今週のメッセージ――主日の説教から


2005年9月25日(日)(聖霊降臨第19主日 A年) くもり
「 あなたは、兄か弟か 」

――今日の聖句――
<「「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい。』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうちどちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らは、「兄の方です」と言った。>[マタイによる福音書 21:28―31]

 今日の聖句は、「二人の息子の譬え」として、よく知られています。この譬えの内容は、極めて単純です。しかし、この譬えも読めば読むほど、そう単純でないことに気がつきます。イエスの譬えの凄さは、常に、読む者に対して、「あなたは、登場人物のうちの誰なのか」、「あなたならどうするか」を鋭く迫って来るところにあります。今、これを読んでいるあなたは、兄ですか、弟ですかと問われているのです。

 イエスは、この譬えを、祭司長や民の長老たち、つまりユダヤ教の指導者たちに語られました。イエスは、「この譬えの弟は、あなたがたのことだ」と言われたのです。しかし、祭司長たちには、その意図はすぐには見抜けませんでした。もし、その意図が分かっていれば、そう簡単には、「兄の方です」とは答えられなかったはずです。

 この譬えの核心は、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」というイエスの問いにあります。言うまでも無く、この「父親」は、「神」を指しています。「父親の望み」とは何でしょうか。それは、そのすぐ後に、このような言葉があることから知ることができます。

<はっきり言っておく。徴税人や娼婦の方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかったからだ。>

 繰りかえし「信じる」という言葉が出てきますが、ここでイエスが言おうとされたことは、「父親の望み」とは、「神を信じること」だということです。それでは、「神を信じること」とは、どういうことでしょうか。それは、「イエスの心を生きること」と言い換えることができます。「イエスの心を生きること」、そう簡単なことではありません。例えば、インドのカルカッタで路上で行き倒れになった人々のために尽くしたマザー・テレサ、黒人の人権のために戦い凶弾に倒れたキング牧師、アウシュビッツの収容所で人のために代わってガス室に入ったコルベ神父を思い起こしてください。

 これが「イエスの心を生きる」ことだとしたら、わたしたちは、神の望まれる通りには逆立ちしてもできない、正に、神の前に呆然として立ちすくむしかありません。しかし、わたしたちは一人では何もできないとしても、主イエスが共に働いてくださればできないことはありません。大切なことは、主イエスが共にいてくださることを信じて、今、ここで、わたしたちひとり一人が、何をすることが「神さまの望み」なのか、具体的に問いかけていくことではないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2005年9月18日(日)(聖霊降臨第18主日 A年) 晴れ
「 常識への挑戦 」

――今日の聖句――
<「『友よ、あなたに不当のことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前によさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」>[マタイによる福音書 20:13―16]

 今日の聖句は、「ぶどう園の労働者の譬え」と言われる譬え話の結論に当たる部分です。

 <あるぶどう園の主人が、夜明け、朝9時、正午、午後3時、午後5時の5回に亘り、広場に出て行って労働者を雇いぶどう園に送った。一日に労働が終わって賃金を支払うとき、主人は、最後に雇った者から始めて最初に雇ったものまで、皆に約束どおり1デナリオンずつ支払った。最初に雇われた労働者はこれを見て不平を言った。「まる1日、暑い中辛抱して働いた者と、最後に来て1時間しか働かない者とが同じ1デナリオンというのは不公平ではないか。」これに対して主人が答えた。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。」>

 わたしたちは、この譬えを聞いて、ある種の困惑を覚えます。それは、この譬えがわたしたちの常識に反しているからではないでしょうか。それは、人間の価値は、働きの成果とか能力によって計られるという考え方です。経済的合理主義・業績主義ともいわれます。
 イエスは、この常識に対して、自分の存在をかけて挑戦しょうとされたのです。

 当時のイスラエルは、ユダヤ古代史の中でも、失業者が最も多く出た時代の一つであったそうです。多くの人が日雇い労働者として、辛くも生活を保っていました。更に、彼らをもっとみじめにしたのは、当時のユダヤ教の律法主義でした。ユダヤ教は、律法を守れない人々に「罪人」の烙印を押しました。毎日の食事すら充分でない彼らに律法を守る余裕はありませんでした。安息日は煮炊きしてはならないといわれても、その日暮らしの彼らには、その日得た食物を調理しない限り命をつないでいくことができなかったのです。彼らは、好んで「罪人」になったのではなく、「だれも雇ってくれない」から「罪人」にならざるを得なかったのです。

 イエスは、人間は、すべてその存在において平等であり、律法はそれを保証するものでなければならない。しかし、その律法に従うことのできない人々を、「罪人」の烙印を押す。それが律法だとすれば、そのような律法は廃棄されねばならい。経済的な常識も、それが、人間の存在を許さないものであれば、その常識的判断は根底から覆さなければならない、と考えられたのです。

 夕暮れになっても、誰も雇ってくれず、職を得られぬまま、家でお腹をすかして帰りを待っている妻や子供のことを思いながら、立ち尽くしている労働者には、絶望が支配し始めていました。その時、声をかける人がありました。「今からでもよいから来て働いてみたらどうだ。なぜ絶望しょうとしているのか、あなたは何の役に立たないことは無い、わたしのぶどう園では、あなたも一人前に扱われる。」彼にとって、「ぶどう園とその主人」は、正に「天の国(神が支配する国)」でした。この譬えが、2000年後の現在も、決して他人事ではないことを心に留めたいと思います。

(牧師 広沢敏明)


2005年9月11日(日)(聖霊降臨第17主日 A年)
「 負債六千億円を帳消しにされた者 」

――今日の聖句――
<そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」>[マタイによる福音書 20:13―16]

