今週のメッセージ――主日の説教から


2005年3月27日(日)(復活日 A年) 晴れ
「 復活の出来事 」

――今日の聖句――
<(それは)ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。>[使徒言行録 10:37−40]

 イースターおめでとうございます。キリスト教の出発とその基礎は、イエス・キリストが、今から2000年前、十字架につけられて殺され、復活したという出来事の上に建てられています。

 弟子たちは、イエスの死後、「イエスは一体何者であったのか」、「イエスの十字架は、何であったのか」、また、「イエスと過ごした3年間に起こった出来事は、何であったのか」、彼らは、逃避生活の中で必死に考えました。そして、次第に、それら彼らの経験した出来事が、自分たち弟子たちだけでなく、すべての人類にとって、決定的な意味と力を持っていることに気づき、自分たちは、その証人であらねばならないとの決意を固めていくのです。

 今日の聖句は、使徒言行録の使徒ペテロの説教の一部です。そのような弟子の気持ちが良く現れています。使徒ペテロほど、これらの出来事の証人としてふさわしい人物は他にいないように思います。ペテロは、イエスの最初の弟子の一人です。イエス・キリストの出来事の最初から最後まで見て来た男です。イエスの死刑の前夜には、怖くなって逃げ出し、イエスの裁判が行われているとき、「仲間だろう」と言われて、3度まで「イエスなど知らない」と、イエスを裏切った男です。 仲間であるイスカリオテのユダの裏切りも見てきました。イエスがエルサレムに入城されるとき、あれだけ熱烈に歓迎した民衆が、手のひらを返したように「十字架につけろ」と叫ぶ声も聞きました。

 何よりも、自分自身、「一緒に死にます」とまで言った自分が、気がついたらイエスを裏切っていたことに愕然としたのではなかったでしょうか。ペテロは、人間の心の奥底に、深い深い闇の淵が開いていることを眼前に突きつけられたのです。ペテロは、自分自身と人間に対して救いようのない絶望感に捕らわれました。その時、ペテロは、復活のイエスの出会ったのです。それは、それまでの絶望が深かっただけに、ペテロにとって強烈な体験になりました。イエスを裏切った自分をあたたかく包み込む赦しの体験でした。

 主イエス復活の出来事は、見える形では、ペテロをはじめ、絶望の淵をさまよっていた弟子たちが、再び立ち上がり、自分たちが体験した出来事を人々に伝え始めたことです。そのようにして、イエスの福音は世界に広まって行きました。その意味で、イエスの復活の最も確かな証拠は、今、ここに教会があること、わたしたちが今ここに居るということです。もし、イエスの復活がなかったら、今、ここに、この練馬聖ガブリエル教会もなかったでしょうし、わたしたちもいなかったに違いありません。

(牧師 広沢敏明)


2005年3月20日(日)(復活前主日 A年) くもり
「 深い闇を通って 」

――今日の聖句――
<さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。・・・(そこに居合わせた人々の)うちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。・・・しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。>[マタイによる福音書 27:45―46]

 いよいよ今日から聖週に入ります。この1週間、教会は主イエスの受難と死と復活に心を集中して過ごすことになります。今日は、「しゅろの主日」ともいわれます。人々がしゅろの葉を打ち振って、歓呼の声で迎えたイエスは、間もなく同じ人々によって十字架につけられることになります。

 今日の聖句は、「マタイ福音書による受難物語」の主イエスが息を引き取られる場面です。4つの福音書の受難物語は、よく似ているのですが、しかし、それぞれ特徴があります。マタイ福音書の特徴は、「イエスの苦しみ」と「人間の闇」を徹底的に描いています。ルカ福音書に見られるような、愛と赦しにあふれたエピソードは、全くありません。マタイは、欲望とエゴイズムに翻弄される人間の闇の深さと、イエスの苦しみと孤独だけをひたすら描いていきます。

