――今日の聖句――
<「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、・・・なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だからそちらに行こうと思いました。殊に、わたしパウロは、一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前で、いったいあなたがた以外の誰が、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉であり、喜びなのです。」>[テサロニケの信徒への手紙T 2:17―22]
今日の聖句は、使徒パウロが、かつて自分が立てた教会、テサロニケの教会の信徒たちに宛てた手紙です。パウロのテサロニケの信徒たちの直面する信仰問題に真剣に答えようとする暖かい気持ちが良く窺えます。「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」テサロニケの信徒にとって、これ以上の励ましがあったでしょうか。
次の日曜日11月6日には、わたしたちの教会は、創立70周年を迎えます。昨年来取り組んできた記念誌も出来上がりました。この記念誌で意図したことを幾つか述べてみたいと思います。
第1は、この教会の創立者皆川晃雄(テルオ)司祭に、光を当てたことです。皆川司祭に光を当てることは、その師である日本聖公会の初代主教C.M.ウイリアムスに光を当てることでもありました。2000年前エルサレムから始まった福音が、エルサレム→ローマ→ロンドン→ニューヨーク→東京と、この間、主に捕らえられた無数の人々の情熱にになわれてここまで来たことを思うと、不思議な特別の感慨に捕らわれます。わたしたちは、日本伝道に生涯を奉げたウイリアムス主教の直系の弟子であることに誇りを持ちたいと思います。
第2は、70年の歴史をしっかり学ぼうということです。そのため当教会の「50年史」や他の多くの教会の記念誌が、資料として掲げている年表を、本文の中心に置きました。70年の歴史を、牧師の在籍期間と政治・経済・社会の動きを重ね合わせながら、5つの期間に分けてみました。皆さんも、自分の人生と重ねて、教会の歴史を振り返ってみられたらいかがでしょうか。その時、あなたは、どこに居て、何をしていたでしょうか。
第3は、このような歴史認識に立って、今この教会はどのような課題を抱えているのか、これからこの教会はどちらに向かって歩いて行かねばならないか、を「これからの教会のビジョン」として提示したことです。指針として「イエスの心を生きる」、ビジョンとして、@「安らぎのある教会」、A「喜びにあふれる教会」、B「開かれた教会」を掲げました。皆さんと一緒に何度も座談会を開き、検討を重ねましたが、言うまでもなく、このテーマはむしろこれからが本番です、課題を具体化し、少しずつでもビジョンに近づいて行きたいと思います。
第4は、写真を沢山入れ、見るだけで楽しく、また、既に逝去された方々についてもできる限りお名前が分かるように工夫しました。皆さんの、人生の一ページがそこにあります。
冒頭に引用し使徒パウロの言葉、「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」この言葉を、わたしたちへの言葉として聞けるような教会になりたいと思います。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。>[マタイによる福音書 22:37―39]
第一の掟、『神を愛する』とは、どういうことでしょうか。『神を大切にする』と言い換えた方が分かり易いかもしれません。でも、『神を大切にする』とは、と改めて問われると、また少し戸惑われるのではないでしょうか。
或る神学者は、『神への愛は、隣人への愛において具体化し、隣人への愛は、神への愛によって基礎付けられる』と言いました。
『神への愛は、隣人への愛において具体化する。』神はこの世のすべてを造り、その造られたものを愛されました。その中に、わたしたち人間も含まれています。そのわたしたちが神を大切にする、それは神さまが造られたものを大切にするしかないということです。つまり、「神への愛」と「隣人への愛」とは、別別のことではなく、一つのことだということです。
『隣人への愛は、神への愛によって基礎付けられる。』人間は、なかなか自己中心性から抜け出すことができません。わたしたちは誰も、純粋に隣人への愛だと思っていたものが、自分の心の奥底をのぞいてみると、そこにやはり自己中心的なものを見出して、心の暗部を暴露されたような嫌な気分を味われた経験をお持ちなのではないでしょうか。隣人への愛に生きようとしても、自分の力だけでは、そうできない自分を知らされます。
注目すべきことは、主イエスは、隣人への愛において、単に『隣人を愛しなさい』と言われたのではなく、『隣人を自分のように愛しなさい』と言われたことです。イエスは、「自分を愛するな」とは言われませんでした。イエスは、「自分を充分愛しなさい」と言われたのです。自分を愛することを前提にして、隣人を愛しなさいと言われたのです。 言い換えると、自分を愛することのできない人間が、隣人を愛することはできないだろうと言われているのです。その上で、自分を愛することが当然のように、隣人を愛することができないか、と問われているのです。
児童虐待が大きな社会問題になっています。その加害者の多くが子ども時代に、虐待を受けた経験があることが明らかになってきました。人の性格は3歳くらいまでに、遅くとも12歳くらいまでに形成されるといわれます。この時期に、両親、ことに母親の充分な愛情とスキンシップに恵まれなかった子供は、自分をこの世に不必要なものと考え、なかなか自分を肯定し、「自分を愛すること」ができなくなるといわれます。
大切なことは、「自分のために生きること」が「人のために生きること」が矛盾しないこと、それが一つになることです。主イエスは、「自分を愛し、自分のために人生を充分生きればよい、ただ、自分のために生きながら、かつ、その生き方が、人のためになる、そういう生き方をしなさい。それが神への愛ではないか」、と言われたのです。その意味で、「神への愛」、「隣人への愛」、「自分への愛」は、別々のことではなく、それらは深く繋がっており、一つのことなのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<王は、家来に言った。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい。」そこで家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入ってくると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」招かれる人はおおいが、選ばれる人は少ない。>[マタイによる福音書 22:8―14]
