――今日の聖句――
<夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離なれた所で、もう時間もたちました。群集を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」・・・(イエスは)五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群集に与えた。すべての人が食べて満足した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠一杯になった。>[マタイによる福音書 11:15―203]
この出来事が、洗礼者ヨハネが殺された翌日の出来事であることに、先ず注目したいと思います。「イエスはヨハネの再来」との噂も広がっていました。ヨハネは、イエスのすぐ前を歩いていた預言者です。ヨハネを襲った同じ悲劇が、イエスの上にも降りかかってくることは充分予想されました。イエスは、ひとり人里離なれた所に退き祈ろうとされますが、その試みは中断されます。それを聞いた大勢の群集がイエスの後を追ったからです。そこで、イエスは、ここに自分の話を聞くため、病気をいやしてもらうため集まってきている人々、世の中のあらゆる苦難や不条理を背負い、それに耐えている人々、この人たちに自分のすべての愛を注ぎたい、そして弟子たちの心にそのことをしっかりと刻み付けたいと思われたのではなかったでしょうか。これがこのパンの奇跡の背景です。
夕暮れになると、解散して、人々はそれぞれ自分で食べ物と調達するのがいつものことでした。しかし、この日に限って、イエスは、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」と言われました。弟子たちは、驚きました。何しろ群集は男だけで5千人です。子どもや女の人を加えると1万人を超えています。弟子たちは言います。「ここには、パン5つと魚2匹しかありません。」イエスは言われます。「それをここに持ってきなさい。」弟子たちが、5つのパンと2匹の魚を、イエスの足もとに置くと、イエスはそれを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂くと弟子たちに渡し、弟子たちは、それを群集に配り始めます。ここに奇跡がおきます。弟子たちは、イエスから渡されたパンと魚を、群集の中に分け入って配り始めます。配っても配っても、手の中のパンと魚はなくならない。しかし、そんなことを考えるいとまもなく必死で配ります。どのくらい時間が経ったでしょうか。やっと配り終わったとき、残ったパン屑を集めると12の籠にいっぱいになったというのです。
この物語の核心は、イエスが奇跡を行なうのに、弟子たちと弟子たちの持っているものを用いられたということです。イエスは、この奇跡を単独で行なうこともできたし、他の材料をお用いになってもよかった。しかし、この時は、そうはされずに、弟子たちをお使いになったと言うことです。イエスは、奇跡の中に弟子たちを巻き込んでいかれたのです。
ガリラヤ湖畔の人里はなれた丘の上で、夕陽を浴びながら、腕に籠をさげ、群集一人ひとりにパンと魚を配る弟子たちの姿を思い浮かべてみましょう。その弟子たちの姿と、今ここにいるわたしたちの姿とが重なり合わないでしょうか。 わたしたちの能力、わたしたちが持っているものは極めて小さなものに過ぎません。しかし、わたしたちがそれを主イエスの足もとに置き、主イエスがそれを祝福してくださるとき、それらは思いもかけない大きなものに変わっていくのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」>[マタイによる福音書 13:31−33]
聖書がいう「天の国」は、死んでから行くところではありません。それは、「神の支配」を意味しています。神さまが働いておられるところ、み業が行なわれているところです。
この二つのたとえは、細部においては少し違う点もありますが、基本的には同じことを言おうとしています。からし種もパン種も目で見えないくらい小さなものですが、それが働き始めると、小鳥が巣をかけるくらい大きな木になったり、何十人分の小麦粉を膨らましてパンにする力を持っているということです。
二つのことに注目してみたいと思います。
(1)一つは、神の支配の始まりは、きわめて小さいところから始まったと言うことです。
キリスト教は、今でこそ世界最大の宗教と言われますが、その一番初めを想像してみてください。イスラエル全体の面積は、四国くらいです。ですからイエスが活動されたガリラヤ地方は、一つの県ほどの大きさです。イエスの活動の期間も、長くて3年、ひょっとすると1年くらいだったかもしれません。イエスと共に旅をし、直接薫陶を受けた者の数も十数人と言ったところでしょうか。最初はそんな小さな集団に過ぎませんでした。それが次第に膨らみ成長して、今日のような教会の姿になったのです。そこに働いているのが神の力だということです。
(2)もう一つは、(1)と矛盾するようですが、その渦中にいると神の働きはなかなかわたしたちの目には見え難いということです。
2000年前、イエスを十字架につけて殺した人々は、イエスの姿のどこにも神の働きを見ることができなかった。イエスも、決して神らしく見えるようには振る舞われなかった。ですから、人々はこの男こそ神の支配から取り除かれなければならないもの、神に呪われるべきものと考えたのです。イエスは、人間に中でも、最も惨めな、最も弱い、最も貧しい有様の中に立たれた。なぜならば、神が神らしくされれば、人間はもうその前に立つことさえできないのではないでしょうか。そこに神の深い神秘があります。。
