覧になって、「あなたは、幸いだ」と言ってくださるのではないでしょうか。
わたしたちが、たった一人でも、真実、悩んでいる人の傍らに立つことができるのは、それは自分自身の持つ豊かさにためではなく、自分の貧しさに立つしかなかったときであり、そのとき、この貧しさの中に主イエスが立ってくださったことを感じるのではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。・・・そのときから、イエスは、「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と言って、宣べ伝え始められた。>[マタイによる福音書 4:12−17]
今日の聖句には、主イエスの公生涯の最初の出来事が書かれています。 その第一声が、「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉でした。
「悔い改め」は、ギリシャ語で、メタノイアと言います。メタノイアを逆から読めば何と読めるでしょうか。「アイノタメ」(愛のため)です。「悔い改め」は、「愛の出来事」です。「悔い改め」で思い起こすのは、ルカによる福音書の「放蕩息子の物語」です。その中に、このような言葉があります。
<そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。」>[ルカによる福音書 15:17−18]
彼は、放蕩の限りを尽くし、財産をすべて失って、貧乏のどん底まで落ち込んだとき、ふと「我に返った」のです。そして、父親との愛の関係を回復することができました。
聖書には、「悔い改め」と関係の深い言葉として、「罪」と「義」という言葉があります。「悔い改め」も「罪」も「義」も、聖書においては、人間と神との関係を表しているところがポイントです。「罪」とは、単に道徳的な意味で悪いことをしたり、法律に違反することではありません。また、「義」は、道徳的な正しさや、法律に従うことを表しているのではありません。「罪」は、ギリシャ語でハマルティアと言います。この元の意味は、弓で射られた矢が的から外れることを表しています。人間と神との関係が、本来のあり方から外れることを意味しているのです。また、「義」の元の意味は、食料や富の配分が公平であることを表しています。旧約聖書では、「正義と公平」という言葉がセットで用いられることが多いのですが、これは、神が義であるとは、神は人々に、何よりも分配の公平を要求されることを表しているのです。 このよう見てきますと、この「罪」も「義」も「悔い改め」も、人間と神との関係を指しており、崩れた関係、つまり「罪」から、本来のあるべき正しい関係「義」へ立ち返ることが、「悔い改め」ということになります。
人間を他の動物から区別するものは何でしょうか。いろいろな切り口があると思います。私は、人間と他の動物とを分ける根拠として、次の3点に注目したいと思っています。
人間を、このように、集団の中で、しかも意味なしでは生きていけない存在だとしますと、「悔い改め」という行為は、人間が人間であることを取り戻すために、常に、行わねばならない不可欠の営みということができるのではないでしょうか 「悔い改め」とは、神とのあるべき関係に戻り、新しい意味を獲得し、歩き出すことです。そして、それは、人間が人間であるための不断の営みです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
・・・
わたしに言われた。
あなたはわたしの僕、イスラエル
あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
わたしは思った。
わたしはいたずらに骨折り
うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
働きに報いてくださるのもわたしの神である。
主の御目にわたしは重んじられている。>[イザヤ書 49:1−5]
顕現節の意図は、「主イエスとは、誰なのか」を学ぶと共に、わたしたちが、「自分とは、何者か」を確認することにあります。今日の聖句は、イザヤ書に4つある「主の僕の歌」の第二番目の歌です。初代教会以来、人々は、この歌を、主イエス・キリストを指し示す言葉として理解してきましたが、ここでは、わたしたちクリスチャンにとって、本質的なことを指し示す言葉として読んでみたいと思います。
第一は、「わたしたちは、招かれて、クリスチャンになった」ということです。
わたしたちは、自分で考え、決断してクリスチャンになったのだ、と思っているかもしれません。しかし、実は、そうではなく、わたしたちは主イエスに招かれてクリスチャンになったのだ、ということです。イエスも、十字架にかけられる前夜、弟子たちに、このように話されました。
<あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。>[ヨハネによる福音書15:16]
このことは、わたしたちが「自分が何者か」を考える時、その原点となる大変重要なテーマではないでしょうか。
第二は、「わたしたち自身から、輝きが出る」ということです。
わたしたちは、誰も、自覚しているかいないかは別として、固有の使命を託されています。それは、わたしたちの言葉や行いよって主の輝きを現すためです。この世に主の輝きをもたらすのは、決して偉大な聖人だけではなく、ごく普通のわたしたち自身の使命なのです。主イエスは、生まれつき目の見えない人に言われました。
<本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。>[ヨハネによる福音書 9:3]