今日の聖句は、イエスが、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と語り始められた譬えの後半です。譬え全体の概要は次の通りです。
<ある王が、自分の息子の結婚の宴を催した。ところが、当日になって、予め招待しておいた人々が来ないので、呼ぶために家来を遣わした。しかし、招待されていた人々のうち、ある者はそれを無視し自分の仕事のために出かけてしまった。また、他の者は呼びに来た家来に乱暴を働いたうえ殺してしまった。そこで、王は憤り、軍隊を送り、招待していた町の人々をみな殺しにし、その町を焼き滅ぼした。そして、王は、婚宴の席を満たすために、家来を大通りに遣わし、見かけた人々を皆連れて来させた。王が、人々で一杯になった宴会場に入ってみると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、この者に「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と聞き、この者が黙っていると、王は、この者の手足を縛って外の闇にほうり出した。>
この譬えのどこが「天の国」なのでしょうか。通常、この譬えは、イスラエル民族の歴史を表していると考えられてきました。イスラエル民族は、神から選ばれた民族であるにも関わらず、常に神に反逆し、神から離れようとし、神から遣わされた預言者をことごとく殺してしまった。そして遂には、洗礼者ヨハネも殺し、イエスも殺そうとしている。しかし、皮肉なことに、この結果、イエスの死後、神の招きは全人類に及ぶことになりました。イエスの弟子たちによって、福音(良いしらせ)は全世界に広まることになったのです。今日の聖句の中にある「善人も悪人も」は、「ユダヤ人もユダヤ人以外の人も」ということを表しています。
イエスは問われます。「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか。」礼服は、何を意味しているのでしょうか。ある人は、「愛」を、ある人は「信仰」を、ある人は「喜び」を表していると言いました。礼服は、招かれた者にふさわしい「心の装い」を意味しているのです。
この譬えには、神の招きを拒否する二種類の人々が登場しました。最初から招きを拒否する人々と、招きには応じたが、それにふさわしい心の装いができていない人々です。神は、常にわたしたちを招いてくださっています。イエスの説く「天の国」は、大空にかなたにあるのでも、死んでから行くところでもありません。イエスは、「天の国は、今、あなたがたの間にあるのだ」[ルカ17:21]と言われました。わたしたちが、「天の国」を経験することができるどうかは、その招きに、今、ここで応じるかどうか、あなたがたの応答にかかっている、と言われているのです。
(牧師 広沢敏明)
――今日の聖句――
<老人を叱ってはなりません。むしろ自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟を思いなさい。年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。>[テモテへの手紙 5:1―2]
今日の礼拝の中では、特に、「主の家族である教会を、絶えることのない恵みのうちにお守りください」と祈りました。また、「今年の教会標語」では、その一つに、「互いの違いを受け入れ、活かし合い、神の家族としての交わりを育てよう」を掲げ、この1年のわたしたちが心がけるべき目標としています。
今日はバザーの日です。 バザーや、ファミリーキャンプは、教会が神の家族であることを実感するときであります。普段は、あまりそういう感覚をお持ちになっておられないかもしれませんし、家族というのは少々気持ち悪いと思われる方は、「仲間」だと思っていただければよいと思います。いずれにしても、教会が神の家族、あるいは仲間であることは、教会にとって本質的なことであります。
何度も申し上げていることでありますが、教会というのは、建物でも組織でも制度でもありません。「イエス・キリストを主と信じる者の集まり」であります。歴史的には、イエスの死後、一旦散り散りになった弟子たちは、再び集まり始めます。次第に、その人たちは、クリスチャンと呼ばれるようになります。クリスチャンたちは、日曜日毎に集まっては、説教を聴き、聖餐にあずかり、議論し、宣教に出かけました。その後、多くの人々が、洗礼を受けることによって、その仲間に加わっていきました。その時代から、クリスチャンになることは、教会の仲間に加わることを意味していたのです。
よくクリスチャンのあり方について、十字架の縦木と横木に譬えられます。縦木は、人と神の関係を表し、横木は、人を人の関係を表します。縦の関係だけでは、クリスチャンのあり方としては、その半分でしかありません。人と人との関係の中で、どう生きていくかが問われているのです。
今日の聖句は、教会における人と人の関係について、使徒パウロが弟子のテモテに当てた手紙の一節です。私も、65歳を過ぎ、老人の仲間入りをする年になりました。単に肉体の力が衰えるだけでなく、心の力も衰え、つまらない間違いをするようになります。そのような時、パウロは言います。「叱ってはならない。父親のように諭しなさい。」叱るのではなく、丁寧に説明しなさい、と言います。
教会に集まる人々は、完璧な人々ではありません、罪も犯しますし、間違いもします。しかし、教会は、その罪や間違いを叱るところではありません。そうではなくて、その罪や間違いを、家族としての愛情によって包むところです。教会の暖かさは、その豊かな愛情から生まれる暖かさです。時に、その暖かさに溺れてしまうことも無いわけではありませんが、そのために、その愛情を否定したり、無視することがあってはなりません。パウロの「老人を叱ってはなりません」という言葉は、神の家族として、教会らしい教会を目指す上で、基本的なことをわたしたちに教えてくれているのではないでしょうか。
(牧師 広沢敏明)
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