牧師の仕事も結構忙しいものです。最も気に掛かるのは、病気で伏せている方や、いろいろ難問を抱えながら生活している方への思いです。何かしなければいけないと思いながら、結局何もしないうちに、次の主日が巡ってきます。信徒数は減り、礼拝出席者も減り続けている。こんなことをやっていては、そのうちだれも教会にやってこなくなるのでは、という不安もあります。
しかし、こんなことを考えるのは傲慢かもしれません。宣教は神のみ業です。わたしたちは、その神の宣教の一部に参加させていただいているのです。宣教がたとえ上手く行っていなくても、すべてが自分の責任であるかのように嘆く必要はないのです。神は小さなわたしたちの教会も、力のないわたしたち自身も巻き込んで、膨らませていかれるのです。神のみ業(働き)は、今は目に見えなくとも、思いもかけない仕方で実を実らせてくださるのです。わたしたちは、それを信じてもっと楽観的でよいのではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。『ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦が現れた。僕たちが主人にところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は『敵の仕業だ』と言った。そこで僕たちが『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』>[マタイによる福音書 13:24−30]
今日の聖句で、「僕たち」は、イエスの最も近くにいた信仰熱心な弟子たちを指しています。熱心な信仰、それ自体は大切なことなのですが、信仰の完璧さ追い求め、他者にも同じ信仰を要求し始めます。教会の現状に、こんなはずではない、なぜ、それが崩れているか問い始めます。そして、次第に、異物の存在に耐えられなくなり、異物を批判し、異物を取り除こうとし始めます。
しかし、この畑の主人は、「収穫のときまで、そのままにしておきなさい」と答えます。言うまでもなく、この主人はイエスを指しています。この世の中は複雑かつ多様です。この世の中には、神だけしか本来知ることのできない領域があります。イエスは、この神だけしか知ることのできない領域に、人間が入り込み、神の名によって裁くことの危険性と愚かさを指摘されたのではないでしょうか。
イエスのもとに集まってくる人々にはいろいろな人がいました。社会的な地位の高い人もいたでしょうが、社会の底辺で、食うや食わずにいる人もいたでしょう。信仰的に優れた人もいたでしょうが、徴税人や娼婦など罪人のレッテルを張られていた人、また、酒に身を持ち崩している人や、長年病気で苦しんでいる人もいたでしょう。
また、イエスに近寄ってくる動機も、いろいろ異なっていたのではないでしょうか。純粋にイエスに惹かれ、御言葉を慕って来る人、或いは日々の生活の疲れの中で、何か慰めと希望を見出したいと思ってきた人もいたでしょうが、ただ病気を治して欲しい、或いは、人間的な打算に基づいて自分の欲望や目標を達成するためにイエスを利用しようと考えている人もいたでしょう。或いは、一時的な好奇心で、どんな奇跡が行なわれるか、それを見ようとして来た人もあったでしょう。 しかし、人間には、その外見だけで、本当に心からイエスを慕い、真実の信仰を求めているかどうかを判断することは不可能です。もし、弟子たちの誰かが、信仰熱心の名のもとに、自分の目で、毒麦かどうかを判断して取り除こうとすれば、よい麦をも引き抜いてしまう危険性があります。
もう一つ注意しておかなければならないのは、わたしたちは、毒麦を想像するとき、自分が毒麦とは思っていないと言うことです。しかし、わたしたちが毒麦でないという保証はどこにあるのでしょうか。 神さまは、そういう毒麦かもしれないわたしたちも、そのままにしておいてくださっているのです。大切なことは、他人を批判することではなく、一人ひとりが、イエスとの真実の出会いができるように祈りあい、互いの弱さを背負い合っていくことにあるように思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない土地に落ち、・・・ほかの種は茨の間に落ち、・・・ところが、ほかの種は、良い土地の落ち、実を結んであるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」>[マタイによる福音書 13:3―17]
今日の聖句は、「種を蒔く人の譬え」です。皆さんよくご存知の譬えです。道端に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い地に落ちた種、この譬えは、普通、福音の言葉が、いかに豊かで力強い生命力に満ちていても、それを受け取る人の心の状態や心の在り方によって、実を結ばず無駄になってしまうこと、つまり人の心のあり方の大切さを強調する譬えと考えられています。しかし、この聖句に続いて、主イエスがなぜ譬えを用いて話されるかということが書かれています。イエスは、弟子たちの質問に答えて、次のように答えられます。
<あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。・・・見ても見ず、聞いても理解できないからである。・・・しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。> [マタイによる福音書 13:11]
