――今日の聖句――
<人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座につく。そして、すべての国の民がその前に集められると。羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』・・・『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』>[マタイによる福音書 25:31―40]
今日の聖句、マタイによる福音書の25章31節以下は、「最後の審判の譬え」とも言われている箇所です。聖書には、一生の間、常に読み返し、それと対峙しなければならない箇所が幾つかあります。私は、この「最後の審判の譬え」もその一つであると思います。主イエスの譬えはどの譬えも、あなたなら、この譬えをどう読むかを鋭く迫ってきます。わたしたちは、この譬えを「自分の物語」どのように読んでいるでしょうか。
わたしたちは先ず、この物語の壮大さに驚かされます。目を閉じてその光景を想像してみてください。数千、数万の天使たちを背後にして座っておられる主イエス。その前には、おびただしい人々の群れ、それは地平線のかなたまで大地を埋め尽くしています。そのどこかに、わたしも、あなたもいるのです。
王・主イエスの言葉に耳を傾けてみましょう。ここで、わたしたちは再び驚かされます。最後の審判の法廷、そこで、主イエスが問題にしておられるのは、「一杯の水」だということです。人々を右と左に分ける基準は、「一杯の水」、しかも、それは、わたしたちが、それ自体すっかり忘れてしまっているような些細な出来事だということです。
次にわたしたちが驚かされるのは、主イエスが、「最も小さい者にしたことは、わたしにしたことと同じだ」、と言われたことです。そこで、わたしたちは議論を始めます、「最も小さい者とは誰のことだろうか」と。
歴史的には、この「最も小さな者」についていろいろな議論がありました。しかし、今わたしたちが考えたいことは、この最も小さい者は、わたしたちのことであり、同時にわたしたちの周りにいる人々だということです。主イエスは、わたしたち人間のために十字架上に死なれました。それは、人間はいろいろ強がりを言っていても、結局、小さく弱い者、神の助けなしでは生きて行けない者だということです。いつかは必ず死ななければならないし、いつどんな不幸が襲うかもしれない。主イエスは、そのような人間の悲しみ,みじめさを、最もよく知って深く悲しまれ、そのために律法主義者たちと対立し、十字架に掛けられました。この最も小さい者にもかかわらず、わたしたちが、今ここにいられるのは、このような神の愛によるのです。このような意味で、わたしたちの「小ささ」が理解できたとき、わたしたちはどうするでしょうか。小さいことの特権を振りかざして、与えられることを望むでしょうか。むしろ、そうではなく、もしわたしたちたちの傍らに、同じような小さい者がいて、その者ののどが渇いていれば、一杯に水を当たり前のこととして差し上げるのではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<天の国はまた次ぎのようにもたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン預けて旅に出た。・・・ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『ご主人様、あなたは蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけていって、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧ください。これがあなたの金です。主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。・・・さあ、タラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っているものに与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人はもっているものまでも取り上げられる。』>[マタイによる福音書 25:14―30]
今日の聖句は、「タラントンの譬え」と言われています。
「ある主人が、僕(使用人)に、それぞれの能力に応じて、5タラントン、2タラントン、1タラントンのお金を預けて旅に出た。そして、かなりの長い旅を終え帰って来ると、その僕たちを集めて、その清算を始めた、最初の二人は、預かっていたお金を倍の増やしていたため、大変お褒めに預かった。しかし、3番目の1タラントン預かった僕は、そのお金をなくしては大変だと思い、土の中に隠しておいたため減りも増えもしていなかった。これを聞いた主人は大変怒り、その僕からお金を取り上げて、最初の僕に与えた。」
注目したいことは、この譬えが元にとなり、タラントンという言葉が、現在の英語のタレントという言葉になり、日本でも、テレビ・タレントとか、お笑いタレントなどと使われているように、人間の能力とか才能を意味していることです。
この「タラントンの譬え」の焦点は、1タラントンを預かり土の中に隠しておいた3番目の僕にあります。この3番目の僕のどこが問題だったのでしょうか。この僕の第一の誤算は、主人の性格を誤解していたことです。「蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集める」と言うように、彼は、主人を古代の専制君主のような暴君と考えていました。しかし、実際の主人はそうではなかったということです。この僕の第二の誤算は、その預けられたタラントンを地面に隠し、自分1人の独り占めにしたことです。
わたしたちは、この「タラントンの譬え」をどのように読めばよいのでしょうか。このタラントンは、わたしたちにとって、持って生まれた性格、才能や能力だけでなく、財産や資格、時間などあらゆるものを含めて、神さまから与えられた賜物を意味していると考えてください。問題は、それを、どのように使っているかということです。
神さまは、自分の持っている賜物を正しく使っていると、もっともっと、いくらでも与えてくださると言うことです。そして、大切なことは、『主人と一緒に喜んでくれ』と言ってくださることです。それをうまく使えば、そのことを神さまが一緒に喜んでくださると言うのです。逆に、それを地面に埋めたり箪笥にしまいこんだりしないこと、つまり自分のためだけに使わないことです。神さまから与えられている賜物は、他人のために使うとき、初めて生かされるのです。すべての人に与えられている、最も大きな賜物は、命と人を愛する能力です。わたしたちが、この与えられた命と愛を生かすとき、それは、他人を豊かにするだけでなく、自分自身をも豊かにしていきます。
(牧師 広沢敏明)
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