今週のメッセージ――主日の説教から


2005年6月26日(日)(聖霊降臨第6主日 A年) 晴れ
「 聖なる不和 」

――今日の聖句――
<わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘をその母に、嫁をしゅうとめに。こうして自分の家族の者が敵となる。>[マタイによる福音書10:34―36]

 先週の木曜日には、沖縄で、戦争終結60周年記念式典が行なわれました。また、先週は、15歳の少年が、肉親殺害の容疑で逮捕されるという事件が相次いで起こりました。東京の社宅管理人夫妻殺害では、長男が父親に「頭が悪い」とののしられて腹を立てたと供述しているということです。福岡の事件では、日頃いじめられていた恨みから兄を刺したとのことです。改めて、「平和」ということを考えさせられる時です。

 このような時、今日の聖句をどのように読まれるでしょうか。わたしたちは、主イエスがこの世に来られたのは、この世に平和をもたらすためだ、と思っています。今日の聖句は何かの間違いではないかと思われるかもしれません。しかし、多くの学者は、この言葉はまさしく主イエスの言葉だ。なぜなら、このような言葉は、主イエスでなければ言えない言葉だからだ、と言います。

 事実、主イエスは、人々の中へ剣を投げ込まれました、人々はその剣(十字架)でイエスを刺し殺したのです。主イエスだけでなく、それは古代イスラエルのすべての預言者がたどった運命でもありました。預言者は、この世に神の言葉を告げ知らせるために神によって選ばれた人々です。しかし、預言者の言葉を聞いた人々は、預言者の言葉を受け入れませんでした。人々は、厳しい真実の言葉より、甘く心地よい言葉を好んだのです。そのようにして、多くの預言者は非業の死を遂げていきました。

 紀元前6世紀、預言者エレミアもその一人です。ユダ王国滅亡を目前にして、エレミアはイスラエルの人々に警告しましたが、真実を見ようとしない人々は、エレミアの言葉を受け入れず、却って、エレミアを迫害します。エレミアは、このように言います。

<彼らの耳は無割礼で、耳を傾けようとしない。見よ、主の言葉が彼らに臨んでも それを侮り、受けようとはしない。・・・彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに、『平和、平和』という。>〔エレミア書6:10〕

 「この世の秩序」は、「神の秩序」と鋭く対立します。「神の秩序」は、一人ひとりが、誰からも支配されず、傷つけ合あわず、のびのびと自由に本来の自分を生きられる秩序です。この世の秩序は、人間のさまざまな欲望が造り上げてきた秩序で、誰かが誰かを支配することによって成り立っています。そこには、「偽りの平和」しかありません。 主イエスが「平和でなく剣を」と言われたのは、このような「偽の平和」を破壊しなければ、「真の平和」をもたらすことができないということです。

 この世に神の秩序を打ち立てるのは、極めて難しいことです。しかし、これ以外に「真の平和」への道がないとすれば、何百年何千年かっても、それに向かって努力するしかありません。主イエスのもたらされた剣は、本来刺し貫かれて然るべきわたしたち人間ではなく、主イエスを刺し貫きました。主イエスは、自らの死をもって、「偽りの平和」より、「聖なる不和」の大切さを教えられました。それは、わたしたちが、直面する現実の暗闇や真実から目をそらさせないためです。

(牧師 広沢敏明)


2005年6月19日(日)(聖霊降臨第5主日 A年) 晴れ
「 旗幟を鮮明にする 」

――今日の聖句――
<だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人を仲間であると言い表す。しかし、人の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないという。>[マタイによる福音書10:32―33]