ここに「天の国の秘密を悟る」という言葉があります。これがキーワードです。イエスは、「天の国の秘密を悟ること」、即ち、「イエスを知ること」の難しさ教えると同時に、イエスを知った人たちに向かってエールを送られたのです。事実、日本において「イエスを知った人」人口の1%に満ちません。イエスは、99%の人々を裁こうとされたのではありませんが、イエスを知った1%の人々には、大きな励ましを送ってくださっているのです。
わたしたちは、譬えで語ると言うことは、分かり難い事柄を、分かり易くすることだと思っています。しかし、ヘブライ語で譬えは、謎々を意味しています。ギリシャ語ではパラボレーと言い、英語のパラブルの元になった言葉です。もともとの意味は、二つのものを側に投げると言うことです。投げられた二つのものが、どのような関係にあるのか、その謎を解くというのが、譬えが用いられる理由だ、というのです。ですから、譬えに出会ったときには、そこにどんな謎が隠されているか推理してみることが大切となります。「種蒔の譬え」にはどのような謎が隠されているのでしょうか。先に、この譬えは、「人々の心の在り方を問題にしている」と言いましたが、果たしてその通りでしょうか。
むしろ、私は、「現実の重さ」の中で、「イエスを知ることの難しさ」を強調している譬えとして読みたいと思います。「道端に落ちた種」は、御言葉に対する人間の感性の乏しさを、「石地に落ちた種」は、困難にくじけ易い人間の心を、「茨の中に落ちた種」は、誘惑に弱い人間の心を表してはいないでしょうか。これらのことを一言でいえば、「現実の重さ」と言ってもよいかもしれません。この「現実の重さ」に対して、イエスに従って生きて行けるかが問われているのです。そして、現実の重さに耐えて、御言葉に生きている人々に対しては、「あなたがたは幸いだ」と、イエスは大きなエールを送っておられるのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは謙遜で柔和な者だから、わたしの軛(クビキ)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。>[マタイによる福音書11:28―30]
教会は、何はさておき、「安らぎが得られる」ところでありたいと思いますが、「安らぎを得る」とはどういうことでしょうか。今日の聖句は、この「安らぎ」について、いろいろ考えさせてくれます。
先ず、この「疲れた者、重荷を負う者」は、誰のことをいっているのでしょうか。いろいろな解釈がありますが。私は、それは、今この聖句を読んでいる「自分のこと」だと理解したいと思います。人間だれでも、人生さまざまな苦労、重荷があり、それによって疲れ果てることもあります。その自分に向かって、主イエスが呼びかけてくださっているのです。
しかし、主イエスは、わたしのもとにくれば、自動的に「安らぎ」が得られるとは言われませんでした。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」、そうすれば「安らぎを見出すだろう」と言われたのです。「わたしの軛を負い、わたしに学ぶ」ということを、こういう風に考えてみたいと思います。少し飛躍するようですが、物理学には、物事の本質を表す方程式があります。 例えば、アインシュタインのエネルギーの方程式もその一つです。E=m×cの二乗、で表されますが、エネルギーは、重さ(m)と光の速度(c)の2乗をかけたものに等しいという式です。これは、重さというものが、莫大なエネルギーを持っていることを表しており、これに基づいて、原子力発電や原子爆弾が発明されました。
これと同様に、「イエスの重荷方程式」というものを考えてみたいと思います。つまり、わたしたちが感じる重荷の重さというものは、自分と、イエスとが関係しており、それ以外の条件が全く同じだとすれば、自分というものが大きくなればなるほど重荷が重くなり、自分の中のイエスが大きくなるほど、重荷が軽くなるという方程式です。例えば、その重荷方程式では、分数で自分が分子にあり、イエスが分母にあると考えてみてください。
優れた生命科学者で不治と言われた病から奇跡的に回復された柳沢桂子さんをいう方が、最近、「般若信経」を心で翻訳したという詩を発表されました。そこに、こういう言葉があります。 「人はなぜ苦しむのでしょう。ほんとうは、野の花のように、わたしたちも生きられるのです。・・・私たちが、ありとあらゆるものを、「空」とするために、削り取り、削り取ったことさえも削る取るとき、私たちは深い理性をもち、「空」なる智慧をみにつけたものになれるのです。」
「空」とするとは、先ほどの重荷方程式で、自分を限りなく小さくすることです。そのことによって「安らかな境地」が開かれると言われます。わたしたちは、いろいろなものを持っています。財産、家族、社会的な地位や名誉など、それらを持たなくては生きて行けないことも事実ですが、それらが増えれば増えるほど、重荷が大きくなるのも事実です。 柳沢桂子さんは、「削り取り、削り取ったことさえも削り取るとき」と言います。自分を小さく小さくしていくことです。柳沢桂子さんは、もっぱら自分を小さくすることに意を注がれますが、わたしたちクリスチャンには、自分の中のイエスを大きくするという道も備えられています、「イエスの心を生きる道」です。
(牧師 広沢敏明)
![]() |
![]() |
![]() |