これは、ただ、2000年前の一人の目の見えない人のことではありません。これは現代のわたしたち自身のことでもあるのです。わたしたち、それぞれ弱さを抱えています。主の輝きは、むしろ、その弱さの中から輝き出る、と主イエスは言われたのです。
第三は、「わたしたちは主の御目に重んじられている」ということです。
世の中は、努力がそのまま報いられるとはかぎりません。善意でしたことが裏切られたり、思わぬ中傷を受けることもあります。その中で、わたしたちは疲れ果てます。しかし、主は、わたしたちの努力に正しく報い、一人ひとりを重んじてくださっているのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」と言う声が、天から聞こえた。>[マタイによる福音書 3:16−17]
今日は、主イエスの洗礼を記念する日です。この「主イエスの洗礼の日」と「成人祝福式」が重なったことに、格別の意味を感じています。
ご承知の通り、マルコによる福音書やヨハネによる福音書には、マタイやルカの福音書にあるような主イエスの誕生物語はありません。マルコやヨハネは、主イエスの生涯をその洗礼の時から書き始めます。
マルコによる福音書によれば、主イエスは、洗礼を受けられ、その生涯を始められる時、このよう言われました。
<「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」> [マルコによる福音書 1:15]
ギリシャ語には、時を表す言葉が二つあります。クロノスとカイロスです。クロノスは、日々、刻々と過ぎていく時、いわば普通の時です。これに対して、カイロスは、この日常の刻々と過ぎてゆく時の中に、打ち込まれた特別の時です。連続する時、クロノスの中にある、時の切れ目、時の裂け目ということもできます。ある人はこれを「神の時」と言いました。その人の人生において特別な意味を持っている時です。
マルコによる福音書の「時は満ち」の「時」は、カイロスです。また、旧約聖書の「コヘレトの言葉」の3章に、次のような有名な言葉があります。ここに使われている「時」もカイロスです。
イエスにとって、洗礼は、天の時、カイロスでした。神は、イエスの日常的なクロノスの間に、深い切れ目を打ち込まれたのです。主イエスは、このときから、自分の本質と使命を自覚し、新しい生を歩き始められました。成人式も、そういう特別な時になりうる時です。しかし、誰にとっても、その時がカイロスになるとは言えません。日常の時、クロノスが、特別の時カイロスになるには、それを主体的にどう受け止め、自覚するかという感受性が必要だからです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<彼ら(占星術の学者たち)が(ヘロデ)王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として奉げた。>[マタイによる福音書 2:9−11]
新年、おめでとうございます。
昨年は、台風、地震、熱暑など自然災害の多い年でした。年末の26日には、インドネシア・スマトラ沖大地震、インド洋巨大津波が起き、犠牲者は12万人を越えると伝えられています。また、イラクでは、選挙をひかえ、テロの拡大が心配されます。どうか、この年が、わたしたち一人ひとりにとって、また世界の人々にとって、平和な年になることを願いたいと思います。
今日の聖句は、1月6日の顕現日と同じ箇所です。顕現日は、エピファニーと言いますが、「現れる」という意味で、主イエスの福音が、世界に伝えられ、神さまの働きが全世界に現れることを記念する日です。この日には、伝統的にマタイによる福音書の2章の、「3人の博士たち」の物語が読まれてきました。これは、救い主イエスの誕生が、イスラエル民族だけのものではなく、世界のすべての人々のためであることを示しています。よくご存知の物語ではありますが、わたしたちが、この物語から何を読み取らねばならないのでしょうか。
「東の方」というのは、イスラエルから見て東の方、つまり、現在でいえば、混乱の中にあるイラクがあるところです。イスラエルにとっては、アッシリアであり、バビロンであり、ペルシャであって、歴史上、常に国の存立を脅かしてきた、いくら憎んでも憎みきれない国のあるところです。また、「占星術の学者」と訳された元の言葉は、マゴスで、マギ、魔術を行う人を指します。最近、テレビでは気象予報士が活躍していますが、当時も、太陽や星を観測して、その年の気候を予測したり、彗星など天体に異変が現れると、その意味を考える仕事をやっていたようです。 つまり、占星術の学者たちとは、遠い外国の偉そうであるが、何か得体の知れない人々ということになります。
マタイによる福音書によれば、主イエスの誕生に駆けつけたのは、この得体に知れない異国の人物だけです。これはイスラエルの民族にとって痛切な意味を持っています。イスラエル人にとって、神に救いに最も遠いところにいると思われていた異邦人、しかも、星占いの魔術師という得体のしれない人物だけが救い主、幼子イエスに会うことが出来、大きな喜びにあずかったのです。
これは、イスラエルの人々にとって屈辱的なことであったと思います。そしてまた、現代のわたしたちも、充分心しなければならないことではないでしょうか。 わたしたちは、聖書のこともそこそこに勉強している。毎日曜日には、教会に行ってお祈りをしている。社会奉仕もそれなりにやっている。だから、クリスマスは自分の方にあると思っています。しかし、わたしたちは、本当に救い主がわたしたちのところに来てくださったという喜びを持っているかどうか、手を胸に当てて考えてみなければならないのかもしれません。
(牧師 広沢敏明)
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