 「旗幟を鮮明にする」という言葉があります。旗と幟、つまり旗印をはっきりさせる、という意味です。今日の聖句は、この言葉を思い出させます。

 日本の社会の中で、「自分はクリスチャン」であると表明することは、結構勇気が要るものです。しかし、宣教始めるには、先ず、自分は何者であるかを表明しなければ、何も始まりません。なぜ旗幟を鮮明にすることができないか。それは恐れがあるからです。現在の日本社会において、クリスチャンだからという理由だけで、迫害を受けたり、差別扱いを受けることはありません。しかし、恐れはあります。自分の言動が変な色眼鏡で見られたり、心理的に制約を受けるのは、勘弁願いたい、もっと自由に振舞いたいという気持ちです。日本では、クリスチャンというと、真面目で、品行方正で、融通が利かないというイメージが結構根強く定着しています。しかし、自分は、そんなに善人でも、真面目でも、品行方正でもないし、そんなことを期待されても、できはしない。別に、やましいわけではないのですが、自分の言動や信仰をいちいち説明させられたのでは、堪らないという思いではないでしょうか。

 主イエスは、弟子たちを宣教に派遣するに当たり、「恐れるな」と言い、なぜ恐れることはないのか、3つの理由を挙げられます。

 最初に、「覆われているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない」と言われます。神の力は、世の隅々にまで及んでいる。一時的には人間の力で真実を覆い隠すことができるかもしれない。しかし、結局は真実が必ず勝利する、わたしたちはそれに希望を託すことができるのです。

 次に、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と言われます。人間の力は、体を圧迫し、傷つけることはできても、魂には指一本触れることはできない。魂に触れることのできるのは神だけであり、人間を恐れるあまり、神とのつながりを失ってはならないということです。

 最後に、「あなたがたの髪の毛1本まで数えられている」と言われます。それは、髪の毛1本までも数えられるような見守りと慈しみの手の中にあると言うことです。わたしたちは、決して一人で、孤独ではありません。

 「旗幟を鮮明にする」、大変勇気のいることです。しかし、思い切って行動してみると、そこから新しい道が拓かれるものです。「恐れることはない。わたしはいつもあなたと共にいる」、これは、旧約、新約聖書を通して、聖書がわたしたち語る最大のメッセージです。

(牧師 広沢敏明)


2005年6月12日(日)(聖霊降臨第4主日 A年) 晴れ
「 イエスの心 」

――今日の聖句――
<イエスは、町や村を残らず回って、会堂で教え、御國の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。>[マタイによる福音書9:35―36]

 イエスが活動されたガリラヤ地方のことを、マタイは、「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」と言っています。ガリラヤの地が、外国の軍隊によって侵略され、悲惨な状態にあったことを表しています。イエスの時代にはローマ帝国の支配下にあり、人々は激しい搾取によって貧困のどん底にあり、人権は蹂躙されていました。町や村には、肉体的にも精神的にも疲れ果てた人々が溢れていたのではなかったでしょうか。

 そのような人々を目にされたイエスは、激しく心を動かされます。それが、「深く憐れまれた」という言葉です。原語のギリシャ語、スプランクニゾマイは、はらわたや内臓を意味する言葉から派生して「はらわたがちぎれ、よじれるような深い痛みを感じること」を表すようになりました。「深く憐れむ」とは、人々の痛ましい傷ついた姿を見て、激しく心をゆすぶられる「心のやさしさ」です。

 イエスは、その心のままを行動に移されます。病気の人々をいやし、飢えている人々にパンを与え、差別されている人々と共に食事をされます。そして、遂にはすべての人々のために十字架にかかられました。「深く憐れむ心」は、主イエスの全生涯の原点を指し示しているのです。

 現代日本のわたしたちの状態はどうでしょうか。経済的に豊かになっていることは事実でしょうが、心の状態はどうでしょう。今月初め、昨年一年の自殺者の統計が発表されました。これによると、昨年一年に自殺した人は、32,325人で、7年連続3万人を超えることになりました。自殺者の数だけをもって、その国の人々の心のあり方を推し量ることはできませんが、しかし、ある程度、その傾向を示していると考えることも許されるのではないかと思います。