 今日の聖句に続いて、イエスは一つの譬えを話されます。

 <或る家来が王様に1万タラントンの借金をしていた。返済の期日が来て、王はすべての持ち物を売り払ってでも返すように命じたが、その家来は返済できなかった。その家来が王に向かってひれ伏し、期日を延期してくれるように願ったので、王は憐れに思いその借金を帳消しにした。ところが、その家来は、仲間の一人に百デナリオンを貸していた。その仲間は返済できず、ひれ伏して延期を願ったが、その家来は承知せず、捕まえて牢に入れてしまった。王はこの話を聞いて怒り、その家来を牢役人に引き渡した。>

 1タラントンというのは、聖書の後ろにある通貨換算表によりますと6千デナリオンです。1デナリオンは、1日分の賃金と言われていますから、1日の収入を1万円としますと、1万タラントンは、現在の日本円に換算しますと約6千億円という膨大な金額になります。これに対して、その家来が貸していたのは、百デナリオンですから、約1百万円です。

 つまり、この家来が、借りていた金額が6千億円、貸してた金額1百万円、この金額の違いがこの譬えを解く鍵になるように思います。何を意味しているのでしょうか。それは、わたしたちが、人に貸していること、或いは人から負わされた傷はよく覚えているということです。小学生や中学生時代、いじめられたり、悪口を言われたこと、それが何十年の昔のことであっても、その場の情景や言葉の抑揚までありありを覚えていることがあります。それが、1百万円の貸しがあると言うことです。

 これに対して、自分が負っている負債や、自分が人に負わせた傷はほとんど覚えていないのではないでしょうか。小学生や中学生時代、自分の言った言葉が友人をどのくらい傷つけたか、そのようなことをありありを覚えている人はいないでしょう。普通、自分の言葉が、友人を傷つけたのか傷つけていないのか,それを感じ取ることすら大変難しいことです。しかし、友人を傷つけたことなどまったく無いと言い切れる人がいるでしょうか。また、わたしたちが、現在にまで大きく成長する過程で、両親始めどのくらい多くの人の世話になったか、大体そんなことは忘れてしまって、ひとりで大きくなったような気持ちでいるのではないでしょうか。それが、6千億円の負債を負っているが、その返済は帳消しにされていると言うことです。

 主イエスは、弟子たちに、「これは、あなたがたの物語だ」と言われました。それは、また、「現代のわたしたちの物語」でもあるということです。 つまり、わたしたちがこの物語を、日常生活の実感として、現実からかけ離れた迂遠な話として聞くか、ひりひりと傷口が痛むような話として聞くかということです。赦しの問題の核心は、7回赦すか、7の70倍か、そういう回数の問題ではなく、わたしたちが、いかに多く赦されているかということにどのくらい敏感になれるか、そして「赦された者として、どう生きるか」ということではないでしょうか。

(牧師 広沢敏明)


2005年9月4日(日)(聖霊降臨第16主日 A年) くもり
「 心を一つにする 」

――今日の聖句――
<「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」>[マタイによる福音書 18:19―20]

 わたしたちが、信仰に生きようとするとき、だれもが一度となく抱く疑問があります。それは、「主イエスは、本当にわたしたちと共にいてくださるか」、「わたしたちの祈りは本当に聞かれるか」という疑問です。わたしたちは、平和を祈願しますが、こうしている今も、世界のどこかで戦争が行なわれています。

 「神は共にいてくださる」という言葉は、旧約、新約聖書を通して聖書の最大のメッセージですが、わたしたちが心に刻んでおきたいことは、「主イエスが、わたしたちと共におられること」は、主イエスの生前の約束だ、ということです。

 今日の聖句に次のような言葉があります。
 <「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 この言葉は、わたしたちが教会ということを考えようとする場合、どうしても避けて通ることのできない言葉です。教会は、建物でも制度でもなく、「主イエスの名によって集まる集まり」そのものを表しています。そのとき、主イエスは、「わたしもその中にいる」と約束してくださっているのです。

 そうすれば、そのとき、その集まりにどういうことが起こるのでしょうか。もう一つの言葉に注目したいと思います。
 <「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

 「心を合わせて」という言葉に注目したいと思います。原典では、シュンフォネオーという言葉が使われています。英語のシンフォニー(交響曲)の元になった言葉です。「響きを共にする、合わせる」という意味です。交響楽には多くの楽器が用いられます。派手な楽器もあれば、地味な楽器もあります。常に鳴っている楽器もあれば、一曲の中でただ一度しか鳴らない楽器もあります。しかし、どの楽器も独自の音色を持っており、不必要な楽器は一つもありません。

 教会は、主イエスの名によって集まる。これだけが共通点です。そのほかは、すべて違います。音色も、音量も違いますが。皆が、心を合わせて祈るなら、「どんな願いも必ず聞かれる」と約束してくださったのです。わたしたちは、勝手な思いつきの願いをしようとは思いませんが、仮に、わたしたちの祈りが神の目から見て身勝手な祈りになっていたとしても、神はわたしたちの祈りに勝る仕方で、その祈りに答えてくださるのです。なぜなら、今、ここに、主イエスが共に祈っていてくださるからです。この教会は、11月に創立70周年を迎えますが、これからどんな音が鳴り出すのでしょうか。主イエスは、心を一つにしなさい、響きを合わせなさい、そうすれば、そこに素晴らしい教会が生まれる、と約束してくださっています。

(牧師 広沢敏明)


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Last Update Oct/03/2005 (c)練馬聖ガブリエル教会