 受難物語には、いろいろな人物が登場します。イエスは、これらの人物によって死へと追いやられていきます。

・弟子ペテロ:
弟子たちの代表者です。熱血漢で愛すべき人物ですが、いざイエスが逮捕されると、自分の命が惜しくなり、怖じ気つき、イエスを裏切ります。
・弟子ユダ:
彼が、なぜイエスを裏切ったかは謎です。彼は、ユダヤに革命を起こそうとしていた。自己の目的達成のためにイエスを利用しようとした。しかし、イエスはその役にたたなかった。少なからぬ人がそのように考えます。
・祭司長たち:
彼らは政治家です。自分たちの権力の維持が、彼らの最大関心事です。そのためには手段を選びません。
・総督ピラト:
彼は、ローマ帝国の高級官僚です。ユダヤでは最高の権力者でしたが、ローマ皇帝の顔色を常にうかがっていなければなりませんでした。彼には失点は赦されません。彼は、徹底して責任から逃げようとします。
・ファリサイ派の人々:
ユダヤで最も信仰の熱心な人たちでしたが、新しい出来事に心を閉ざしたままでした。

 イエスは、裁判の途中から、何を聞かれても話されず、沈黙を守られます。その沈黙するイエスの前で、人々は、イエスを裏切り、辱め、ののしり、鞭打ち、傷つけ、十字架につけます。そうして、イエスからは、一切の慰め、励まし、支え、が奪われます。イエスは、ついに神の光も届かない闇の中で、最後の叫びをあげ、息を引き取られます。

 わたしたちは、このイエスの通られた闇の深さを、はっきり見つめなければならないのではないでしょうか。なぜイエスはそれほどの闇を通らねばならなかったのか、それは、他でもない、わたしたちの救いのためだ、ということです。そして、そのことによって、今、このようにわたしたちがあるということです。わたしたちは、このことをしっかりと心に刻みたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2005年3月13日(日)(大斎節第5主日 A年) くもり
「 自然的命と人格的命 」

――今日の聖句――
(1) <イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」>[ヨハネによる福音書 11:25]
(2) <罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。>[ローマの信徒への手紙 6:23]

 今日の聖句の(1)は、ヨハネによる福音書11章「ラザロの復活の物語」にあります。

 ユダヤのベタニアというエルサレムからほど近い村に、マルタ、マリア、ラザロという3人の姉・弟が住んでいました。ラザロが重い病気に罹り、死に瀕しているとき、マルタとマリアは、イエスに早く来て欲しいと連絡します。しかし、イエスは、なぜか、死んでから到着されるのです。マルタは、イエスに言います。「主よ、もしここにいてくださったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」先のイエスの言葉は、このマルタの言葉に対する応答です。

 ギリシャ語には、命を表す言葉が二つあります。心臓が動いていたり、呼吸をしたりすることに関係する命をビオスといい、「人はパンだけで生きるものではない」と言ったり、「わたしたちは真実に生きているか」、と言う場合の命をゾーエーと言います。日本語に訳すと、ビオスを自然的命といい、ゾーエーを人格的命と言うこともあります。「死んでも生きる」とか、「信じる者は決して死なない」という場合の命もゾーエー人格的命なのです。

 ただ、注意しておかねばならないのは、人間が、自然的命と人格的命の二つを持っていると言うことではなく、それは、一つの命の両面というように理解したいと思います。

 聖書では、死についても、自然的死と人格的死を考えます。今日の聖句に(2)は、パウロの言葉ですが、ここでパウロが言う「死」が、人格的死であることは、お分かりだと思います。聖書で罪という場合も、単に法律に違反したり、道徳的に指弾されるようなことをすることではありません。聖書のいう罪は、神さま方を向いていないと言うことです。或いは、神さまとの関係がうまくいっていず、神さまとの関係が絶たれていることを言うのです。英語の、クライム(法律を犯す罪)とシン(倫理的な罪)と似ています。ですから、「罪の支払う報酬は死です」というのは、「神さまとの関係が、絶たれているならば、もう人格的には死んでいるのだ」ということです。逆に、「神さまとの関係が、結ばれているならば、あなたは、今、ここで、永遠の命を得ている」ということになります。