 発表によると、原因・動機別では、第一が健康問題で全体の45%、第二が経済生活問題で24%で、この生活苦は、最小だった1990年の6倍にもなっています。世界一の長寿国で、健康問題での自殺者が多く、豊かな社会で、困窮が大きな自殺の原因になっているというのも、大変奇妙な現象ですが、これが、現在のわが国の心の状態を示しているのかもしれません。その他、新しい現象として、インターネットで知り合った人たちが一緒に命を絶つという、いわゆる「ネット自殺」が急増しているとのことです。これも、高度情報化社会の中で、一人ひとりは極めて孤独であるという、大変皮肉な現象です。

 教会のことを「キリストの体」と言います。わたしたちが、「イエスの心を生きる者」であるということです。それは、日常生活の中で出会う人々から逃げず、その関係を大切にすることです。例え、何もできなくても、その人のために祈ることだけは忘れないでいたいものです。

(牧師 広沢敏明)


2005年6月5日(日)(聖霊降臨第3主日 A年) 晴れ
「 共に食べる 」

――今日の聖句――
<イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いていわれた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」>[マタイによる福音書9:10―13]

 新約聖書には、食事の場面がよく出てきます。しかも、そのそれぞれに大変重要な意味が込められています。水をぶどう酒に変えられたカナの婚宴の物語、5千人の給食の物語、聖餐式のもとになった最後の晩餐、復活のイエスが弟子たちと魚を焼いて食べられた物語、数え上げればきりがないくらいです。キリスト教ほど食事を大切にしてきた宗教は他にないかもしれません。

 今日の聖句は、イエスが徴税人や罪人と呼ばれていた人たちと食事をされていたときの出来事です。「一緒に食事をすること」は、そんなに簡単なことではありません。だれも、自分の食卓に、喧嘩している相手や気の合わない人を招くことはしません。「教会は宣教によって立つ」と言われますが、それはとりもなおさず、「だれでも、どうぞいらっしゃい、一緒に食事をしましょうよ」と呼びかけることです。

 当時のイスラエルの、ことに宗教界や支配者階層の人々にとって、このような主イエスの姿勢はなかなか理解しがたいことでした。ファリサイ派の人々や律法学者たちにとって、神の祝福を受ける者とは、律法をよく守り、律法において欠陥のない人々でした。

 新約聖書では、イエスと対立するファリサイ派の人々や律法学者は、悪役として描かれていますので、わたしたちは、ファリサイ派といえば、悪者、偽善者と決めつけているところがあります。しかし、これは決して正しいファリサイ派の見方ではありません。実際、ファリサイ派の人々は、当時の社会で、最も真面目で信仰心の厚い人々でした。ローマ帝国の植民地下の厳しい状況の中にあっても、信仰を守れば、必ずいつかは神が報いてくださることを信じ、道徳的にも正しく生きようとした人々です。 彼らに欠陥があったとしたら、自分たちのように律法を守ることができない人々を、自分たちとは別で、自分たちの仲間だと思わなくなっていったことです。その思いが、イエスが貧しい人、病気の人、差別されている人々のところへ行き、一緒に食事をしていることを見たとき、噴出しました。それは、自分たちが必死で命をかけて守っている信仰を否定されたという思いではなかったでしょうか。このようなファリサイ派の人々の思いは、現代のわたしたちにも無縁ではありません。

 主イエスが、貧しい人、病気の人、差別されている人々と一緒に食事をされたのは、その人々に対する同情や憐憫のためではありませんでした。まして、その人たちが、ファリサイ派の人々よりも根は善人であるが、生まれや環境のせいで今のような生活を余儀なくされている、と思われたわけでもありません。主イエスにとっては、彼らも、ファリサイ派の人々も、同じように罪の中にあり、同じように救われなければならないということでした。主イエスは、そのいずれにも、「罪のために死ね」とは言われませんでした。その代わりに、ご自分が十字架にかかり死なれました。そこに大きな意味があります。わたしたちが、「行って学ぶこと」はそこにあります。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Aug/03/2005 (c)練馬聖ガブリエル教会