 「神さまとの関係が絶たれる」とは、どういうことでしょうか。それは、人間がどうしても「自己中心性:エゴ」からなかなか逃れられないことです。自分のことを考えることがよくないというのではありません。ただ、人間は、ともすると自分のことしか考えられなくなるのです。エゴは、神さまとの関係だけでなく、人間相互の関係も破壊していきます。言い換えてみると、それは、愛が失われた状態に他なりません。つまり、神さまだけでなく、人を愛せなくなったとき、神さまとの関係は絶たれ、死に直面することになるのです。

(牧師 広沢敏明)


2005年3月6日(日)(大斎節第4主日 A年) くもり
「 真実を見る目 」

――今日の聖句――
<さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。イエスはお答えになった。「本人が罪をおかしたからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」>[ヨハネによる福音書 9:1−3]

 ヨハネによる福音書9章は、一人の生まれつき目の見えない男が、イエスに癒される物語で、ヨハネによる福音書のエッセンスとも言われる重要な箇所です。今日の聖句は、その冒頭の部分です。多分、彼は、エルサレムの人通りの多い道端で物乞いをやっていた。そこへ、イエスの一行が通りかかります。イエスはその男に目を留められ、その男の目を見えるようにされます。その男は、思いがけない恵みに出会うことになるわけですが、その後、この出来事が安息日に行われたこととも重なって、ファリサイ派の人々から厳しい尋問を受けます。しかし、その尋問の過程で、その男は、次第に、「自分の目を癒したのが誰であるのか」、心の目を開かれていきます。しかし、一方、周囲の人々は、却って、心の目を閉ざし、ますます頑なになっていきます。物語は、裁判の法廷における、原告、被告、証人の論争のような形で展開し、次第に真相が明らかになっていきます。

 最初の段階では、彼は、ファリサイ派の人々に「お前の目はどのようにして開いたか。その人はどこにいるのか」と問われて、「知りません」と答えます。次に尋問されたときは、「あの方は、預言者です」と答えます。彼は、自分を癒してくれたのが誰であるかを真剣に考え始め、次第に真実に目が開かれていきます。三度目に尋問されたときは、「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議です。・・・あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と答えます。彼は、もうはっきり自分を癒してくださった方が誰か分かっていました。

 しかし、ファリサイ派の人々の心は何時までたっても閉ざされたままです。言葉に窮した彼らは、遂に実力を行使します。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」と言い返し、彼を外へ追い出しました。ここで「追い出した」というのは、単に部屋から追い出したのではありません。彼を村八分にし、その町に住めなくするということです。これは、時によっては死を意味しました。

 わたしたちは、生まれつき目の見えない人を想像したことがあるでしょうか。空の色も、山の形も見ることのできない人。神によって造られたこの良き世界を見ることのできない人。それは、どんなに痛ましく、孤独であることでしょう。確かに、目が見えないと言うことは、大変なハンディキャップです。人生を歩んでいくのに大きな重荷です。常に大きな緊張を強いられます。一歩間違えば、身を危険にさらすことになります。しかし、こういう現実を通して、健康な人には見えない真実が見えるということも事実です。目の見える人は、見えるがゆえに見えるものしか信じられなくなります。目に見えないものを信じることが極めて難しくなります。人間のもろさや、悲しさ、限界と言った真実に、目が見えるがゆえになかなか気づくことができません。しかし、目の見えない人にとっては、それらは、極めて身近な現実です。それだけ、真理を身近に見つめていると言うことです。

 福音書を書いたヨハネは、読者であるわたしたちに、実は、目の見えるわたしたちの方こそ、本当は、目の見えない者ではないかと、問いかけているのです。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Apr/05/2005 (c)練馬聖ガブリエル教会